第23話 間抜けな私
ケヴィンの部屋に入った時、強い酒の匂いがした。ソファに座るケヴィンの顔は赤らんでいて、目が座っている。
執事がいるとミレイユは言っていたけれど、部屋を見渡してもケヴィン以外誰もいない。
「あ、の……、ヘインズさんは?」
「ヘインズ? ヘインズならさっき出て行ったが。それよりこちらに来い」
「い、いいえ……。私はここで……。あの、お話って……」
「ああ、そうだな。エディの気持ちはよく分かったよ」
「え?」
笑みを浮かべて言ったケヴィンの言葉の意味が分からず、エディーナは声を漏らす。
「私も同じ気持ちだ。色々なことがあってめちゃくちゃになってしまったが、元々私たちは心が通い合っていたんだ。やはり切れない絆があるんだな」
「……どういう意味ですか?」
しみじみとした風に言うケヴィンに訳が分からず訊ねると、ケヴィンはエディーナの目を見てふっと笑った。
「恥じることはない。心に正直に生きる方が幸せになるにきまっている。エディの気持ちを私は嬉しく思うよ」
「だからどういう……」
「あの時のことは私も謝るよ。どうしてもあの時はこうするしかなかった。許してほしい」
「ケヴィン……」
ケヴィンの言葉に、エディーナは手を握り締める。
「ミレイユの口車に乗ってしまった自分が悔しい。エディにはいらぬ苦労をさせたな」
「わ、私……、本当に悲しかった……。あなたに裏切られて……、その上、お姉様と一緒にこの家にこさせられて……」
「ああ……。辛い日々だったな。だがそれも間もなく終わる」
「ええ……。私、色々、本当に色々あったけれど、あなたとのこと、後悔したことはないの」
エディーナはやっとしっかりケヴィンを見ると、静かに言った。
「お姉様のお世話しかしてこなかった私の人生に、あなたが華やぎをくれた。あなたと出会って、私の存在意義はお姉様のためだけにあるんじゃないと思えた。そのことには本当に感謝してる」
「エディ……」
「ケヴィン、私を見つけてくれてありがとう」
たくさん言いたい恨み言を飲み込んで、エディーナは感謝を伝えた。
(ケヴィンのしたことを許せそうにはないけれど、恨みを言ったところで過去は変えられない……)
ここに来なければフィルに会うことはなかったのだ。自分の運命を変えたのは、確かにケヴィンなのだ。
エディーナがそう言うと、ケヴィンはゆっくりと立ち上がりそばに歩み寄る。
「じゃあ、もうこれで仲直りだな」
右手をスッと差し出すので、その手を握り返したエディーナだったが、そのまま抱き締められて驚いた。
「ケ、ケヴィン!?」
「私がフィルに負ける訳ないと思っていたよ。君を本当に心から思っているのは私だからね」
「は、離して!!」
慌てて体を離そうとするが、強い力で抱き締められてしまって逃げられない。
頬に酒臭い息が掛かってゾッとする。
「君が庶子だと聞いて君との未来がもうないのだと本当に落胆したが、君が愛人でいいというならずっと一緒にいられる」
「愛人!? 何を言っているの!?」
「恥ずかしいから私に直接言えなかったのだろう? でも大丈夫だ。貴族の男は大抵愛人の一人や二人いるものだ。社交界でも立場が悪くなることもない。堂々としていればいい」
ケヴィンの発言に驚き目を見開く。
(愛人!? 私を愛人にするってこの人言ってるの!?)
