グラオン王国の婚約破棄〜令嬢は弁明せず〜
独立した話として書き始めた話ですが、以前の短編と関連付けられそうだったのでスピンオフにしました。
もしかしたら別の国の婚約破棄ネタが降ってくるかもしれないので、シリーズとしてまとめておきます。
昨今、グラオン王国周辺で婚約破棄が流行している。発端はつい一年前、隣国シュヴァルツ王国の元第二王子クレイドだと専らの噂である。
なお、それを言い出した当人たちにとっての成功率は、高く見積もってもせいぜい二割がいいところ。実際、クレイドが王子の座を追われた理由がその婚約破棄だというのは、誰にも否定しようがない。
その程度の勝率に自らと恋人の運命を賭けるのは、かなりのギャンブラーと言っていいレベルであるわけだが。
ともあれその日、流行りに乗じてなのかそうでないのか。グラオン王国の王立学園にて、卒業式の晴れの場が、王太子とその恋人と友人たちに、いともあっさり乗っ取られてしまったのは紛れもない現実だった。
そうして、王太子ははっきりと、婚約者である侯爵令嬢への断罪の言葉を口にする。
「カーシェラ・フェセク侯爵令嬢! 貴様は妹メイアをことあるごとに虐げ、心身ともに消えぬ傷をつけ、ありとあらゆる被害を与えたそうだな! そんな鬼畜極まる女などを、将来の王たる私の婚約者に据えておくわけにはいかぬ! よって、今この時をもって、我が名ルネスのもとに婚約破棄を宣言し、罪人である貴様に国外追放を言い渡す!」
「そのようなことは、神に誓ってしておりません……と申し上げても、どうせ無駄なのでしょうね」
ふう、と扇の陰で嘆息したカーシェラは、何とも言えない憂いの瞳で、元婚約者となった王太子と、その傍らにぴったりと張り付き、怯える演技をしつつもしっかりとほくそ笑んでいる妹を見やった。王太子とともに彼女を囲み、あからさまな敵意をたたえて睨み付けてくる貴公子たちの姿はただ一瞥したのみで、どこまでも淑やかに両のまぶたを伏せる。
そして、ぱたんと扇を畳み、誰もが見とれるほどに美しいカーテシーを披露した。
「ルネス王太子殿下のお言葉、婚約破棄の件につきましては、謹んでお受けいたします。ですがその後の、国外追放に関しましては、わざわざそのようなお慈悲をかけていただく必要はございません」
「──慈悲、だと?」
庶民であればまだしも、貴族令嬢が身一つで他国へ放り出されては、その後にどうなるかなど考えたくもない事態になるはずなのに、それを「慈悲」と評するとは。
もとより超然とした雰囲気をまとい、婚約者だったルネスのみならず、幼馴染みの範疇に入る貴公子たちにも何を考えているか判別できないことが多かったカーシェラは、微動だにせず姿勢を保ったまま、朗々と凛然と言葉を続ける。
「はい。王妃教育を修了し、この国の内部事情を知り尽くした身であるわたくしを、生きたままみすみす国外に出すなど、王太子たる御方がなさってよいことではございませんので。──この国のため、御自らのため。今すぐこの場でわたくしを処分し、お立場に伴う責任を果たされますように」
「な──に!?」
「お、お姉様!? そんな、何を──!!」
美貌とスタイル、頭脳に立ち居振舞いと、どれをとっても完璧でしかない二歳違いの姉を徹底的に貶めるべく、いつでも流せる涙と演技であれやこれやをでっち上げ、王太子を始め名家の子息たちを完全な味方につけたメイアだが、流石にこれには動揺せざるを得なかった。
昔からどこまでも気に障って仕方ない存在の姉が、路頭に迷って飢え死にしたり、平民未満の最下層にまで身を落としてぼろぼろになるのはいい気味だけれど、それはあくまでも自分が見ていないところでそうなってほしいのであって、切り殺されたり首を刎ねられたりするところなどを、直に目撃したいわけでは決してない。
そんな妹へ、ようやく顔を上げたカーシェラが、ふわりと優しく微笑んでみせた。
