フォトジェニックな彼女
「先輩、もしかして泣いてるんっすか?」
「泣いてない」
晴人は強がってみせる。が、内心については伊月が指摘するとおりだった。
これで高校三年間のうち、多くを占めていた部活が終わってしまった。自分ではもっと戦いたかった気持ちも強い。
「でも、先輩らしい試合だったっすよ。あ、写真もあるんで後で見てみます?」
伊月はカラリとした口調で試合の感想を伝える。
――俺らしい、か。
晴人は自分の試合をつい思い起こしてしまう。
試合開始早々、晴人は待った無しの攻勢をかけた。
相手は強豪校の選手だ。試合は何度か見ていたので左組みであることも分かっていた。
そして、彼我の実力差がはっきりとしている場合は相手に技を出させないぐらい、こちらが果敢に攻めていかなければ勝機は訪れない。
晴人は相手の意表を突いて一気に試合の主導権をとろうとした。そのために組み手争いで狙いにいったのは引き手だった。晴人は執拗に相手の右袖を掴もうとした。当然に相手はそうはさせじと右足を後ろに引いて、逆に晴人の右襟を強く握ってきた。
その瞬間を逃さずに、晴人は左手で相手の左襟を強く握る。それと連動させるようにして、左袖をも掴むと、相手の左足を思い切り足で刈り払った。
右組みの晴人は、相手の裏をかいて左組みの体勢で大外刈りを放ったのだ。これはよく逆の技を出すと表現される。
この目論見は上手くいった。相手は右足を後ろに大きく引いているため、踏ん張りを失って畳に転がった。審判は「技あり!」と告げたので、そこから袈裟固めへと移行しようとした。だが、相手は一枚上手で、晴人が袈裟固めを完成させる前に脱出して立ち上がってしまったのだった。
それでも試合における優位は晴人にあった。そして、そこから攻めて攻めて攻めまくった。相手には技を出させない。それに注意して試合を進めた。
やがて、技が出ないということで審判は相手に「指導!」と告げることになる。
その後、晴人に最大のチャンスが訪れる。
相手の防御が完全に崩れたのだ。それを逃さずに晴人は一気に相手の懐に飛び込んで、渾身の力を込めて内股を放ち、相手の左膝上を刈り上げようとした。
だが、刈り上げた足の勢いで宙を舞ったのは晴人の方だった。
直前で相手は足を抜き、掴んでいる晴人の左袖を思い切り引っ張る。
柔道の返し技のなかでも特に難易度の高い技とされている内股すかしが、まさかの局面で飛び出したのだ。
晴人の体は回転し、畳にたたきつけられた。彼が見たものは武道館の天井だったのだ。
気合いを入れて臨んだ四回戦。だが、結果は晴人の一本負けだったのだ。
逆転の一本勝ちをおさめた相手のガッツポーズ姿が、いまだに頭から離れないでいる。
そして、すぐそばで試合を見守っていた顧問の「あのまま適当にあしらっておけば勝っていたのは辻堂の方だったな。……だけど敢えてそういう試合をしなかったのは、いかにもお前らしいところだった」という言葉も。
辻堂晴人は思うのだった。
試合としての勝ちにこだわれば、もっと狡猾な戦法もとれたはずだ。その考えも頭をよぎった。だがそれをしなかったのはなぜだろう。
自分の意地だろうか。それとも……。
晴人は顔を上げて、少し離れた場所で遠くの方へと視線を向けてたたずんでいる少女、葉山伊月を見る。
晴人の視線を感じたのか、伊月は振り向いて晴人を見る。
彼女は柔和な笑みを浮かべ、座り込んでいる晴人を見つめていた。
晴人はその顔を見るとどうにも落ち着かなくなってしまうのだった。
「そんなことよりも、大会が終わったばかりだってのに、また俺を連れ出してどういうつもりだよ?」
「どういうつもりかって言われても……、とにかく、海を見てると気持ちが落ち着くはずっすよ。うわあ、江ノ島が綺麗に見えますよ先輩。素敵っすよね?」
伊月は穏やかな口調で晴人をなだめる。そして、カメラを構えて風景を当たり前のように撮影するのだった。
すぐにでも帰宅したかった晴人だったが、今いる所は江ノ島海岸だ。待ち構えていた伊月にねだられ、結局寄り道に付き合わされた形だ。
