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素性不明な隣人はお互い様~北条みことの事件手帳~

作者: HERB

 カレンダーを3月から4月に変えるときは、なぜか気持ちが心機一転する。日本では4月になれば年度が替わるためか、いわば1年間の区切りでもあるせいだろう。新年度には、入学や入社、転勤など、これまでとは異なる新たなライフサイクルを送る人も多数いるはずだ。自分はと言えば、これまでと生活サイクルは何ら変わらないが。

心機一転の代表例と言えば、引っ越しだ。桜の花びらが舞い散るこの季節に、俺の部屋の隣に引っ越してきた人間がいた。長いこと空き家になっていた隣の部屋に、ようやく入居が決まったのであった。

 東京23区内に建物を構えているにもかかわらず、1LDKで家賃は破格の6万円。もちろん、なぜこれだけ安いかにはそれなりに理由がある。築50年と言われているが、見た目は戦前を彷彿させる貧相な木造アパート3階建てだ。あと50年建物が持つことができれば、国の重要指定文化財にもなるくらいの歴史ある建物へと変貌するであろう。もっとも、隙間風があちこちから入るこの建物が、そこまで長く持つは思えない。数年後には、震度1の地震で倒壊することは避けられないに決まっている。

 そんなもの好きかいわくつきの人間しか入居していないアパートに、4月から入居する隣人が、ご丁寧にもあいさつにやってきたのだった。

「ごめんください」

 と、玄関から聞こえてきた声は、明らかに若い女性であった。

 突然の来客に、最初は一体何事かと思った。NHKの集金人がやって来たか、借金の取り立てか、警察の強制捜査か、マルサの女がかぎつけてきたか、あれこれ思考を巡らせたが、「引っ越しのご挨拶です」と聞こえたことで、ホッとした。なにせ、この家に用があるのは宅配業者くらいのものだ。意図しない来訪者にはどうしても警戒してしまう。

 ギイィィと、きしむ玄関のドアを開けると、そこには見た目20代後半から30代前半のスレンダーな女性が立っていた。見た目も悪くない。

 引っ越しのあいさつとして、タオルを渡され、「隣に引っ越してきたものです。今後ともよろしくお願いします」と、愛想のいい笑みを浮かべて、その女性は去っていった。

 あっけにとられていた俺は、一度状況を冷静に分析してみた。今日から壁を一つまたいで妙齢の女性がいるのだ。俺は興奮を覚えた。この建物の壁は薄いから、隣の声は筒抜けだ。なぜわかるかと言えば、反対の隣の部屋からはアダルトビデオで演技丸出しの女優の喘ぎ声がよく聞こえてくるためだ。もちろん、独身のさえないオッサンが住んでいる。それも、40歳を過ぎた引きこもりである。

 こんな劣悪な環境の中、女性の一人暮らしの声がただで聞こえるだなんて、なんて贅沢なんだ。

 狂喜乱舞している中で、一つの考えが頭をよぎった。

 なぜそのような女性が、こんなもの好きなアパートに引っ越してきたのだろうか。大家には失礼であるが。普通に考えれば、オートロックもないボロアパートに、港区女子のようなタイプの女性が好んで引っ越してくるだろうか。彼女が港区女子のタイプに該当するかはわからないが、俺が想像する港区女子のイメージと彼女の姿はよく似ていたからだ。

 もちろん、ここは港区ではない。だからと言って高級住宅街のイメージが強い世田谷区でも渋谷区でもない。東京23区と言っても、目の前の道路を横切れば別の市に成り代わってしまう。ネットでは『もはや○○県』『○○の住民は都民扱いするな』などと、揶揄されている始末だ。

 まぁ、しばらく様子を見よう。ここはホテルじゃないから、彼女がすぐにいなくなることもない。数か月くらいは住んでいるだろう。


 隣人が引っ越しのあいさつをしてから数日後、俺の中での疑念は一層出てきた。女性の隣の壁に聴診器を当てても話声のようなものは一切聞こえてこない。パソコンのキーボードをたたく音は聞こえてはいるが、それ以外の音はなく静まりかえっている。彼氏や女子会のようなものを開催されることもない。電話もしないのか? それとも、今どきの女子はメールで事済ませているのか。