「メイア。恐らくあなたはわたくしに替わって、王太子殿下の婚約者となるつもりなのでしょうけれど……未来の王太子妃、ひいては王妃となるのだから、第一に考えるべきものを間違えては駄目よ? とても難しいでしょうけれど、頑張って殿下と、何よりもこの国を、命をかけて支えてちょうだいね」
王太子の婚約者とはそうあるべきなのだからと、笑顔のままで告げる姉を、自分が一体何をしたのかようやく悟ったメイアは、蒼白を通り越した白すぎる顔で震え上がった。
「──い、嫌です、そんなの! 王太子妃になれるのは嬉しいですけど、命をかけるだなんて、私は──!」
「まあ、メイアったら。『権利には義務が伴うもの。特権階級たる貴族ならば尚更』と、お父様もお母様もわたくしも、あなたに何度も教えたはずではなくて? でも、きっと大丈夫。殿下を敬愛してはいても、異性としては全くお慕いしていないわたくしができたのですもの。このような騒ぎを起こすほどに殿下に心を捧げているあなたなら、すぐに覚悟が備わるでしょう」
「なっ……!? 私を慕っていない、だと!? ならば何故、メイアに対して『ルネス殿下にむやみに近づくな』などと……!」
あからさまな動揺を示す王太子に周囲から注がれる、既にかなり冷えていた視線の温度が、更にじわじわと二十度ほども下がっていく。
年頃でありながらまだ婚約者のいない令嬢がいるとして、その年長のきょうだいならば、彼女の評判をしっかりと守ることが重要な役割の一つである。
そのためには、れっきとした婚約者をもつ男性を相手に、妹が軽々しく近づくのを許しておくべきではないのは、あえて口にするまでもない自明の理だ。
だからこそカーシェラは、無駄な説明に時間を費やすことはせず、ただあっさりと促すのみだった。
「疑問が生じたのでしたら、すぐに他者から答えを得ようとなさるのでなく、まずはご自分でじっくりとお考えになっては如何です?
ともあれ今となっては、虐待とやらが真実だろうとなかろうと、殿下や皆様がわたくしの言い分を信じてくださろうとくださるまいと、何ら変わりはございません。──長年の婚約関係にあり、それに伴う交流を持ち続けてきたわたくしへ、最低限の信頼さえお持ちでない御方の妃となるなど、お互いのみならず国全体に不幸を招くだけですものね?」
だから素直に婚約破棄を受け入れたのだと、達観しきった様子の元婚約者が、一つも嘘をついていないことを今更に理解した王太子は、恋人に負けないほど色を失くした顔で、やはりがくがくと身を震わせる。
その理由が、自らの浅はかな言動が無実の令嬢を死に追いやる代物となってしまった事実に動揺してのことか、はたまた自分が彼女に完全に見限られていた事実を知ったせいなのか、傍目には判別できないが。
「あ……さ、先ほどの言葉は撤回する! 無実だという貴様、いや、そなたの主張を認めよう! 婚約破棄は完全なる間違いで、そなたへの処分なども一切をなかったものとする! それでいいのだろう!? だからこの場はこれで──」
「まあ。王太子たる御方がその御名にかけて発言なさったことを、そんなにもあっさりと撤回なさっては、王家の威信にも関わりますわ。
何より、正式な婚約者であるわたくしを、公衆の面前で告発なさったということは、どこに出そうとも何ら問題のない、完璧で完全な証拠や証言があり、裏付けも取れているのだと推察いたします。その上でそのように、口頭のみで何もかもをなかったことになさるなど、権力の濫用の最たるものであり、決してなすべきではございません。──ですので、殿下。今すぐにわたくしの首をはねる命をお出しになり、生じかねない王家への脅威を迅速に排除なさいますよう、僭越ながら進言いたします」
淡々と促しつつ、再び首を差し出すように頭を下げるカーシェラと、あまりのことに完全に怖じ気づいた様子の王太子とメイアとは、見事なまでの対照を成していた。二人の、いやメイアの取り巻きである貴公子たちも、予想外のことに明らかに顔を引きつらせている。
