02
辿り着いた家に駆け込むなり、ベルルシアは母親の居室へと転がり込んだ。
「おやまあ、ベル。やっぱり上手くいかなかったの?」
膝に縋りついてすすり泣き始めた娘に対し、クレヴァリー夫人は穏やかに問う。
「お父様にお願いして、事情を説明してもらいましょう。ベルルシア、あんなに高い熱を出したのだから、あなたが今生きているだけで十分だわ」
幼子のように頭を撫でられ、ますます涙の勢いが増した。 ベルルシアは袖に顔を突っ伏した。
「仕事のこと、思い出せませんでした……何も……」
「大丈夫よ。忘れてしまったのには事情があるのだから、また覚えればいいだけ」
しゃくり上げながら悔しそうに嗚咽する娘を優しく宥め、クレヴァリー夫人はそっとベルを鳴らして使用人を呼ぶ。
用意させたホットミルクを飲ませると、ベルルシアの気分が落ち着くのを見計らい、夫人は娘に着替えを促した。
城で何があったかを娘から聞き出しつつ、娘の行動を促す手腕は流石のもので、ベルルシアは気がつくと自分の寝台の上で、いつでも寝られるような格好になっている。
「では3日は謹慎なのね。分かったわ。その間は少し休みなさい」
「でもお母様、そうしたらもっと仕事の遅れが取り戻せなくなります……」
「そうかもしれないわね。でも、今のあなたには必要よ」
クレヴァリー夫人はそう言うと、デスクの上に積まれた本や書き付けを抱えて、魔光灯を消して出て行ってしまう。
寝台に残されたベルルシアは、諦めて大人しく横になった。
「お母さまをずいぶん煩わせてしまったわ……」
窓の外はもうすっかり夜闇が落ちていて、夜鳥の声が遠く聞こえてくる。
子供みたいに何時間もグズグズと泣き喚いていた事に、今さらベルルシアは恥ずかしくなった。静かな暗闇の中、枕を抱いてシーツを頭まで被る。
落ち着くために深く吸った息は、吐く時には溜息じみたものになった。
(こういう時間があると――やっぱり、思い出してしまいますね……)
どうしても思い出してしまうから、戻ってからずっと、眠気の限界まで仕事のことを考えていた。
だが躍起になっていた目の前の問題は、完全な失敗という形で片付いてしまった。
(謹慎を命じられた今はむしろ、目を逸らさずに整理をつけるべきなのかもしれません)
目を瞑るだけで、瞼の裏には容易くそれが蘇る。
3年間、異世界を生き抜くために駆け抜けた日々が。
『ベルルシア、足掻く事をやめるな。生きて帰るんだろう?』
全身の痛みに喘ぎ、蹲るベルルシアに対して、その女騎士は鮮やかな緑のマントを翻しながら言う。
何度も何度も。死にかけるたび、諦めかけるたびに、彼女はその言葉を言う。
『思いを燃やして命に焚べろ。生きてる限りは、私が助けてやれるんだ』
そうしてベルルシアを支え、守り導いてくれた彼女は、この世界には存在しない。
「……レイネ様」
ベルルシアは宝物に触れるかのように、そっと彼女の名を呼んだ。
◆
こちら側では、まだたった15日前の事だ。
廷臣貴族を集めた王の晩餐会に、女官となったベルルシアも列席していた、その最中だった。
何の前触れもなく、ベルルシアは異世界へと飛んだ。
纑夥というその地は、魔人と呼ばれる人型の魔獣が存在し、領域を巡って人と争い続ける世界だ。魔術で魔人に劣る人は武術と集団戦を対抗手段として鍛え、騎士団を結成して各地の戦場に身を投じていた。
土煙と轟音に満ちた荒野へと身一つで放り出され、そこが戦場の只中だと察する頃には、温室育ちの貴族の娘であるベルルシアは死に掛けていた。
それを見つけて助けてくれたのが、レイネという女騎士だった。
レイネが属する翠玉騎士団は、行く宛ての無いベルルシアを受け入れ、異世界を生き残るための術を叩き込んでくれた。
幾つもの戦いを潜り抜け、親しくなった人の死をたくさん見送って。
そうしてベルルシアは、その世界で3年を生き抜いた。
帰還もまた、来た時と同じく唐突だった。
翠玉騎士団が長年追っていた、異名持ちの魔人を打ち倒した。
レイネが魔人にとどめを刺した瞬間、ベルルシアの視界は暗転し――次の瞬間には、王の晩餐会へと戻っていたのである。
混乱したベルルシアは早々に家へと引き上げた。
そうしてその晩、3年分の記憶に頭が悲鳴を上げたかのように高熱を出し、寝込むことになった。
侍女の実務をほとんど忘れてしまったのは、熱のせいではなく、ベルルシアの体感で実に3年ぶりの出仕だったせいだ。
資料の在処、細かな資料の様式、仕事の段取り。
何もかも、ベルルシアの中では遠い過去の話だった。
休暇明けに仕事をこなすべく、ベルルシアは必死にあれこれ調べたり思い出そうとした。
だが王宮の現状に関わる実務の事などそう簡単に分かる筈もない。
結果が3日の謹慎、という訳であった。
──侍女官長の怒りから、連想するように帰路での事を思い出して、ベルルシアはそっと拳を握る。
考えないようにしていた事だが、異世界の事は全てベルルシアの妄想という可能性もあった。
だがあの酔っ払いの男を振り払う時、ベルルシアの身体はごく自然に動いた。
文官貴族の子女として育ち、女学院を出て女官となったベルルシア・クレヴァリーには、当然ながら体術の心得など無い。
それが人一人を容易く制圧したとなれば、戦う術を得たあの異世界での経験は、夢や妄想などではない、という事になる。
ベルルシアは自分の身体に宿る魔力を探った。
こちらの世界に、魔人は存在していない。
――全員が魔力を持ち、才を研鑽すれば魔術を操れるこちらの人々の事を、レイネ達はもしかすると魔人と呼ぶかもしれない。
身に宿る力を魔力と知らず、循霊力と呼んでいたそれを、異世界の人々は魔術のように放出するのではなく、身の内で練って身体を高度に強化し、より強力な武術を扱う方へと向けた。
その武術体系を、魄練術という。
ただそこに在るだけだったはずのベルルシアの魔力は、呼吸一つで身体中をうねりながら巡り、その性質を魄気と呼ばれる状態にまで練り上げている。
「……やっちゃってます、ね」
ベルルシアは渋面を浮かべた。
もっと早く気付くなり、確かめるなりするべきだった。
循霊力の在る限り、意識せずとも常に魄練を行い続ける事。
文字通りの常在戦場を旨とする騎士団の魄練術を叩き込まれたベルルシアは、息をするように魔力を身体に流し、魄気を練り続けていた。
長い距離を歩いた帰路が、なんの苦でもなかったのはこのせいだ。
ベルルシアが行軍で歩き慣れてしまった以上に、疲れず足も痛まない事が理由だった。
(異世界に行ったのが、精神だけでよかった……)
自分がとんでもなく迂闊な行動をしていた事に気がついて、背筋が寒くなる。
魄練術を強くするのは、澱みない魔力の流れと鍛え上げた肉体である。
もしもベルルシアが、異世界での日々を過ごした身体ごとこちらの世界に戻ってきていたとしたら――あの酔っ払いをはずみで殺してしまっていたかもしれなかった。
(せっかく、平穏な暮らしに生きて戻ってこられたのですから……もっと気をつけなくては)
忘れてしまいたいなどと、思いたくはない。
であればなおさら、異世界で変わってしまったもののことは、慎重に隠す必要があった。