まっすぐ帰れよ、と表面的なことだけを言って解散させた顧問や、まるで伊月に根回しでもされていたかのように、にやけ顔で先に帰ってしまった部員たちを、晴人は少し恨めしく思うのだった。
だが、伊月に促されるままに目の前の景色を見てみる。
今、晴人がいる砂浜からは、茶筒のふたを伏せたような、独特の形をした江ノ島が見える。大地震の度に隆起して海面から姿を現したこの島は、島と言いつつもわずかな低地とほぼ垂直の切り立つ崖、そして平坦な山頂部分とで成り立っているという独特の地形をしている。
その頂上には展望台が突き出すようにして建っている。
そして、島のかたちをなぞるようにして東西から寄せてくる波は、弁天橋の左手側で出会って、衝突しては溶け合うようにして消えていく。この波の動きが、片瀬川が運ぶ土砂をひとところに集めて、引き潮の時だけ姿を見せる砂の道を作り出している。
この光景は、湘南の海にぽっかりと顔を出した江ノ島があるからこそといえる。
晴人はそれを眺めて、確かに心が少し落ち着くような気持ちになった。
「でも、その、何というのか……。あ、ありがとな。葉山は俺を元気づけようとして誘ってくれたんだろ?」
晴人の言葉に、伊月は一瞬だけ驚いて顔をピクリと緊張させたが、すぐに緩ませてクスリと微笑んだ。
「そういえば先輩って、これで部は引退ですよね? 引退してからはどうするんっすか?」
「どうするか、って……。そりゃ受験勉強だろ? 三年生なんだから」
「むう! 何ですか、それ? 先輩って、本当につまんない人っすね!」
晴人としては、聞かれたことに答えたつもりだった。だが、それを受け取る側の伊月にとってはそうでもないようである。
素っ気ない返答をされた伊月は、フグのように頬を膨らませてむくれる。
そして、江ノ島を指さす。
「先輩、今からあそこに行くっすよ!」
言うやいなや、伊月はスカートをたくし上げて太ももの上半分の辺りで縛る。普段はスカートに隠されている生の太ももが露出し、それを見ていた晴人を困惑させる。
さらに靴を脱ぐと、裸足になって海に向かって駆けだしていく。
「行くってそっちからかよ? おい、ちょっと待てよ葉山!」
晴人の静止を聞かず、伊月は海に向かって走って行く。
「先輩、早く早く。ついて来ないと置いてきぼりにしちゃうっすよ~!」
晴人は慌てて靴を脱ぐと、急いで伊月の後を追う。
「おい、戻れって! 危ないだろ! 懲りてないのか」
「平気っすよ先輩。時間的に潮の満ちはじめっすから、満潮まではまだ時間があります。歩いて渡れますって!」
伊月は裸足のまま駆けだし、バシャバシャと音を立てて対岸へと向かっていった。
晴人も後を追うように駆け出す。伊月が言ったとおり、水没してはいるが、それほど深いわけではない。脛が浸かる程度だ。
ただし、それでも砂浜を歩いたり、走ったりするのとは訳が違う。油断すれば足を取られる危険があるのだ。
晴人は不安を抱え、伊月から目を離さないようにして後を追った。
※
「はあ……、はあ……、先輩……、やっと着いたっすね」
肩で息をしながら、伊月は隣で同じように護岸に手を突いている晴人を見る。
「本当に無茶をする奴だよ。いいから早く島に上がるぞ。本当にこのままだとまずい」
急いで晴人は柔道着などが入っているショルダーバッグと靴を岸に投げ入れる。その後、伊月が持っていたスクールバッグと靴も受け取り、同じように岸に投げ入れた。
対岸に辿りつく頃には、かなり水位が上昇してしまった。わずかに脛につくぐらいだった水位が、今では膝のあたりにまで達している。その所為で彼の制服のズボンは海水で濡れてしまっていた。
「あの、先輩。こんなタイミングで言うのも何なんっすが……」
「どうした葉山? 早く上がる準備をしなよ」
「その、実はあまり力が無いので……、よじのぼれそうにないっす」
「……マジか? どうするんだよ」
そうこうしている間にも、水位は徐々に上がっていく。
「あの、先輩……。私を少し持ち上げてくれないっすか? そうすれば、柵に手が届きそうっす。……お願いできますか?」
「そう言われても……、なあ」
