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晴人のたたかい

 各階級の試合が朝十時からスタートした。

 そこから、晴人にとっても、伊月にとっても勝負が始まる。晴人の試合の順番は組み合わせ表では後半に回されているが、この待ち時間のなかでいかに緊張感を維持できるかが肝心となる。

 また、そのなかで各々が試合に臨むわけだが、彼らの試合を見守ることも仲間の大切な仕事である。

 晴人もそのために、試合会場の一つに足を運んでいた。

 写真部の伊月も柔道部員の奮闘ぶりをできるだけ写真に収めようと試合順に注意を配り、一眼レフのカメラからハンディサイズのデジカメを使い分けて各試合の撮影に臨んでいる。

 今も、伊月は軽量級の選手の試合を撮影している最中だ。人でごった返す試合会場から隙間を見つけて、そこから望遠レンズを駆使して試合の写真を撮るためにシャッターを切り続けている。

 それを、控え場所から覗いていた晴人は、やはり彼女に魅せられてしまうのだった。

 普段の伊月が見せる、奔放で、どこかとぼけたところがある雰囲気は影を潜めている。カメラを携えて、最高の瞬間をレンズに捉えるため身構える彼女は、ジッと決定的な瞬間がやってくるのを待ち続けているカメラマンのようにも見える。

 彼女がカメラを向けている試合場では、晴人と三年間、共に汗を流し練習に励んでいた仲間が奮闘している。

 彼は弱気になりやすい性格で、組み合わせ表が届いた際、運悪くシード枠(前大会の上位者四名は、原則として組み合わせ表の四隅に配置される)にあてがわれ、それを嘆いていた。

 だが、晴人をはじめとした部員達の激励もあり、気力を取り戻したのだろうか。ほとんどの試合を一分足らずで勝利する前回優勝者を相手に、二分以上も時間が経過するという、思いも寄らぬ闘いぶりを見せた。彼の果敢な攻めに相手は何度かよろめいたり、得点にならずも畳に倒れ込むことがあった。

 会場は、その予想外の展開によって独特の緊張感と熱に包まれる。

 だが、それも終わりを迎えた。試合終了まで三十秒ほどになった時である。

 組み際からすでに技は完成していたのだろう。相手は袖を掴んだ状態から一気に至近距離まで足を運び、ちょうど懐に入り込むような姿勢になっていた。そこからはあっという間だ。襟も掴まれる。

 晴人の友人の体は、背負い投げによって宙を舞った。

 多分相手も余裕を失っていたのだろう。受け身をとる間も与えず、信じられないスピードで勢いよく畳にたたきつける。

 一瞬、場が静まりかえるほどの衝撃音が武道館に響き渡った。

 審判は右手を高く上げて「一本! それまで」と試合の終了を告げる。

 天井を仰ぎ見る友の目には涙が浮かんでいた。けがに繋がるようなダメージにならなかったのは幸いだったが、立ち上がるのが精神的につらい様子だった。これが三年間の部活で、最後となる大会。それが終わるのだから。それはこの会場でそれぞれの闘いを待つ三年生の選手たちが共有していることでもある。

 試合会場の周りには、拍手が響く。

 それが勝者に送られたものなのか、それとも奮闘を見せるも敗れ、畳を去りゆく者に送られたものなのか。受け取る者によって、送る者によって異なるだろう。その拍手の音をそばで聞いている晴人は、後者である。友の三年間の部活人生の締めくくりに、こみ上げてくるものを押さえ、心の中で賞賛を送る。そして彼の分まで自分が闘うことを決意するのだった。

 伊月は彼が投げ飛ばされたその瞬間をも、そして、立ち上がり開始線に戻り、立礼をするところをも、すべてカメラに捉えていく。

 それを見て晴人は、以前に伊月が話してくれたことを思い出す。その人の勇姿は別に格好いいところだけを撮ってても見ることなんてできない。試合の始まりから終わりまで、いかに闘って、いかに終わったのか。それに勝敗は関係のないことだ。

 そして、メモリーカードを交換すると、試合の組み合わせ表をチェックして、次の会場へと足を運ぶ。途中で晴人の近くを通りかかるが、チラリと彼を見るだけ。そのまま通り過ぎるのである。彼女は、彼女の勝負がある。そこに身を投じているのだ。そして、そこに言葉は無用であるとも言える。

 その姿に励まされた晴人は、必死で自分を奮い立たせる。

 伊月が必死で闘っているのだ。ならば自分も負けてられないではないか。

 晴人は、試合会場に向き直るのだった。


       ※


 そして、晴人の試合の順番がようやく回ってきた。

 晴人は自分の両頬を手でパチンと叩いて気合いを入れ、畳の上に上がる。

 一礼をしてから試合場の開始線まで歩を進める。

 目の前にいる相手は、今回初めて顔を合わす相手だ。そのこと自体は、柔道の個人戦では珍しいことではない。そして、それだからこその独特の緊張感が生まれる。

 互いに立礼をして、両選手は開始線を踏み越える。

 そして、審判から「始め!」と試合開始の号令が出された。

 試合が始まった。

 晴人はすぐに相手に組みかかりにいった。右組みなのか、それとも左組みなのか、相手の組み方を把握しなければ有効な技を使うことが出来ない。試合の序盤では重要な部分である。