 困るのは、聴診器から反対の隣のオッサンの部屋からご丁寧にも聞こえてくる、アダルトビデオの演技丸出しの女優の喘ぎ声だ。一体何回同じシーンを繰り返しているんだ、まったく。

 聴診器を壁に当てる生活を1週間続けるころに、あることが頭をよぎった。

 隣人はもしかして、この俺に気があるのではないか。

 誰も家に連れ込んでいないところを見ると、常にひとりで部屋にいるはずだ。もしかすると、隣人も俺と同じように聴診器で俺の部屋を探っているのか。これはまずいぞ。変なアダルトビデオを見ているのが俺だと思われてしまう。全く、隣のオッサンが余計なことをしでかすから、変に誤解を与えてしまったじゃないか。

 どうやって誤解を解こうか考えたが、もし彼女が聴診器を当てていなかったら、自分からアダルトビデオを見ていましたと自白することになる。自滅だ。だとすれば、ここは沈黙が正解か。


 月日が経つにつれて、隣人のことで頭がいっぱいになっていた。最早、まともに仕事に打ち込めない。このままでは日常生活に支障が出ていまう。

 どうせ会社に行かなくてもいいんだ。隙あらば、自分が素行調査をしたっていい。

 この時俺は思った。お金なら多少の蓄えがある。それなら、自ら素行調査に出ずとも、探偵を雇えばいいではないか。

 こうして俺は、あまりお金がかからなさそうな探偵事務所を探すことにした。正直、無駄なことにお金を使いたくはない。素行調査くらいなら、頭を使う必要はないから誰でもできるだろう。

善は急げと言うことで、早速探偵事務所に出向くことにした。


 午後1時23分。渋谷駅には平日の昼間だというのに、女子高生がアリの巣にいるアリのように大量にうろついている。この時間はまだ学校ではないのか。それに、明らかに高校生ではない茶髪の訳の分からんにーちゃんもごろごろいる。こいつらは一体何のために生きているんだ? やはり、渋谷は俺には合わない。だが仕方ない。一番最適な探偵事務所は渋谷のセンター街近くにあるのだから。

 ネットで見つけたのが、渋谷駅から旧センター街方面に歩いて一五分ほどの雑居ビルにある『北条みこと探偵事務所』であった。事前に建物の外観をネットで確認したが、まぁ、なんという昭和感満載な建物だろうか。このビルに入居している探偵なら、そこまで高額な請求はしないだろう。

 センター街を歩いていると、俺は明らかに浮足立っていたが、仕方あるまい。周りの目を気にしながら、どうにか目的地の雑居ビルにたどり着いた。写真でも明らかに寂れた雑居ビルであったのが分かったが、実際に目にすることで、尚更昭和感を肌で感じた。

 ビルの入り口ではチカチカと蛍光灯がフリッカを起こしており、壁にはあちこちにひびが入っていた。雑居ビルには探偵事務所のほかに、へんてこな占い館、個人経営の整体、3階の案内にはガムテープで覆いかぶせたもの。ビル自体が曰くつきであることに間違いない。やはり、このビルに入居している探偵も曰くつきか、貧乏探偵に違いない。案内板の最上階に、俺が目をつけた探偵事務所の『北条みこと探偵事務所』がばっちりと記載されていた。

 最上階までエレベーターで乗り込むも、今一調子の悪いエレベーターで、動き始めと停止時に衝撃がある。きっと、いつか故障するのがオチだ。やはり探偵もビルと同様に、貧相な奴に違いない。

 探偵事務所のある階に到着し、『北条みこと探偵事務所』の案内板を見つけ、ドアに向かった。とは言っても、このフロアは探偵事務所しか入居していないようだから、案内板の意味はないと思うが。

 ドアの横にあるチャイムを押した。さて、どんなさえない奴が出てくるのかお楽しみだ。

「あら、依頼人のかた?」

 現れたのは、貧相なオッサンなどではなかった。そこに現れたのは女性であった。それも妙齢の。見た目も悪くない。ファッション雑誌のモデルのようなルックスと服装。茶髪で肩より下までのパーマがかったロングヘアー。身長は一般女性よりも少し高いくらい。大きな瞳に完璧なメイク。おおよそ二〇代後半という年齢であろうか。ターゲットの隣人と同じ印象の女性であった。