晴人は、むき出しになっている伊月の太ももを見て、戸惑いを隠せないでいた。
「……本当に、本当にいいのか?」
晴人が言っていることの意味を察した伊月は、少し恥ずかしそうにコクりとうなずく。
それを受けた晴人は、伊月の背後に回りこむ。そして膝を曲げて、彼女の両膝を抱えると、今度は膝を伸ばして立ち上がる。ちょうど伊月の尻を右肩に乗せるような体勢になる。
思いのほか伊月の体重は軽く、彼女の身体はすんなりと持ち上がった。
「きゃあ! ……ちょっと、……せ、先輩! く、くすぐったいっすぅ!」
だが、自分の太ももに触れる晴人の手の感触に、伊月はたまらず声を上げてしまう。
「文句言うな! 俺だって色々とヤバいんだ! 早く柵を掴めって!」
一方の晴人も、伊月の下半身がもたらす柔らかな感触に気を動転させていた。
太ももは晴人の手を吸い込むような形で沈むかと思えば、それと同じくらいの力で跳ね返そうとしてくる。それが吸い付くような感触を晴人の手に伝える。それだけではない。彼の右肩には、太もも以上の柔らかさをもつ、包み込むような尻の弾力が伝わっているのだ。
女子の肉体がもたらす独特の感触に、晴人の心臓の鼓動は早鐘を打つように激しくなる。
「掴めました! 先輩、ありがとうございます!」
「はあ、良かった……って、わあ! 早く! 早く上がれ!」
護岸によじ登った伊月を見上げる形になった晴人は、顔を真っ赤にして催促する。
そのことに気づいた伊月も、顔を赤らめ、慌てて柵をまたいで島に上がった。
伊月が無事に上がったのを確認した晴人は、急いで柵を掴むと、コンクリートでできた護岸の溝に脚を掛け、踏ん張りを利かせて体を持ち上げる。
無事に江ノ島に上陸した二人は、地面にそのまま座り込んでしまった。
「はあ~! 何とかなってよかったな。まあ、また制服は濡れちまったがな」
晴人は、ずぶ濡れになったズボンを見て、隣にいる伊月に軽口を言う。
「……って、どうしたんだよ葉山?」
だが、伊月は恥ずかしそうに膝を抱えて地べたに座り込んでいる。心なしかどこか怒っているようにも見える。
「……先輩のえっち」
助けたってのに随分な言いかただと感じる。だが、晴人は言い返さずに敢えて黙っていることにした。
伊月を刺激しないように注意しながら、晴人は向こう岸に見えるリゾートマンションが建ち並ぶ湘南の風景を静かに眺めていた。そして、普段とは違う心境で眺める晴人は、その風景に魅入られてしまうのだった。
「……先輩、やっぱり、ありがとうございました。それと、また迷惑をかけちゃってごめんなさい……」
さっきまでの態度から一転して、急にしおらしくなってしまう伊月。
「まあ、いいんじゃないか? こうやって無事なんだから。ズボンから潮の香りがするのは微妙な気分だけどな。まあ、でも何というか、今は心に引っかかってたものが取れたような感じ……かな?」
なぜ語尾が疑問形になってしまったのかは、当の晴人本人も分からなかった。
だがその一言に、伊月は思わず安堵の表情を浮かべる。
「よかった……。先輩がそう言ってくれると少し安心します。……それに、実は今、わたし、ドキドキしてるんっすよ……。先輩の手に触られた感じがまだ残ってますから……」
「な、何てこと言い出すんだよ! あれは……、その、なんだ……。やっぱり、すまん」
「あの、誤解しないでください。嫌だから、じゃないっすよ。その逆っすよ。あの時、稲村ヶ崎で波に足を取られちゃった時も先輩に抱きとめられて、不謹慎ですけど内心は嬉しかったんです。それにタオルまで貸してくれて……、家に帰ってもそのことばっかり考えてて。次の日に電車で先輩と鉢合わせしちゃった時なんか、ほんとにわけわかんなくなって……」
伊月は足を抱える手をギュッと強く締める。
それを聞いた晴人は、あの日になぜ伊月の様子が変だったのかについて見当をつけることが出来た。なぜ態度がよそよそしかったのか、なぜ距離をとっていたりしていたのかを。
何とか上手に話題を振ることはできないだろうか、と晴人は空を仰ぎ見て考えるのだった。
「あ、そうだ。写真を見せてくれるか? 頑張って撮ってたんだろ?」