『きちんと隅々まで裏付けされた、どこに出そうとも何ら問題のない、完璧で完全な証拠や証言』──そんなものが、ただメイアに誑かされ、口車に乗せられただけの彼らにあるわけがないからだ。むしろ揺るぎない証拠がないからこそ、あらかじめ学園内に噂をじわじわと流して浸透させつつ、とどめとしてこの卒業式の場でカーシェラを告発し、大多数の生徒たちの支持を背に彼女を失脚させようとしたのである。
その作戦自体は、うまくやりさえすればそう悪いものでもなかったが……「日常的に虐待され、『心身ともに消えぬ傷をつけ』られ、『ありとあらゆる被害を与え』られている」はずのメイアが、傷一つなくやつれてもいない、どこからどう見てもつやつやお肌の健康優良児といった様子で日々登校し、王太子や取り巻きの男性陣を避ける風は一切なく、彼らと心底から楽しげに、悩みなど何もない様子で笑い合っているのだから、説得力というものを完全にどこかに置き忘れている。
身体の傷を治すだけならば魔法的手段は皆無ではないが、回復系統のそれは神殿に属する癒し手たちの専売特許であり、よほどのコネと寄付金がなければ、侯爵令嬢と言えどもその恩恵に与れるものではないのである。
『何とも詰めの甘いと言うか、無駄にあれこれと盛り過ぎて台無しな妹君ですわねえ』とは、カーシェラの親友たちの言だった。彼女たちは以前に王太子妃候補とされたこともある名門の令嬢たちで、その身分と境遇の近さから、幼い頃から長きに渡り友情を育んでいる。ちなみにそれぞれが、メイアの取り巻きたちの正式な婚約者でもあり、彼らは絶対零度の目付きで彼女たちに睨み付けられているのだが、今はそれどころではないらしい。
「……い、嫌だ……! 何故私がよりにもよって、何の非もないそなたを手にかけねばならない!?」
「残念ながら殿下、『わたくしには何の非もない』というお言葉は、既に通用してはならない段階となっておりますのよ。何も、御自らが動かれる必要はございませんわ。そうですわね……騎士団長ご子息レノルド・ラーウス様。剣の達人と名高いあなたであれば、わたくしをさほど苦しめることなく、常世に送ってくださるのでは?」
「お、俺が!? じょ、冗談じゃない! 俺の剣は、国に害をなす敵に対して振るうものであって、殿下が無罪と認めた相手を傷つけるものでは断じてない!」
「では、ファルドル・サカニー様。宮廷魔術師長のご子息で、強大な魔力を誇る御方なら、瞬時にわたくしを消し炭にしてくださいますわね?」
「えっ、僕!? 嫌だよ、絶対に嫌だ! メイアをいじめる魔女だって言うから、こうして断罪に付き合ったけど。そうでないなら、僕が手を下したりすれば、逆にこっちが大罪人になるじゃないか!」
「そうですか。ならば、宰相子息様──」
「断る。無実の貴女の命を奪って、これ以上取り返しのつかない事態に陥るのは御免だ!」
「まあ……困ったこと。婚約破棄を宣言なさることで、実質的にわたくしに死刑宣告をしてくださった殿下と、それに積極的に賛成なさった皆様が、揃って責任を果たしてくださらないなんて。人の上に立たれる方々が、自らのお言葉と行動に対するお覚悟をきちんとお持ちでないのは、何とも言えず不安ですわね」
お茶会の開始直前に飛び入りの参加者が来たので、どう席順を変えればいいのか──例えるならばそんな悩みを語る風情で、自らの処刑が行われないことを憂うカーシェラだった。
そんな彼女は、すぐに名案を思い付いたらしく、ぽんと手を叩いて該当人物へ微笑みかける。
「では、メイア。あなたが主張している、わたくしに散々に虐げられた積年の恨みとやらを、その手で存分に晴らすといいわ。次なる王太子妃たる覚悟を、是非ともこの場でわたくしに見せてちょうだい?」
「えええ!? む、無理です駄目ですできません! か弱い令嬢でしかない私が、お姉様を手にかけるだなんてそんなこと……!」
「何を今更。先ほど言ったばかりでしょう? 卒業式という衆目の集まる、言動の撤回など容易くは許されぬ場において、あなた方はわたくしへ死刑を言い渡したようなものだと。