 性別は気にもしておらず最初から男と勝手に思い込んでいたが、探偵がまさか女とは思わなかった。よくよく考えたら、みことと言う名前は女性に多い名前だ。さらに、想像していた探偵とは大幅に異なったことで、俺はあっけにとられていた。その姿がこっけに思われたのか、探偵の女は俺を凝視していた。

「悪いけど、この階は風俗店じゃないわよ。それなら6階にあるからそっちに行ってちょうだい。ただし、無許可営業だから取り締まりには気をつけてね」

「い、いえ。こちらの探偵事務所に用があります」

「そう、入り口は間違ってなかったのね。なら上がって」

 中々さばさばしているな。肝が据わっているというか、物おじしない性格だけでなく、初対面の人間に対して風俗店を案内するような女性は、そうはいない。いや、男でもなかなかいない。

 探偵の女は、俺を来客用のソファーへと案内した。紙コップに温かい日本茶を差し出してくれたのを見て、一応はお客様扱いをしてくれているのだと少しばかり驚いた。

「で、一体どんな依頼なわけ?」

「俺の家の隣人の、素行を調査してほしいんだけど」

 少しばかり間が開いたような気がした。

「で、その人はあなたとどんな関係なわけ?」

「隣人です」

「・・・・・・」

 探偵の女は目が点となっていた。

「つまり、あなたと接点はないってことね」

「だから、隣人と言う接点があります」

「そう・・・」

 探偵の女の空気が変わったような気がした。ようやく、俺の意図が伝わったか。頭が悪いんだよ。

「写真はあるのかしら?」

「これです」

 俺は持っていた封筒から、隣人の写真を取り出した。探偵に依頼するとなれば、当然顔写真の提供が必要となる。このことを想定した俺は、1週間前に隣人が外に出た瞬間を、自室から写真を撮ることに成功した。これは断じて盗撮などではない。れっきとした調査依頼に必要な資料だ。必要となる依頼の資料を、堂々と探偵の女に見せた。その時、探偵の女が何やら目を細めて怪しげに俺を見つめているような気がした。

「あなた、ストーカー? 悪いけど私、犯罪に加担するような真似はしないわ」

「ち、違う。俺は隣の人が気になって・・・」

「それをストーカーっていうのよ!」

「ち、違う。俺は隣の人が気になって・・・」

「さっきと同じセリフじゃない」

 鬼気迫るこの女は本当に探偵か? なんだか警察の取り調べを受けているようだ。

「まぁいいわ」

 探偵の女は俺が差し出した写真を、目の前に突き出した。

「それなら、この写真は何? どっからどう見ても盗撮じゃない。写真の中の彼女はカメラの存在には気が付いていないようね。構図的に、上から撮影されたものだわ。大方、あなたの部屋から外にいる彼女を撮影したのね。どっからどう見ても盗撮。状況証拠もある盗撮。唯一無二の盗撮。ディス・イズ・ア・盗撮!」

「まてまてまてまて!」

 俺は慌てて探偵の女の発言を制止した。

「私はてっきり、隣人から何かしらの被害を受けているとか、反社会組織の構成員なのか調べてほしいと思ったのよ。写真を見るまではね。それが出てきた写真が、あなたとはとても釣り合わない身分不相応で月とスッポンの例えにこれほどピッタリあてはまる高嶺の女性と来たものだ。つまり、これは明らかにストーカーだ!」

「だから・・・」

 これはまずい。探偵の女は俺をストーカー呼ばわりしている。何とかしなくては。

俺は1分間に3000回近くも回転する火力発電機のタービンのごとく頭をフル回転させた。そして、火力発電のおかげで頭の中の豆電球が見事に点灯し、運よく言い訳・・・もとい、依頼内容がひらめいた。

「ですので、このような女性が僕なんかが住むアパートに単身で引っ越してくるのが不思議なんです。普通の女性はいつドロボーに入られてもおかしくないこんなボロアパートなんかには入居するわけがありません」

「なるほど。確かに住民があなたのような人しかいないアパートに、この写真のような女性が入居してくるのは不自然ね。まるで安物のアダルトビデオの設定だわ。おおかた、『お醤油をお借りしてもよろしいですか?』とか言ってあなたの家に入っていいて、気が付いたらあんなことやこんなことをしているってストーリーを期待しているのかもしれいないけど、そんなこと夢のようなシチュエーションは永遠にないわよ」