晴人の提案に、伊月は「あ、そ、そうっすね!」と意表を突かれたような様子で応じる。
伊月は、撮った写真画像の見方を簡単に説明してからカメラを渡す。それに従って、晴人は一番最初のショットから、流すようにして見ていく。動く対象を撮影するために連写を用いているためか、その数は膨大な量だ。当然に、すべてがベストショットではない。
だが、その膨大な没ショットの中に、素人の晴人でさえも目を見張る出来映えのものもあるのだ。それが出たときは、思わず次の画像へと送るボタンを押せずにいるほどだ。
伊月が晴人の試合を写真に収めていたのは三回戦からだった。晴人が特に見入ってしまったのは、三回戦で勝利を決めた内股が決まった瞬間、それから四回戦で相手の出端を挫くために放った逆の大外刈りで攻め込んだ瞬間だった。
だが、それだけではなく、晴人は最後の方のショットでも、画像を送る手がゆっくりとなってしまっていた。それは、晴人が一本負けをするまでの過程でもある。
写真で見ても、晴人が内股を掛けるタイミングはほぼ完璧だった。実際に勝利を確信して技を掛けた。しかし、連続写真で見てみると、相手は冷静に晴人の体の捌きを読み、刈り上げる足から一瞬のところで逃れていることも分かる。相手の返し技も、まさに見事なものであったのだ。
そして畳の上に仰向けになって呆然としている自分を、晴人は見るのだった。
自分が負けた。その事実を晴人はもう一度確かめていた。
そうして、写真画像のチェックに没頭している時である。
「そういえば先輩……、さっき私のパンツ見たっすよね?」
不意打ちで声を掛けられた晴人は、ギクッと体を緊張させる。
「それもすまなかった。事故とはいえ、見たことは変わらないからな」
バツが悪そうに晴人はカメラを伊月に返すと気まずさのあまり下を向いてしまうのだった。
「いや、そうじゃなくって……、あのパンツに見覚えがないっすか?」
伊月のさらなる問いかけに、晴人は困惑する。
必死で記憶を辿り、伊月のスカートの中を見てしまったのはいつだったか、どんな場面だったかを思い出そうとする。
もっとも、そんなこと身に覚えが無いのだが。
「俺、葉山のスカートの中を見ちまったことはあったっけか?」
「ちょっと、なんで覚えてないんすか? あれ、先輩に買ってもらったパンツなんすよ。稲村ヶ崎近くのコンビニで……」
「んなこと言ったって、どんな柄なのかは見ていなかったからな」
「んな? 柄も確かめないで渡してきたんすか! 信じらんないっすよ、先輩!」
伊月は強い口調で抗議してくる。
「落ち着けって。俺が女物の下着を、柄までチェックしてたらおかしいだろうが!」
「そういう問題じゃないっす! 女の子にとってパンツはお祭りの褌と一緒なんすよ! 勝負の時にはちゃんと気合いを入れて選んでるんですからね! 軽く考えたらダメっすよ。先輩は覚えているっすか? 今日は私にとっての勝負の日だったんすよ!」
伊月はさらにまくし立てる。
「勝負? 勝負って、確かに今日は葉山にとって取材デビューだったよな」
伊月は口をへの字に結んで力強く頷く。その気持ちの入りようたるや相当なものであり、鼻息の音まで聞こえてくるような気がするほどだ。
だが、勝負という言葉に晴人はもう一つの意味を見出す。
それは、港の見える丘公園で伊月が晴人に伝えたこと。そして、大会前の下校時に、彼女が猶予をくれたこと。
――あなたにとっての特別になりたい。
それが伊月の想いだ。
晴人は伊月の顔を見つめる。
固く結んだ口元はかすかに震えて、見つめ返す瞳には期待とともに怯えや不安の色もうかがえる。その不安がどういうものなのかは、晴人でも理解できる。
晴人はすっくと立ち上がると、荷物を肩に掛けてから伊月の手を強く掴んだ。
「え、ちょっと先輩? どうしたんすか!」
「悪い、ちょっと付き合ってくれ!」
伊月を強引に引き起こして、すたすたと参道へと向かって歩いて行く。
※
