第五幕 その2
「はぁ!? あの領地の境界は双方で合意を取ったはずです! 新資料ですって!? 今更、何を言ってるのですかあの老害は!」
「ゼピュロ、落ち着いて」
ゼピュロ・タオ・ウロンは思わず声を荒げるが、主であるアルマ、現ジラス伯は、執務室の装飾もないただがっしりとした机に山積みになった書類に目を通しながら、特に表情を変えずにたしなめる。
「確かに一度判を下したことですが、ワム家の正式な仲介により訴状が出されたのなら考慮しないわけには参りません」
「仲介を出す時点でアルマ様を侮辱しています! 即刻、ワムとその一党を処断するべきです!」
「そういうわけににはいかないでしょう」
淡々とした言葉を紡ぎつつも、一瞬、ジラス伯の眉が動いたのにゼピュロは気づき、思わず自分の頭を思いっきり叩いた。手前勝手ないらだちは、主に余計な負担をかけるだけだ。
「えっと、ゼピュロ?」
「申し訳ありません。出過ぎた発言でした。話を戻しますが、悪魔調査に関しては先程の報告で以上です。特に目立った成果をあげられませんでしたが」
「それは仕方ないわ。雲をつかむような話だし。……調査に関してはギャルプ家にも情報を共有して」
「それは! いえ、了解しました」
あんな神跡騎士団などという胡散臭いやつに尻尾をふる奴らに、と怒鳴りつけそうになったが、流石に直前でやらかしておいてである。それに、あれを嫌っているのはジラス伯も同じで、それを敢えて、である。
執務室は不自然なくらい飾りっ気もなく、ただ大量の書類が収まった棚だけが並んでいる。奢侈を忌むのがジラス家の伝統だが、程度がすぎると噂する家臣もいる。だが、それ故に生み出される張り詰めた静謐は、積み上げられた伝統とジラス伯の決意を示すもの。
少なくとも部下であるゼピュロが、自分勝手に不満をぶちまけて、徒に乱していいはずがない代物だ。
「ギャルブ家には後で書面を渡しておきます。それでは、そろそろ失礼いたします。師匠が特訓をするからと呼ばれておりますので」
「あら訓練は朝にもやってたのに」
「私の方から特訓して欲しいって、お願いしていたんです。それでちょうど時間が取れたとさっき連絡がありまして」
「なるほどね。がんばってきなさい。あなたのことは皆、褒めてるわよ」
「ありがたき幸せです。アルマ様も、えっと、がんばってください」
「ええ、ありがとう」
そうアルマは微笑む。体以上にやたらと大きく居丈高な伯爵の正装には不似合いの、子供のようなあどけない笑みだ。そんな顔で見送られたが故に、執務室の厚くもない木の扉が、余計にずっしりと重かった。その重みはもちろん物理的にではなく、自責故。
苛立って自分の頭に生えた角をなでるが、チリっと痛むだけで特に何の力も感じない。神族は珍しくそれだけで尊ばれ、下級の郷士でありながらジラス伯の郎等として仕えることすら許されさえした。
しかし、所詮は未覚醒。そして特例で引き上げられただけの若輩の一騎士にすぎず、真偽も不確かな資料や噂を調査が出来る程度。それもまた必要なことなくらいゼピュロも分かってはいるが、その程度と言えばその程度でしか、ジラス伯の役に立てない。
そんなため息を、アルマが若輩でありながら伯爵を継いだ時から、ずっと積み重ねていた。
だから、魔が差した。
「逃しただと! 馬鹿な!」
訓練場へ向かう通り道に建った礼拝堂、神跡調査騎士団とかいういけ好かない連中に貸し出した建物から、かすかに怒鳴り声が聞こえた。
辺りは無人で窓に木戸がひかれて中は見えない。つまり今のゼピュロが何をしようと誰も気づかないわけで、つい近づいて聞き耳を立ててしまった。
(声は、ワム家の老害と、支部長、とかいうのではなくて、魔術でぼかされて分からないな)
『ええ、あのお姫様、幼いとは言えなかなかの難物でしてね。流石は侯爵殺しで、今は悪魔殺しでもある神族というべきでしょうか』
「感心している場合か! ことが露見すれば……!」
『ああ、それは大丈夫です。かの東の漂流者の遺跡は、なかなかのダンジョンですからね。そうそう出られませんし、こちらで対策も既に行っています。弱体化も果たせましたしね。ただ念のため後詰めを』
「そんなモノ出せるか! 貴様らだけでなんとかしろ!」
「では、こちらの方で用立てておきましょう。ただ時間がかかりますが」
みっともない怒鳴り声が木戸越しへ響く中、近くにいたらしい支部長とかいう男の、対象的に冷静な声が聞こえてくる。
「早くやらんか! 失礼、なるだけ早くお願いしますぞ!」
「ええ、ええ、分かっておりますとも。なに、焦ることはありません。こちらで最終的に押さえさえすればよいのですから。詳細は客間の方で、お茶の準備が出来ておりますしね」
その支部長の言葉とともに、遠ざかっていく足音を確認したゼピュロは、その場を離れつつ、思う。
(押さえてしまえば、か)
……もしかしたら、自分が先にその姫とやらを押さえてしまえば、彼奴等に恩を売るなり脅すなりのことができるのではないか。そして自分のようなものでも、アルマ様に役に立てるのではないか。
そう、思ってしまったのだ。
(よしっ! 善は急げだ。幸い場所も聞いたし! 師匠には急用が出来たとでも言っておけばいいかな?)
そして鼻息荒くゼピュロは走り出して、後ろで見ていた小さな円盤のような何かには気づかなかった。