「ずっとここに住んでもいいし、別邸が欲しければ良いところに家をやる。どうだ?」
「どうだじゃないわ! 離してったら!!」
「嫌がる振りはもうしなくていいんだよ、エディ。ミレイユもいなくなるんだ、遠慮しなくていい。昔と同じように仲良くしよう」
「やめて!!」
背中をなぞるように手を動かされて、鳥肌を立てたエディーナは悲鳴を上げて体を捻った。
その途端、足がもつれてその場に倒れ込む。一緒に倒れてきたケヴィンに押し潰される格好になって、エディーナは両手を突っぱねた。
「離れて!!」
「庶子では妻にさせられないが、愛人なら世間からも受け入れてもらえる。安心しろ」
「庶子だから……」
ケヴィンの言い様にエディーナはそれまでの恐怖よりも怒りが沸いてきて、バタバタと動かしていた手を止めた。
「エディ、やっと触れられるな」
「馬鹿にしないで!!」
エディーナは大声でそう言うと、ケヴィンの頬を力いっぱい打った。
驚くケヴィンの目を間近で睨み付け、声の限りに叫ぶ。
「いい加減にして!! あなたはお金目当てに私からお姉様に乗り換えて、その上自分の家の使用人と結婚させた! お姉様がいながら私にも手を出して、あげくに庶子だから愛人ですって!? 笑わせないで!!」
ケヴィンがポカンと自分を見つめる間抜けな顔を見て、はらわたが煮えくり返る思いだった。
「身分やお金に惑わされて気持ちが変わるなんて、そんなものは愛じゃないわ! あなたは結局私を本当に愛してなんていないのよ!!」
今まで生きてきた中で、人に向かってこれほど怒鳴ったのは初めてだった。気持ちをぶちまけてどこかすっきりした気持ちさえエディーナは感じた。
ケヴィンは唖然とした顔をしていたが、徐々に顔を歪めると怒りに目を吊り上げた。
「私がこれほど譲歩してやっているというのにお前は……!!」
ケヴィンはエディーナの両腕を掴むと顔を近付けてくる。
「いや!! やめて!!」
ケヴィンが何をしようとしているのかを悟ったエディーナは必至で抵抗する。けれど掴まれた腕はびくとも動かず、どうにも逃げられない。
脚をバタバタと動かすと、ケヴィンは舌打ちして片手を離し太ももを掴んだ。
「触らないで!!」
恐怖と嫌悪感で涙を浮かべながらも、解放された右手でケヴィンの顔を力いっぱい押し退ける。
それでもケヴィンは諦めてくれず、体を弄る。
「大人しくしろ! もし子供ができれば、私はお前の親のように酷い扱いはせぬ。第一子として必ず良い暮らしを保障してやる」
「なにを言って……!!」
ケヴィンは歪んだ笑みを浮かべてそんなことを言ってくる。エディーナはもう何を言ってもケヴィンを止めることはできないのだと愕然とした。
「エディ、愛しているよ」
「いやぁ!!」
耳元でそう囁くとケヴィンが首元に顔を埋めた。圧し掛かられた体の重みから逃げられず、パニックになったエディーナは手をバタバタと動かすしかできない。
結い上げていた髪も崩れてボロボロになっている。その髪の中から簪が滑り落ちた。床に転がった簪は、本当の母親が形見に置いていってくれたものだ。それが目に入った途端、エディーナは覚悟を決めた。
簪を拾い上げると、ギュッと握り締める。そうして熱を持ったように熱く感じる簪を振り上げた。
その瞬間、雷鳴のような激しい音が部屋に響き渡った。
あまりの音に驚き、エディーナは咄嗟に目を閉じた。地面が揺れたようにも感じて、体を強張らせたままじっとしていたが、しばらくしていつの間にか覆い被さっていたはずのケヴィンの重みがなくなっていることに気付いて、細く目を開けた。
「え……?」
エディーナがゆっくりと目を開けると、なぜかケヴィンが部屋の隅に仰向けに横たわっている。
(なにが起こったの……?)
目を閉じてぐったりとしているケヴィンを見つめながら起き上がったエディーナは、簪を握り締めている手がぶるぶると震えているのに気付いた。
体に残る恐怖が抜けず動けないでいると、廊下からバタバタと走ってくる音が聞こえバタンとドアが開かれた。
「エディ!!」
「フィル……」
飛び込んで来たフィルが、そのままの勢いでそばに走り寄るとエディーナの前に膝を突く。
「エディ、これはどういう……」
フィルはケヴィンに目をやって怪訝な顔をしたが、エディーナの姿を見て眉間に深く皺を寄せた。
「……まさか旦那様に?」
「フィル……っ……」
フィルの顔を見て一気に緊張が解けたのか、どっと涙が溢れてきた。
「エディ……」
「うっ……っ……うぅ……」
フィルの胸に額を押し付け歯を食いしばる。悔しくて悔しくてたまらない。
ミレイユの言葉を信じて、こんな簡単な罠にも気付けない間抜けな自分。ケヴィンの暴力にも抗えない非力さ。何もかもが悔しくて涙は止まらなかった。
フィルは衣服を直し、ボサボサになった髪を整えてくれる。そうして優しく抱き締めると、背中を撫でてくれた。
「何もされてない、よな?」
「……か、体……っ……触られた……だけ……」
嗚咽を漏らしながら首を振る。フィルは安堵したように息を吐くと、エディーナが握り締めていた手に触れた。
「これは……」
「お母様の……本当のお母様の……っ……、ケヴィンに……刺そうと思って……」
「そうか……」
エディーナはケヴィンの目を刺そうと思っていた。もうそれしかないと思った。人を傷つけたことなどないけれど、ケヴィンから逃げるためにはそうするしかなかった。
「旦那様!? こ、これは……」
複数の足音がすると、執事のヘインズとメイドたちが部屋にバタバタと走り込んでくる。
「ヘインズさん、旦那様を介抱してもらえますか? たぶん気絶しているだけだと思いますが……」
「分かった……。エディーナ様のことを頼めるか?」
「はい……」
フィルは頷くと、エディーナをゆっくり抱き上げる。
「行こう、エディ」
フィルの言葉にエディーナは声もなく頷くと、フィルの胸に顔を埋めた。
 