道の両脇に商店が建ち並ぶという典型的な門前町の景観が広がる参道をひたすらに歩く。道は奥へと進めば進むほど勾配がきつくなってゆき、手を繋ぎ歩く二人の歩みを鈍らせる。しかし、それにも構わずに晴人は伊月の手を掴んだまま坂道を登っていく。
やがて二人の目の前には、江島神社として親しまれている辺津宮の入口となる石段と朱塗りの鳥居とが現れる。
その鳥居をくぐると、目の前にはまるで浦島太郎に出てくる竜宮城のようなデザインの楼門が待ち構えている。
そこにつづく石段を、伊月の手を引いて一歩一歩踏みしめるようにして上がっていく。
ふと、晴人は後ろをうかがう。それに反応するようにして、伊月は顔を逸らして、伏し目がちになる。
「あと少しだからな。すまんがもうちょっと我慢してついてきてくれ」
晴人の声に、伊月は小さく頷く。
右に、左にと折れ曲がる石段を登り切ると、晴人が目指していた場所が、江島神社の拝殿があった。拝殿を前にして、二人は並んで立つ。
「先輩、ここって……」
伊月はかすかに声を漏らす。だが、晴人は多くを語らずに伊月の手を引いて促すだけだ。
「さっそくお参りしようぜ」
拝殿に臨み、賽銭を入れたあとに二人は柏手を打ち、願を掛ける。
「……まずは下に降りようか」
神社を出た晴人と伊月は、参道の坂道をひたすら下っていく。
「辻堂先輩、一体何だったんですか、突然に神社へお参りして?」
その道すがら、伊月は晴人の背中に問いかける。
「……やっぱり言わなきゃダメか? その、俺としては伝わるかなって思ったんだが」
晴人は決まりが悪そうに頭を掻く。そして、ゆっくりと坂を下りながら後ろを歩く伊月に思っていることを語るのだった。
「そうだな。俺にとってお前は、葉山は特別だよ。しつこく後を付いてきて、よしてくれって言っても食い下がってきて。挙げ句の果てにだ。服が濡れるのもこれで二回目ときてる。それも、葉山の誘いに付き合った時に限ってな」
「うう、何か悪いことばっかり言ってませんか?」
「そうか? そういう経験をさせてくれる奴なんて、そうそういないと思うぞ。葉山と一緒にいなきゃ、そういう思い出もゼロだったろうな」
晴人は歩みを止めて後ろを向き、伊月と向き合った。
伊月は突然振り返った晴人に驚き、思わず結んでいた口を小さく開いてしまう。
「その、ごめんな、こういうのを中々上手く言葉で伝えられなくて。こ、答えから先に言っちゃうとだな、その……、俺と付き合わないか? 葉山が嫌じゃなければだけど」
大切なことを伝えなければいけないというのに、晴人は伊月を最後まで見つめることができず、途中で横を向いて恥ずかしそうに頬を掻いてしまう。
その仕草に、伊月は思わず「ふふっ」と笑いを漏らしてしまう。
「先輩、わたしはもっとロマンチックな伝え方を期待してたのに、なんかメチャクチャ締まらない言い方っすね。でも、分かりました、こんなわたしでもよければ、晴人先輩の彼女にしてほしいっす」
伊月は目尻を下げて微笑む。
「でもなあ、葉山は俺の彼女になってくれるわけだけども、何だか現実感がないな。そもそもカップルって何をやるんだろうな」
女子とはお気楽な雑談ぐらいしかしてこなかった晴人は、恋人というのがどういう風にして一日を過ごすのかまったく見当が付かない。
「先輩、現実感がわかなくて当たり前っすよ。なんすか、今の呼び方は?」
「え? 俺は何か変なことでも言ったか?」
首をかしげることしかできない晴人を見て、伊月は目を閉じて盛大に息を吐く。
「鈍いっすねえ、彼女を相手になんで名字呼びしてるんすか? わたしはもうとっくに晴人先輩って言ってたっすよ♪」
伊月は勝ち誇ったようなたたずまいで晴人を見る。ちょうど坂道という地形も手伝って、まさに伊月が晴人を見下ろしているという格好だ。
その位置関係に、晴人は悔しそうな表情を浮かべていたのだった。
「ほらあ、は・る・と・先・輩♪ はやくはやく」
「……じゃあ、伊月。こ、これでいいのか?」
伊月は「はい♪」と答えた。そして、気をよくしたのか「もう一回わたしのこと名前で呼んでくれないっすか?」と、甘えた口調でおねだりしてくる。
「……伊月」
「うーん、いいっすねえ! おまけでもう一回、いいっすか?」
