第9話 ミレイユの怒り
次の日の朝、ケヴィンと顔を合わせるのが憂鬱なエディーナだったが、ミレイユの世話をしない訳にもいかず、仕方なく部屋を出た。
「おはよう、お姉様」
まだ眠っているミレイユに声を掛けると、ミレイユの目がパチリと開いた。
「おはよう、エディ」
いつもは朝ぐずぐずとベッドから降りないミレイユだが、今日はさっさと起き上がる。
「あ、もう、ベッドから降りる?」
「早く着替えてケヴィンに挨拶しなくちゃ」
「そうね……」
機嫌良くそう言うミレイユに、車いすを持っていくと、自力で立ち上がり座る。
「昨日は疲れてしまって1曲しか踊れなかった。もっと歩けるようになれば、ケヴィンともっと踊れるわよね」
「え、ええ……」
今まで見たことがないほど前向きなミレイユの様子に、エディーナはぎこちなく返事をする。
(よっぽど昨日が楽しかったのね……)
こんなに上機嫌なミレイユは久しぶりだと、エディーナは余計なことを言わないでおこうと決め、黙々とミレイユの着替えを手伝った。
そうして食堂にミレイユを連れて行くと、まだケヴィンの姿はなく内心でホッとした。
「なんだ、まだケヴィンは来ていないのね」
「昨日は遅かったし、少しゆっくりしてるんじゃない?」
「ああ、それもそうね」
ミレイユがいつも食べる料理を皿に取り分けながらエディーナが答える。朝食は二人揃って食べる訳ではないので、ミレイユが食べ始めていると、そこにケヴィンがあくびをしながら現れた。
「おはよう! ケヴィン!」
「……ああ、おはよう」
ミレイユが笑顔で挨拶をするが、ケヴィンは適当に返答し、皿を手に取る。
「……お、おはよう、ケヴィン」
エディーナがどもりながらも小さな声で挨拶をすると、ケヴィンがこちらを向いた。
「おはよう、エディ。昨日はよく眠れたかい?」
「え、ええ……」
「昨日はすまなかったな」
「え? あ、いえ……」
まさか謝ってくるとは思わず、エディーナが思わず顔を上げると、ケヴィンと目が合った。
真っ直ぐに見つめてくるケヴィンの目をまともに見てしまい、エディーナは動揺してしまう。
「少し飲み過ぎた。酒はほどほどにするよ」
「え、ええ……」
笑顔でそう言うケヴィンになんと返していいか分からず、エディーナはあやふやに頷くことしかできなかった。
「エディ、グラスを取って」
「あ、はい!」
ふいにミレイユに言われて視線を移したエディーナは、慌ててグラスを取るとミレイユの前に置く。
エディーナは酷く気まずく感じて、できるだけケヴィンに視線を合わせないように、ミレイユの世話に集中している振りをした。
食事がやっと終わり部屋に戻ると、エディーナはこっそりと溜め息を吐いた。
「エディ、本が落ちたわ。拾ってちょうだい」
「はい」
ソファに座って本を読んでいたミレイユの足元に本が落ちている。お茶の準備をしていたエディーナは手を止めると、ミレイユの足元に腰を屈めて手を伸ばした。
その途端、突然ミレイユに頬を打たれた。痛みに顔を歪めてミレイユの顔を見上げる。
「な、なんで……、お姉様……」
「昨日、ケヴィンと何かあったわね!?」
「え……」
「私が寝てる間に、ケヴィンに色目を使ったんじゃないの!?」
目を吊り上げて怒るミレイユに、エディーナは慌てて首を振る。
「そ、そんなことしてないわ!」
「嘘よ! あなたもケヴィンもおかしな空気だったじゃない!」
図星を指されて思わずエディーナは黙ってしまった。
「やっぱり何かあったのね!?」
「な、何もないわ!」
「どんなにあなたがケヴィンを誘惑したところで、あなたはもう使用人の妻なのよ! 貴族でもなんでもない! ケヴィンと一緒になろうなんて無理なんだから!!」
あまりの言葉にエディーナは無言で立ち上がると、部屋を飛び出した。
ジンジンと痛む頬を押さえて走ると、みるみる涙が溢れてくる。そのまま庭に出て大きな木の陰に座り込んだ。
(あんな言い方、酷過ぎる……)
何度涙を拭っても、涙がこぼれて止まらない。
ケヴィンに色目を使ったなんて酷い侮辱だ。自分のことをまったくミレイユは信用していない。これだけ尽くしているというのに、生まれた時からそばにいて、ずっとミレイユのために生きてきたのに、それが完全に否定されているようで悲しくて悔しかった。
(あなたが私をここに連れて来たんじゃない……)
ケヴィンのことも諦めて、ここに暮らすことに必死で慣れようと頑張っている自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
何のための、誰のための努力なのか。
「ノクス、私はどうしたらいいの?」
ポケットから猫の人形を取り出し話し掛ける。
白いボタンでできた目を見つめて、エディーナは鼻をすする。
「もう家に帰りたい……。でもお母様もお父様もきっと許してくれないわよね……」
『ミレイユに帰りたいって言ってみれば?』
「お姉様は……許してくれるかしら……」
『ミレイユはもう子供じゃないよ』
「そう……、そうよね……」
頑張れば一人でだって歩けるし、手の麻痺はそれほど酷いものじゃない。本当は介助も必要ないくらいなのだから、エディーナがここから去ると言えば、ケヴィンのこともあるし、もしかしたら快く送り出してくれるかもしれない。
ミレイユがエディーナは必要ないと言ってくれさえすれば、両親も納得するかもしれない。