仮にそこまでの意図はなかったのだとしても、わたくしをこの場で吊し上げにするよう皆様をそそのかしたのはメイア、あなたではなくて? フェセク家の一員として、自身の言動が招いた結果に対しては、しっかり責任を負わなければならないわ」
「だ、だからって! どうしてこの場でお姉様を殺さなければならないんですか! お姉様だって、こんなことで死にたくなどないはずでしょう!? それなら他国に情報を流したりしないと誓った上で、監視付きの離宮かどこかで生涯を過ごすとか、もっと穏当な選択肢はいくらでもあるのに!」
自分で姉を破滅に追いやろうとしておいて、『こんなこと』とはよくも言う──と、多くの第三者に露骨な侮蔑の目で見られていることにも気づかないほど、この上なく必死なメイアである。
対する姉は、どこまでも落ち着き払った穏やかな物腰で首を傾げた。
「まあ。メイア、あなたも殿下を始めとした皆様も、随分な誤解をなさっているようね」
「……誤解、ですか?」
「ええ。──よろしいかしら? わたくしは今でこそおとなしくしているけれど、ここで時間を置いてしまえば、あなたたちに対して何をするか分かりませんのよ。──言ったでしょう? 『わたくしは、神に誓ってメイアを虐待などはしていない』と。ならば後々、我が家の両親は勿論、陛下や王妃様、あちらにいらっしゃる王弟殿下といった公平で公正な視点をお持ちの方々が、間違いなく真実を明らかにしてくださるはず。
さて──そうして晴れて無罪のお墨付きを得たとしたら、わたくしはまず真っ先に、誰に対して、何をしようと思うかしら?」
「……ひ、ひいっ……!」
「ああ、でもやはりメインディッシュ、ではなくて主犯への仕返しは、後の楽しみとしてとっておくべきかしらね。きっとその時には、殿下を始めとした皆様も、わたくしに冤罪を被せようとした罪で、たいそうお立場が悪くなっているでしょうし。うふふふ、どういう順番で仕返しをしてさしあげるか、選り取り見取りで迷ってしまいそう」
それはそれは無邪気に、子供のような笑みを浮かべたカーシェラだが、その形の良い唇から紡がれる言葉は、特定の数人には酷く不吉な何かがこもりすぎている。
「そういうわけですので、わたくしがおとなしくしている今のうちでしてよ、皆様。──近く王太子妃となる者として、未来の国王陛下とその側近となるべき御身として。追放など決して許されぬ危険人物を、早急に処分なさってくださいな。それが、このような場でわたくしの罪とやらを声高に訴えた、他でもない皆様の責任というものですわ。
──それとも手を下さずに、後々のわたくしの復讐、もとい仕返しを、その身でしっかり全面的に受けていただく覚悟がおありかしら? ねえ、ルネス殿下?」
「ど、どっちも嫌だあっ! 頼む、許してくれカーシェラ! 私はただ、メイアに騙されただけなんだ! そう、聞こえのいい言葉と色香に惑わされて──だから、お願いだ! どうか命だけは助けてくれえっ!」
「そんな、殿下!? 殿下だって、お姉様の評判を台無しにすることに大乗り気だったじゃありませんか!! それに、私のことを愛してるって──」
「う、うるさいっ! 大嘘つきの尻軽は黙っていろ!!」
「まあ、心外ですわ。わたくし、皆様の命を奪ったりなどはいたしませんわよ。──だってわたくしは、衆目の中での婚約破棄の宣告という、生涯消えぬ屈辱を味わわされたのですもの。その仕返しをするならばやはり、皆様にもしっかりきっちり、生涯に渡る屈辱を被っていただかなくてはなりませんわよね?」
「「「「「ひいいいいっ!!」」」」」
「目には目を、歯には歯を。いい言葉ですわね、うふふふ」
被せられかけた冤罪に対して一切の弁明をすることなく、ただ極上の微笑と言葉だけで、存分に妹と元婚約者たちを震え上がらせる侯爵令嬢だった。
その後の卒業式はと言うと。