「もういいだろ! それよりも、俺達は付き合うんだろ? な、何をするんだ?」
これ以上は付き合いきれないとばかりに、伊月のおねだりを制する。
伊月は「ちえー」と不服そうに頬を膨らませる。
「そうっすね。わたしも男の人とのお付き合いは初めてですから、よく分からないっす。でも試しにここらをブラブラしてみないっすか? そしたらちょっとはデートっぽい感じになるんじゃないっすかね?」
伊月は軽い口調で言い放つと、弾むような足取りで坂道を下っていく。
晴人から二歩、三歩と先へ進んだ後に、伊月は振り返って笑顔を送る。
位置関係が逆転し、晴人を見上げるような形になった伊月の姿は、彼女の背後から差す日の光によって昏く浮かんでいた。
参道を下った二人は、江ノ島の庭園に再び足を運ぶ。
満潮を迎えた海は、岸壁すれすれのところまで水位を高め、時折高い波によって陸地に乗り上げてくる。
「うわあ、結構すごい潮の満ちかたっすね。無事に上陸できてよかったっすね?」
「まったくだ。もう、ああいうことはしないでおこうな?」
伊月は「ははっ、そうします」とごまかし笑いをする。
「でも、日の傾き加減とか、海のうねり方とか、中々絵になってるっすよ。それに、今気づいたんすけど、江ノ島から見る小動岬って結構かっこいいっす」
江ノ島から見た景観に感動した伊月は、カメラを構えて夢中になってシャッターを切っていく。今は新しいことに挑戦しているとしても、風景写真が彼女の原点であることには変わりないのだろう。
楽しそうに撮影をしている伊月を横で見ていた晴人は、両方の人差し指と親指を使って長方形の枠をつくる。
それを目の高さまで持っていくと、その枠を通して伊月の姿を見るのだった。
片目をつぶり、熱中するあまりに口角が引き上がったその横顔には、ある種の貫禄すらうかがえる。そんな彼女の姿を、西日が黄色く照らしている。
ふと伊月が手を止めてカメラを胸元に下ろしていく。
そして、晴人の方へと振り向くのだった。
その時の伊月の顔は、そう簡単には忘れられないと、晴人は思った。
目尻を下げて、喜びが前面に出ている、細められた目。引き上がった口角と、そこからのぞく白い歯。それらが伊月の愛らしさを存分に引き立てている。
「どうしたんすか、先輩? 急にカメラマンみたいなポーズして」
伊月は微笑みを崩さずに尋ねてくる。
「いやあ、以前に伊月は俺のことをフォトジェニックだとか言ってたよな?」
「そうっすよ。それがどうしたんすか?」
「こうやって見てると、伊月のほうがフォトジェニックな被写体に思えるなって」
晴人は何気なく言ったつもりだった。
だが、伊月は見るからに慌てている。
「なななっ! なに言ってるんすか、晴人先輩! 試合で頭突きされたもんだから、とうとうおかしくなっちゃったんすか?」
どさくさ紛れに失礼なことを口走る伊月に、晴人は苦笑しながらも言葉を続ける。
「何を言う。俺は正気だぞ。そうやって慌ててる伊月も可愛いじゃねえか。俺も伊月の写真を撮ってみたいなって思い始めたよ」
「や、やめて下さいって。わたしは撮るのはいいけど撮られるのはNGなんすから!」
「なんでだよ? 俺達の思い出の写真がゼロになっちゃうだろ? たまには伊月も写真に撮られてみろって。もしかしたら自分の撮影の参考にもなるんじゃないか?」
いつもは振り回す役だった伊月が、今は振り回される側にまわっている。立場が逆転した状況に、晴人は伊月の知られざる一面を、恥ずかしがりな一面を垣間見ることになった。
だが、顔を真っ赤にして慌てているが本当に嫌がっている様子はない。
それが何よりの証拠に、への字のように下がった口の端がときおり、上に引き上がったりする瞬間があるのだ。
今の晴人には、伊月のどんな姿も可愛く思えて仕方がなかった。それは、彼女と付き合うことになったという事実がもたらした主観的なものかもしれない。
だが、それでも晴人は自信を持って言うことができる。
自分の彼女、葉山伊月は可愛い奴だと。そして、その姿と、彼女がたたずむ世界とを一緒に写真に収めてしまいたくなるような、最高の被写体だと。