 探偵の女は妙に納得しすぎているのが気に入らなかった。それになんだ、安物のアダルトビデオの設定とは何だ? 例えがずいぶん昭和臭いな。隣のオッサンでも、もう少し時代に近い内容のビデオを見ているぞ。

「まぁ、わかったわ。あなたのストーカー行為がバレても、私のことは一切口にしないことを条件に、依頼を引き受けてもいいわよ」

 殿様商売と言うか、どうしてお金をもらう側が上から目線なんだ。気が付けば自分の一人称の発言が俺から僕に変わっている。どこまで気弱な性格なんだ俺は。だが、ことはうまく運んでいる。提示された金額は申し分ない。事前にインターネットで他の探偵事務所と照らし合わせたが、この事務所はほんの少し安い。 

「では、依頼成立と言うことでいいな」

「は、はい」

 やれやれ、これでは一体どっちが依頼人の立場かわかったものではない。なぜ俺の方が下手に出なければならないんだ。だが、結果的には安い条件で依頼をすることができた。

「それじゃあ、これから2週間彼女を尾行するわ。その後、結果を報告するから、またこの事務所に来てね。わかった?」

「は、はい」

 もはや断る権利のないイエスマンと化していた。

 自分自身がみじめであることは察していたが、そそくさと探偵事務所から出ていった。



 調査依頼をしてからも、隣の部屋の声を聞くべく、聴診器を当てることは継続していた。やがては、これがライフワークになりつつあった。この日も壁一枚隔てた先に彼女がいることが確認できた。相変わらず声は聞こえないが、存在していることには間違いない。

 それにしても、妙齢の女性が一人でひっそりとしているなんて、一体どんな生活をしているんだ。何を楽しみに人生を送っているのだろうか。

 隣人の調査を探偵に調査を依頼してから1週間は経った。月日は早いものだ。だが、相変わらず、隣の部屋から声はほぼ聞こえてこない。物音はするから生活はしているのだろうが、どうにも実態がつかめない。何やらおかしい気配が漂ってきた。

 それに、今日は物音が聞こえないな。大方、どこかへ出かけたのか。俺の目を盗んで外出とは、いい身分だまったく。

『ピンポーン』

 突然のインターホンに、最初は一体何事かと思った。NHKの集金人がやって来たか、借金の取り立てか、警察の強制捜査か、マルサの女がかぎつけてきたか、あれこれ思考を巡らせいた中、

『ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポーン』

 な、何だ何だ、このピンポンの嵐は。この鳴らし方はNHKの集金ではない。まさか借金の取り立てか、いや警察の強制捜査か、それともマルサの女がかぎつけてきたか、はたまた新手の嫌がらせか?

「おい、私だ、北条だ。お前いるんだろ、開けろー!」

『ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポーン』

 あの女探偵だ。ピンポンの嵐に叫び声。まるで昔の借金取りのようだ。このままだとご近所に偏見を持たれる・・・まずい、隣人にも変な印象を与えてしまう。何とかしなくては。

 俺はピンポンの連打を止めるべく、急ぎ足で玄関に向かった。

 玄関を開けると、女探偵だけではなく、隣人の姿もあった。

「おい喜べ、お前が依頼しているターゲットを連れてきてやったぞ」

 な、何を言っているんだ? まさか、俺が素行調査を依頼していることを話したのか? 心臓の鼓動が速くなっているのを感じているせいか、脳の働きが追い付かない。頭が真っ白になるとよく言われるが、これほど的確な表現はまさにこのことだろう。

「さぁ、さっそくご挨拶を・・・いや、その前に今すぐ依頼料を払ってもらおうか」

「こ、この場でですか?」

「当たり前だ、このバカたれが」

 昨日の売り上げが功を奏し、今日はパチンコにでも行こうとしたのだが、背に腹は代えられない。俺は現金で依頼料を泣く泣く払うことにした。それにしても、仁王立ちした女探偵は、本物以上の借金取りに見えた。取り立て屋を兼業しているのではないのだろうか。