カーシェラの仕返し宣言から間もなく、国王夫妻とフェセク侯爵夫妻が会場に姿を現すや否や、当初から臨席していた王弟クラウゼルの正確極まる説明を受けた彼らによって、メイアと彼女の取り巻きたちには、徹底的な再教育が言い渡された。
ルネス以外の男性陣は、その処分が完了するまで、嫡男の立場と卒業後の進路を白紙とされ、弟妹たちが暫定的にその穴を埋めることになった。が、最近の兄の有り様を反面教師としたせいか、弟妹たちは穴を埋めて余りあるほど優秀な者がほとんどで、暫定が確定に変わるのもそう遠い未来ではないと目されている。彼らの婚約者だったカーシェラの友人たちは、女性側には何ら非のない婚約破棄を経て、あらかじめ目をつけていた別の男性と無事に縁を結びつつあるそうだ。
メイアは騒動の首謀者として、再教育の成功失敗に関わらず、学園卒業後の修道院行きがほぼ決まっていた。一応、唯一の抜け道として、「学園の卒業試験でオール満点をとることができれば、フェセク侯爵令嬢の立場を失わずにすむ」とメイア本人に言い渡してはいるものの、それが実行可能かどうかは限りなく怪しい。実際、フェセク侯爵家の一室からは日々、何とも情けない少女の愚痴と泣き言が繰り返し聞こえてきているという。
そして、残る王太子にして唯一の王子ルネスはと言えば。
「万が一があって王太子の座に在り続けることになったとして、そうなれば今度こそ確実にカーシェラ嬢を娶らなくてはならない現実に、あれはようやく気づいたらしい。それからは実に素早く、引きつった蒼白な顔で、王太子位の返上と再教育後の臣籍降下を申し出たよ。寝首を掻かれかねないことがよほど怖かったのだろうが、そもそもが自業自得なのだと理解しているのかどうかは実に怪しいな」
「まあ。仮に契約通りにルネス殿下と結婚するとして、わたくしがあのお方の寝首を掻くなどと、そんな無駄でしかないことをするはずがありませんわ。するとしたなら、せいぜい生かさず殺さずちくちくじわじわと、徹底的に加減を見極めていびり倒しつつこき使うに決まっていますでしょうに」
そんな感想を述べつつ、絶品のクッキーを味わってから紅茶を飲む侯爵令嬢の、正面に座った若き王弟は、甥に比べて華やかさはないが別格の存在感がある美貌を手に伏せ、肩を震わせてしばらく笑い転げていた。
「……流石に笑いすぎではございませんこと? クラウゼル殿下」
「いや、すまない。大変に正直な本音を聞けたのが、とても意外で楽しくてね。
それはそうと、貴女に一つ聞きたいことがあるんだがいいかな、カーシェラ嬢」
「何でございましょう?」
促せば、カーシェラよりも七歳年上の青年は、その醸し出す威厳にはやや見合わない無邪気な表情と仕草で小首を傾げ、こう口にする。
「新たに貴女の婚約者となった私は、『生かさず殺さずちくちくじわじわと、徹底的に加減を見極めていびり倒しつつこき使う』ような目には、遭わなくて済むと思っていて構わないかい?」
「あら。恐れながら、そのような目に遭う心当たりがおありですの? それともクラウゼル殿下は、いわゆる『特殊な御趣味』をお持ちなのですかしら」
「うーん、今のところはどちらも持ち合わせてはいないけれど。後者に関しては、いずれ目覚める可能性はなきにしもあらずかもしれないね? 無論、対象は麗しの愛妻限定で」
「とりあえずわたくしとしましては、一生涯そういった事態にはならないようお祈りいたしますわね」
「おや、つれないな。でも、貴女が生涯かけて私のことを気に掛けてくれるのなら、それはそれで実に嬉しいことだ」
「……クラウゼル殿下。念のために申し上げておきますと、将来的に殿下が側室を迎え入れることには、わたくしは何ら異存はございませんが」
立て続けの口説き文句に、ゆったりと目を瞬かせつつカーシェラが言えば、これが答えだと言うように、クラウゼルの甘やかな視線が優しく彼女を包み込む。