「ノクス、ありがとう」
『どういたしまして』
やっと気持ちが落ち着いてきてノクスに微笑み掛けると、背後から足音が聞こえてきた。
振り返るとフィルが驚いた顔をして走り寄る。
「どうしたんだ!? その頬!」
「あ、えっと……」
「真っ赤じゃないか! 打たれたのか?」
「うん……、ちょっとお姉様を怒らせちゃって……」
エディーナの言葉に、フィルは眉を寄せると「ちょっと待ってな」と言って、どこかに走って行った。
すぐに戻ってくると濡れたハンカチを頬に当ててくれた。
「そのままじゃ腫れてしまう。これを当ててな」
「ありがとう、フィル……」
ひんやりと冷たいハンカチに笑みを浮かべてエディーナが感謝すると、フィルはじっと目を見つめてきた。
「昨日のことか?」
「うん……。私がケヴィンに色目を使ったって……」
「そんな……、エディは悪くないだろ?」
「うん……」
エディーナの小さな返事にフィルは溜め息を吐く。
「ミレイユ様は君と姉妹なのに、まったく似ていないな」
「そうかしら……」
「見た目もだけど、性格が全然違う」
「それは当たり前よ。姉と妹じゃ全然立場が違うもの」
「そういうものか?」
「うん……」
ミレイユは長女で可愛がられて育ってきた。怪我のこともあって両親から溺愛されてきたのだ。自分とはまったく違う。性格が違うのはそのせいだろう。
「しばらくは旦那様の近くにはいかない方がいいな」
「そうね。そうするわ……」
それが一番得策だろう。二人きりで会わなければミレイユも怒ったりはしないはずだ。
エディーナが素直に頷くと、フィルはどこか安堵したような顔をした。
◇◇◇
夜、ミレイユが寝た後、自分の食事の準備をしていたエディーナに、ノアが声を掛けた。
「エディーナ」
「お義母様、どうなさいました?」
「お茶を頂ける?」
「分かりました」
珍しく部屋から出てきたノアは、ゆっくりとイスに座る。エディーナは手早くかまどの火種を大きくするとポットを掛けた。
フィルはまだこちらには戻っていない。夜は大抵かなり遅くまで仕事をしていて、一緒に夕食を取れることは滅多にないので、エディーナはいつも一人で食事を取っていた。
すぐにお湯が沸き、ティーポットを用意するとお湯を注ぐ。その様子をじっと見ていたノアは柔らかく微笑んだ。
「手際がいいわね」
「ありがとうございます。ジャムも入れますか?」
「いいえ、このままでいいわ」
少し紅茶を蒸らした後コップに注ぐと、ノアの前に静かに置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
ノアは一口紅茶を飲むと、エディーナの顔を見てまた微笑む。
「美味しいわ」
「良かった」
「食事の手を止めてしまってごめんなさいね。どうぞ食べてちょうだい」
「あ、はい」
ノアの言葉にエディーナは頷くと、ノアの正面に座り夕食を食べ始める。
「だいぶここの生活にも慣れたようね」
「はい。おかげ様で……」
「貴族のお嬢さんが息子と結婚だなんてって思っていたけど、あなたはよくやっているわ」
「お義母様……」
今までエディーナとはあまり話さず一線を引いていたノアの優しい言葉に、エディーナは思わず顔を見つめた。
水色の美しい瞳がエディーナを見つめ返して微笑む。
「あなたは普通の貴族のお嬢さんではないようね」
「そう、でしょうか……」
「事情は少しだけフィルから聞いたわ」
母の甲高い声とは違う、少し低い落ち着いた声は、なんだかずっと聞いていたくなるような気がしてくる。
「フィルはどう? あなたに迷惑を掛けていないといいんだけど……」
「そんな……、私こそ、フィルにはいつも迷惑ばかり掛けてしまっていて、心苦しいばかりです」
エディーナは慌ててそう言うと、視線を下げた。
(本当に助けてもらってばっかりで、鬱陶しく思われていないかしら……)
きっと今まで従者として立派に仕事をしてきたのに、自分がそばにいて邪魔だと思われていないだろうか。
そんな考えが頭に浮かんできて、エディーナは無意識に溜め息を吐いた。
「エディーナ?」
「あ、ごめんなさい……」
「疲れてるのね。早く休むといいわ」
「お義母様、あの……、フィルは私のこと……」
(どう思ってくれているんだろう……。主人に突然押し付けられた貴族の娘なんて、迷惑でしかないんじゃないかしら……)
最低限の自分の世話は自分でできるけれど、生活に関してはまだ色々なことをフィルに頼ってしまっている。
いつも優しい言葉を掛けてくれているけれど、内心ではどう思っているのか、エディーナはとても気になった。
「フィルの気持ちが気になるのね」
「あ、ご、ごめんなさい……。その、今のは忘れて下さい」
こんなことをノアに聞いても仕方ないと首を振ると、ノアはふっと優しく笑った。
「フィルは、あなたのこと、気に入っているようよ」
「ほ、本当ですか?」
「ええ。口には出さないけれどね」
楽しげに笑ったノアの顔を見て、エディーナは胸に手を当てた。
安堵と嬉しさが綯い交ぜになった気持ちが溢れて、心が温かくなってくる。
「……最初は無理だと思ったけど、あなたならフィルとやっていけるかもしれないわね」
「お義母様……」
ノアの優しい言葉に、エディーナはそれまでの苦労が報われたような気がした。