 女探偵から渡された請求書を見て、俺は愕然とした。一瞬書かれていた金額の意味が解らなかった。

「な、なんですか、この金額は? 当初の見積もりの2倍もありますよ」

「その金額は基本金で、そこから経費を上乗せしたのだ! 尾行にかかった交通費、食費、依頼人を連れてきた仲介手数料、すべて含んだ結果だ!」

 もはや詐欺だ。恐喝だ。訴えれば間違いなく俺が勝つに違いない。それに尾行に関して、なぜ食費が発生するのか? 警察を呼びたいのはやまやまだが、今の俺には呼ぶことができない。畜生。

 泣く泣く依頼料をだまし取られると、隣人が俺の部屋にあがってきた。予想外の展開ではあるが、ハッピーエンドの結末に向かって話は進んでいる。まぁ、良しとしようじゃないか。

「こんにちは、宮村みやむら つとむさん」

 お、俺の名前を呼んでくれた。久々に女性から名前を呼ばれた気がする。こんなにうれしいことはいつ以来だ?

「東京都の税務署の者だが、脱税の疑いでこの家を家宅捜索させてもらう」

「・・・・・・・・」

 あ、あれ、俺に気があるんじゃなかったのか。それに、後ろで探偵の女が腹を抱えてげらげらと笑っている。

「あなたはフリーターの収入分しか申告分していないようですが、実際には変な小説やら絵を販売して、そこそこの利益があるようですね」

「!!!!」

 頭が追い付いてきたが、今度は頭から足元に向かって血の気が引いていくのが感じ取れた。

 脱税がバレたのか。隠し資産がバレたのか。いや、まだ大丈夫だ。しらを切ればいいだけだ。

「な、なんのことですか」

「とぼけるな。ここにお前が投稿しているサイトから現金1500万円が振り込まれている証明がある。それに、別のサイトからも累計で800万円が振り込まれている。調べれば、3000万円近い金額が税務署に申告されていない。これは、もはや悪質な脱税だ。と言うわけで、早速調べさせてもらうぞ」


 その後、宮村は、虚偽過少申告ほ脱犯および虚偽無申告ほ脱犯の容疑で逮捕された。


「さて、また面倒な依頼が舞い込んできたわね。まぁ、いいわ。おそらくこの件は1日2日で解決できるはずだもの。さっさと終わらせて、たっぷりと報酬をいただきましょう」

 宮村から依頼がきた翌日、みことはターゲットの女性を尾行した。

「さて、この隣人。察するに裏がありそうね。どう考えても、見た目港区女子の彼女があんなボロアパートに入居するわけがない。確かに、あの男が気にするのもわからないではないわ」

 みことは独り言を言っているが、本人は特に自覚はしていない。

 ターゲットの女が入っていったのは、都内でも有数の高級ホテルであった。どう考えても、依頼人のようなオンボロアパートの住人が立ち入るような場所ではないと、みことはいぶかしげに思っていた。これは怪しいと、みことも一緒に入っていく。もし、ターゲットがこのホテルに宿泊するなら、私も宿泊しなければいけないと彼女は思った。

 地上45階建ての巨大ビル。30階まではオフィスや商業施設となっており、ホテルのロビーは31階だ。察するに、1泊5万円はするだろう。どこにそんなお金があるんだ・・・

『!!!』

 みことは名案を閃いた。依頼人の男に調査経費として追加してしまえばいいことだ。よかった、これでただで憧れの高級ホテルに宿泊できるぞ。探偵万歳。

 心躍るみことであったが、ターゲットの女はホテルのカウンターではなく、ロビーのラウンジに向かった。どうやら、ここで一服するらしい。みことは高級ホテルに宿泊する権利を失い、地団太を踏んだ。

 その後、みこともラウンジへ入り、ターゲットの女の隣の席に運よく座ることができた。高級ホテルに泊まれなかった腹いせか、彼女は1食7000円もするアフタヌーンティーセットをを注文した。もちろん、経費として後で依頼人である宮村に請求予定である。