「生憎と、私の方は大いに異存があってね。せっかく縁があって夫婦となるのだから、最低でも友人以上の仲を育みたいと思うのはおかしなことではないと思うよ。その相手が、こんなにも興味深い美女なら尚更だ」
「興味深いだなんて。わたくしは珍獣か何かですの?」
「まさか。どちらかと言えば、この世ならぬ女神か精霊の類いではないかな。──あまりにも美しく希少すぎて、手を触れれば決して離したくなくなるような、ね」
くすくすと微笑みつつ紡がれた言葉はとても軽やかで、けれどその瞳と伸ばされた手には、とろりとした熱情が確かに表れていて──
「褒め言葉としてはさほど目新しいものではありませんわね。陳腐とまでは申しませんけれども」
醸し出された甘い空気を、容赦の欠片もなく瞬殺するカーシェラであった。無論、美麗な顔に赤みなどは少しも差しておらず、繊手は握られる前にさっと自らの方へ引き戻している。
それに気分を害するどころか、盛大に笑い飛ばす王弟も大概ではあるが。
「ふはっ!! いやあ、やはり手強いね貴女は。知ってはいたつもりだけれど、これから二人で過ごす時間がますます楽しみになってきたよ」
「褒め言葉として承っておきますわ。ですが正直を申しますと、殿下のご期待は大いに外れる可能性が高いことをご了承くださいませ」
「それはどうかな? 世の中には、やる前から結果が分かりきっているものも多々あるが、やってみなければ分からないことの方が遥かに多いものだよ」
「まあ、含蓄のあるお言葉ですこと。肝に銘じさせていただきますわね」
と、それぞれに社交用の顔とは微妙に違うにこやかな表情で、本気とも冗談ともつかないやりとりを繰り広げる二人だったが。
後世において、グラオン王国を公私ともに代表する国王夫妻としてクラウゼル三世とカーシェラ王妃の名が鳴り響くことなど、当の本人たちは未だ知るよしもないのだった。
☆おまけ・卒業式後の会話
「ところでクラウゼル。何故あの場でルネスらを止めなかったのだ? お前ならば十分に可能であったろうに」
「無茶を仰らないでください、陛下。あそこまでテンションが上がった状態の若者たちの行動は、第三者が簡単に止められるものではありませんよ」
「否定はせぬが、試みることさえしなかったのも間違いあるまい?」
「ええ、確かに。ですが仮にそれができたとしても、明確な罪に問われない限り、彼らは近いうちにまた同じことをしようとするはず。同じ失態でも、国外の来賓がいる夜会等でやらかされるよりは、彼らが辛うじて学生の身分であるあの場での方が、まだ取り返しがきくと思いまして。万が一、本気でカーシェラ嬢の命を奪う暴挙に及ぼうとしたなら、それこそあらゆる手段をもって止めるつもりではいましたが」
「む……何も否定できぬのが悲しいところだ。我が息子ながら、何故あのような真似を……」
「私から見ても、本来はあそこまで詰めの甘すぎる子ではなかったはずですが……メイア嬢でしたか? 彼女の悪影響なのか、それとも彼女はあくまでもルネスのメッキが剥がれるきっかけに過ぎなかったのか、判断に困りますね」
「どちらであれ、結論は尋問後に出すこととなろう。ひとまずクラウゼル、今夜は酒に付き合え」
「構いませんが、呑みすぎで潰れないようお願いいたしますよ。そうなって王妃様に怒られるのは私なんですからね」
お読みいただきありがとうございます。
シュヴァルツ王国の隣国で起きた、やっぱりテンプレな話でした。両国とも、悪役令嬢の反応はテンプレ外ですが。
まあどちらも、言ってることはほぼ同じなんですけどね。「王(太)子妃教育なめんな」「上に立つ者なら、最低限それに相応しい振る舞いと責任感を持て」という。私的感情を殺せとまでは言ってないんですが、二人とも元婚約者には厳しめの態度だったので、そこのところはルネスやクレイドには伝わらなかった部分かと。
次に同シリーズで書くとしたら、また別の国の王女様が婚約破棄される話ですかね。女王即位予定か降嫁か、他国に嫁ぐかで色々変わってきそうですが、どうなることやら。