第五幕 その13
「なめんじゃねぇぞガキぃ!」
「っ! くぅ!」
ユピテラが追撃、と踏み込もうとしたところに、頭を内から裂くような激痛が襲う。優男がもう片方の手で握っていた梟の杖を掲げて、赤い光を浴びせてきたのだ。
「へ、やっぱり効いてやがるか! 悪魔を制する魔杖のはずだが、てめぇみてえな神族にも使えるなんてな!」
「ぅぅぅ!」
頭の中を丹念に切り刻まれるような痛みに、心と感覚が削り取られて薄れていき、その代わりに脳を自分以外の無機質な何かが占めようとしてくる。
自分が自分でなくなる恐怖、いやそれすら感じられなくなる恐怖。それは、頭を押さえ叫び暴れても逃れることを許さず侵食してきて……、なるほど、度し難い!
「こんな痛みを! ジェニスタに与えていたなんて!!」
「な、なに!?」
山頂を揺るがすような大音声の詰問とともに、まるで爆発するかのように魔力がほとばしれば、掲げられていた宝石の梟に亀裂が走り出す。
「馬鹿な! レプリカとは言え三宝の一つだぞ! それを魔力だけで!?」
「絶対にぃ!!!」
「ちぃぃぃ!」
再び襲いかかったユピテラの鉄拳を、男は氷の盾を出して受ける。ジェニスタの触手を止めて逆に凍らせた壁。尋常な貴族の一撃であったのなら、十分といえる魔力を持った障壁でもある。
だがしかし、否、当然、
「許しません!!!!」
「な! がは!」
怒りに燃えるユピテラの前では、薄絹よりも脆弱。あっさりと氷をぶち抜き冷気すらも貫いた拳は、今度は優男のよく尖った鼻先を叩き潰した。
(まだです! もう一撃!)
相手の魔力の感じでは、この程度では足りない。幸い、ダメージが頭に来たのか、男の足取りは覚束ない。この隙を突ければ、そうユピテラは足に力を込めようとする。
しかし、
「……え?」
彼女の体は、がくんと地面に沈み込んだ。
なんで? なんで動かない、なんで足の感覚がない? 痛めた? いや、痛みなぞ感じてない、ならなんで、なんで?
押し寄せる疑問の答えは簡単だった。
足は、無くなっていた。
「……あ」
まるで燃え尽きた蝋燭のように、足はその形を維持できず、とろりと消えていってしまっている。魔力を使いすぎて、存在そのものが維持できなくなっている、そうユピテラは直観した瞬間、急速に体は冷えて、いや、何も感じなくなっていることに気づいた。
(限界、だというのですか! まだ、まだ、こんなところでぇ)
そう怒っても残ってる力は一片くらい。使えば恐らく、そもそも大した出力が、それがどうした使えばいいファスも今のフィルレだってそうして、いや待てまだ、何を躊躇を躊躇ではなく待てば、
焦りで千々に乱れた思考は、頭を貫いた衝撃に中断された。
先端が折れ、梟が転がる。
「くそ! くそくそくそくそ! よくも俺の顔を! 俺の顔をぉ!」
「っ!」
杖が折れてしまったことにも目をくれず、鼻を砕かれた男は半狂乱でユピテラを乱打する。
痛みこそを感じないが、振り下ろされる杖を防いでいる骨は折れ腕は歪み、肉はこそげて服をべっとりと血で染め上げていき、
「ふざけんじゃねぇぞこのクソアマがぁ!」
「うっ!」
振り上げられた男の足が腹へ突き刺さって吹き飛ばされ、ユピテラは何も出来ずに冷たいヤスリのような土の地面で顔を削られて血を流す。
「う、く、あ」
だけど何も感じない。だから怖い。喉奥から声とも言えない声をだし、とにかく体を起こそうとするが、壊れた腕では、否、壊れた五感ではどう動かしていいかすら分からない。
(この、まま、だと、なら、いえ、でも、まだ、それに)
思考が薄れすぎて考えることすらできず、それでもなんとか歯噛みして鼻を砕かれた男をかすれた視界で捉えるが、それだけだ。
力がないどころか体がどこにあるかすら分からないこの状態では……。
目の前に岩が現れた。
「……え?」
「っ!? なんだ! 魔法か!? 誰が!?」
何の気配も脈絡もなく岩。その辺りに転がっている何の変哲もない岩が、ユピテラと男の間に唐突に立ちふさがったのである。
だがしかし、違和感が、微妙に浮いて透けていて、影の付き方も変で縦なのに横になっているような感じがで、
「これ、まさか……」
幻影、そう、幻影だ。そして幻影と言えば、あの遺跡の中で拾った筒の、なら使ったのは、
「……」
小さな人影。子供のユピテラとさして変わらぬ矮躯で、一回り大きな鎧兜をなんと書き込んだ兵士、ジィー。彼が岩陰から構えているのは、遠眼鏡のような筒と水晶。漂流者の遺跡で拾った、筒で指した対象の姿を対となる水晶に映し出す魔法の道具だ。
そしてそれが映しているのはご覧の通り、岩。それでユピテラと男の間を遮ったのだ。
(……小細工、だけど)
それが幻影を使った小細工だとすぐに分かるのは、ユピテラなどそれを事前に知っている者たちだけだ。事前の知識がない、例えば眼の前の鼻のつぶれた男には、それが何であるか、危険や仕掛けがあるのかないのか、ただの幻なのかどうかもすぐには分からない。
だから、
「っち! 単なる幻影かよ! どいつもこいつもバカにしやがって! てめぇか平民!」
「ひぃ!」
気づいた男が罵声とともに壊れた杖をジィーに投げつけた時には、既に時間を稼ぐ、という目的は達成されていた。
カキン!と、涼やかな金音を鳴らして、鉄の串が投げつけられた杖を弾く。
「すまん、待たせたな」
「兄貴ぃ!」
ジィーの歓声に片手だけ軽くあげたファスは、いつも通りの淡々とした佇まいを、落日の残光で赤黒く染めていた。その姿にはいつもと違って背嚢はなく、右手には抱え筒、朱銀の杭らしきものが入った筒状の手持ち大砲を、東国のトンファーのように前腕に沿って取り付けている。
そんなファスへ鎖に絡まれ転がったままのフィルレは、ボロボロと血混りの涙で泣きじゃくる。
「ファスさま、ファスさま、ファスさまぁ。ジェニスタが、ユピテラ様がぁ……」
「大丈夫だ、安心しろ」
自身も腕と腹を斬られ血溜まりに沈んでいるにも関わらず、それでも二人を心配するフィルレへかけられたのは、変わらぬ暖かな声。ぼんやりしているが、確かな優しさで満ちたひだまりのような響き。
だからこそ、
「すぐ殺す」
そう続けたファスの語気の冷さは、フィルレも、ジィーも、ユピラテラも、ジェニスタでさえも震え上がらせた。