 みことがアフタヌーンティーセットを注文してから約10分後、ターゲットの女にスーツ姿の男性2名が席に着いた。注文はコーヒーを頼んだらしい。

 高級ホテルのラウンジは座席と座席の間隔が広いため、大手チェーン店のようにぎゅうぎゅうで肩身の狭い思いをしなくてもよい利点がある。デメリットとしては、隣の席の声を聞きたい場合には話声が良く聞こえないデメリットがある。そのため、みことは聞き耳を立てるよりかは、仕草や振る舞いを観察することにした。

「あのバッチは・・・」

 みことが固いスコーンを何とか半分に割り特製ジャムをつけながら隣の席を見ていると、スーツ姿の男性のフラワーホールにつけているバッチを見つけた。それは、税務職員のバッチであると彼女は判断した。

「雰囲気を見る限り、友人同士ではない。もちろん、どちらかがターゲットの女の恋人と言うわけでもないわね。だって、あの男たちはハゲとデブの中年オッサンコンビだもの」

 みことが原材料に砂糖100%ではないかと思わせるほどの甘いピンクのマカロンを食べながら、あれこれと推測していた。

 険しい顔つきながらも、悲観的な表情がないことを察するに、ターゲットの女から税金の徴収する話ではないようだ。彼女は恐らく同業者、もしくは関係者といったところだろうか。

「となれば、公務員であろう彼女がなぜあんなボロアパートに住んでいるのかしら。もう少しましな社宅はあるだろうし。それはそれで謎が残るわ」

 みことがホテル自慢のオリジナル・アールグレイの紅茶に砂糖とミルクを入れながら、あれこれと推測していた。ちなみに、紅茶は3杯目である。1杯目はストレートの紅茶、2杯目はレモンを入れた紅茶である。

 やがて、スーツ姿の男たち2名は席を後にした。その際、コーヒー代として自分の財布から3000円を出して去ったのは、中々わかっているじゃないかと、みことが感心していた。

 ターゲットの女が一人になった隙を見計らい、みことは彼女の席に唐突に座った。

「ちょっとお話をいいかしら、税務署の職員さん」

 ターゲットの女があっけにとられていた。突然、見ず知らずの女性が目の前に座ったら困惑するのが当然であるが、意外にも彼女は淡々と話し始めた。

「勘が鋭い方ですね。確かに、私は税務署の者です」

「なるほど、さっきあなたと話していた男のフラワーホールに税務署のバッチを見たから、何かしら関係があると思っていたけど、あなたも税務署関係の人間だったのね」

 みことは状況を整理した。

「私は探偵をしている、北条みことと言うわ。あなたのお名前は」

三崎みさき 麗奈れなと言います」

「麗奈さん、単刀直入に言うわ。あなたが入居しているアパートの隣人とあなた、一体何の接点があるの」

 一瞬麗奈の空気が止まったと、みことは捕らえていた。これはさすがに話がぶっ飛びすぎたかと、少しばかり反省した。

「なぜ、そのことを」

 みことは事の顛末を全て話した。本来クライアントからの依頼内容を口外することはタブーとされているが、みことは麗奈に加担することを選んだ。みことは吟味した。半ばストーカーに加担するような依頼をする男と、税務署職員の公務員。どちらが信用できるかは言わずもがなであったが。

「となれば、奴は脱税をしているってこと? その割には、なんだか貧相で見た目で、大した稼ぎはないように見えるけど」

「そうなんですけど、エロゲーム界隈ではそこそこ有名な人で、小説や絵を売って利益を得ているそうです。中には当たりが出て、小説や絵をモチーフにしたゲームが創られています。当然、版権は彼に譲渡されます」

「それで、あなたは奴が脱税をしている尻尾を掴むために、引っ越してきた、ということね」

 彼女は頷いた。

「それで、隣に住んでみて、証拠は出てきたの?」

「えぇ。聴診器を当てて部屋の中を聞いてみると、独り言のオンパレードで気持ち悪かったのはあるけど、やはり、エロゲームに関するフレーズがところどころ聞こえてきました。あとは、小説のシチュエーションを参考にしているのか、一昔前のエロビデオの音声も聞こえてきました。何度も同じシーンを繰り返しているところが聞こえてくるところから、鑑賞ではなく仕事としてエロビデオを再生しているように思えました。そのため、被疑者が脱税をしている確認が徐々に持ててきました」

「なるほど、それは決定的な証拠だわ」

「やはり、そうですよね」

 宮村曰く、彼女と反対の隣人から聞こえてくる何度も同じところで再生しているエロビデオが、麗奈には脱税の決定的な証拠と捉えられた。


「なるほど、結末は見えたわね・・・」

 みことが不敵な笑みを受けべながら、確信めいた表情を見せた。さらに麗奈に対して前のめりになった。

「ねぇ、せっかくだから、あなたもアフタヌーンティーセットを頼まない? 支払いは奴にさせるようにするから」

「それいいですね。ありがとうございまーす。では、遠慮なく」

 こうして、2人は初対面でありながら、アフタヌーンティーセットの紅茶飲み放題の時間上限まで女子会が開催された。もちろん、領収書はしっかりとみことが受け取った。

 依頼料だけではなく、2人分のアフタヌーンティーセットの代金を払わされた挙句、手錠をはめられ、連行される宮村を見送るみことと麗奈である。

 麗奈による国税局の調査が始まれば、これまでの報酬+アフタヌーンティーセットの代金が自腹になってしまうことを恐れたみことは、麗奈に協力を要請し、依頼料+αをしっかり受け取ってからの家宅捜査をお願いしていた。一方の麗奈は、みことが請求した金額に、自身が食べたアフタヌーンティーセットの金額が含まれていることは、あえて知らないふりをしていた。これこそ、公務員として収賄になってしまうためだ。

「しかし、こんなボロアパートに年収数千万円の人間が住んでいるとは驚きね」

「最近、物を持たない生活が流行っているんです。住居費にお金をかけない分、他のことにお金を回せる。なので、最近は高級マンションではなくボロアパートを好んで入居するお金持ちが多いのです。そのため、税務署も今までは見向きもしなかったアパートに目をつけると、意外と巨額の脱税者がいることが判明したのです」

「なるほど、まさに物好きね。まさに、このアパートの住人にうってつけだわ」

 みことはパソコンで宮村の書いている小説を、しかめっ面で怪訝そうな表情を見せてに読んでいた。

「それにしても、何だこの気持ち悪い小説は。簡単に女がダメ男に身体を渡しているが、世の男はこんな気持ち悪いシチュエーションに憧れているのか? そんなうまい話があるわけねーだろ。吐き気がしてたまらないわい。それに、こんな気持ち悪い小説でよく数千万円の金を手にすることができるな。一体どんな世の中なんだ? 完全に狂ってやがる!」

「私も同じ気持ちです」

「ただ、奴のことをちょっと調べてみると、色々面白いものがでてきた。奴が書いた小説をベースとしたゲームやアニメが展開されているらしい。18禁の内容だからか世には出回ってはいないが、その道のマニアにとっては大先生だったってわけだ」

「そうらしいですね」

 世間に公にされていないメディア媒体は、脱税がしやすい環境とされているらしい。そこで、今回メスを入れたのがこの件だ。所得隠しの証拠をつかむため、わざわざ隣のアパートに引っ越してきたと、彼女はみことに対して語った。


 宮村のアパートを後にし、自身の探偵事務所に北条は戻った。コーヒーをドリップし、ブラックでコーヒーを飲みながら、沈みかける夕陽を見ていた。渋谷に近いとあって、学校帰りの女子高生が集団で楽しそうに歩いているのを見て、北条は薄っすらと笑みを浮かべた。

「いいわね、若い子は。何の悩みもないんだからね。私も昔はそうだったのかな」

 まぶしくなったのか、みことは窓に目を向けるのをやめ、室内のソファーに腰を掛けた。

「それにしても、警察を辞めて探偵を始めたものの、どうでもいい依頼しかやってこないわね。もっと、こう、殺人事件を解決するとか、難事件を解決するとか、そういう仕事ってのはないのかしら」

どこかで大事件が起こらないか願っている彼女であるが、この年の冬に彼女はちょっとした顧客の依頼から、やがては警察上層部を巻き込んだ陰謀に飲み込まれることとなる。

 





本作は、長編小説「猟奇的な探偵」の外伝となる短編です。

以下「猟奇的な探偵」

https://ncode.syosetu.com/n8753hc/



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― 新着の感想 ―
[良い点] 探偵のキャラがとても魅力的だなと思いました。最初の依頼を拒否しようとするシーンとか最高ですね!
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