 右組みの晴人は、相手の袖を掴む引き手ではなく、敢えて襟を掴む釣り手を取りに行く。

 釣り手を取られれば、相手が右組みの場合には、対抗して奥襟を取ろうとしたり、晴人の釣り手(右手)の袖を掴んで組み合うようになる。逆に左組みであるなら、晴人の釣り手を制御しようとし、下側から晴人の右襟を取ろうとする。それがよくあるパターンだ。

 釣り手を取られた相手は、腕をくぐらせて晴人の右襟を狙ってきた。

 ――左組みだな。

 晴人は上側から釣り手を掴むという、やや不利な状況ながらも、そのまま相手の引き手を掴みにかかる。

 しかし、右組みと左組み、いわゆるけんか四つと呼ばれる体勢の場合、まともに組み合うかたちにはなりにくい。引き手側の距離が遠くなってしまうからだ。

 晴人は前に出ている相手の脚を後ろに下げさせようと、大内刈りで相手の左脚を内側から外側に向けて刈り払う。

 だが、釣り手しか掴めていない状態で技を掛けても効果はたかが知れている。相手は多少よろめく程度で、姿勢はいっこうに崩れない。

 相手は、釣り手も離して、半歩あとずさって距離を取る。晴人は、それを許さずに、相手を追い、左襟を掴むと体重を乗せて圧力をかける。何としても、相手の足を下げたいからだ。だが、その動きはとても冷静とは言えないものだ。

 晴人が、さらに強引なかたちで左手を伸ばし、引き手を掴みに行こうとしたその時だった。

 晴人の身体が完全に浮き上がる。

 すぐに、場外からは試合を見守っている部員達の悲鳴が上がった。

 相手が強引に伸ばした晴人の腕を捕まえて内股を仕掛けたのだ。右膝を内側から刈り上げられた勢いで、両足が浮いてしまったのだ。

 だが、同時に相手の身体もつんのめってしまい、同体になって倒れ込む。

 審判の「技あり!」という判定を耳にし、放心状態だった晴人は一瞬で気を引き締める。

 相手はこのまま寝技で押さえ込もうと覆い被さってくる。

 晴人はそれに対抗するように、仰向けになって両足を使って、相手の鼠径部や膝上を制して牽制する。それぞれの部位に足の裏をピッタリとくっつけて、それ以上は近づけさせない。

 機転を利かせた晴人の防御に、相手の攻めが鈍くなる。下手に動けば、膝を蹴り押されて攻守逆転されてしまうからだ。

 膠着状態になったとみて、審判が「待て」を告げる。

 寝技の攻防をやめ、両者は開始線に戻り、試合が再開される。

 そこから、みたび同様の組み手争いにもつれ込む。相手は、晴人に下側から釣り手を持たせないように圧力を掛けてくる。

 晴人は、それを承知の上で、わざと何度か下側から釣り手を取る動作を見せていく。

 そして、相手が引き手を掴もうと、身を乗り出したときだった。

 晴人は右手を相手の襟から離す。その手は、流れるように相手の左腕の袖を外側から抱え込むように掴んでいた。

 その瞬間の出来事に、意表を突かれた相手の顔が驚愕の様相を帯びる。

 後は、あっという間だった。晴人の身体は自らの右足を軸に時計回りに急回転する。

 晴人の体重に回転する力が加わり、それが相手の左腕にすべてかかる。その力に耐えきれずに、相手の体は大きく左に傾いた。

 晴人はそのまま相手の左腕を抱え、一本背負いを決めた。

 相手の身体は、遠心力で持ち上がり、晴人の背中越しに畳にたたきつけられる。

 審判が「一本!」と声を張る。そのすぐ後に試合を見守っていた後輩の部員たちが晴人に拍手を送る。

 一礼をして畳を後にする晴人は、乱れる呼吸を整えるためにゆっくりと息を吐く。

 内心、晴人は冷や汗をかいてしまいそうな状態だった。相手の体勢が崩れていなかったら、恐らくは寝技に持ち込まれて敗北していただろう。

 心に動揺を抱えた状態で、彼は伊月の姿を探す。

 そして、伊月を見つける。

 彼女は必死に部員達の試合を撮影している。遠く離れた場所にいるのに、彼女の顔に、眼に熱が籠もっているように晴人には感じる。

 その姿に、晴人は余計な力が抜けるような思いがした。

 伊月は闘っている。自分のすべきこと、自分がしたいと欲していること、やり遂げないといけないと思うことに。

 彼女の姿に答えるかのように、晴人は自分を奮い立たせるのだった。


       ※


 二回戦。

 またもや、初めて顔を合わせる相手だ。

 試合開始とともに、様子見もかねて襟を掴み、釣り手をとる。

 すると相手は、右手で晴人の柔道着の襟、特に首の後ろ側を強く掴んでくる。

 これはいわゆる奥襟をとるという動作だ。この掴み方をすると、相手の頭を下に向けさせて投げ技の防御をしにくくさせることができ、なおかつ相手を胸元に引き寄せることで投げ技の効果を高めることができる。腕力に自信のある選手、または一瞬で勝負を決めることが特に必要な重量級の選手が好む組み方である。

 一方で、この組み方には弱点がある。この組み方が有効なのは、相手の頭を下げて猫背のような姿勢にさせた場合だ。相手の姿勢がほぼ真っ直ぐの状態であった場合は、逆に襟を掴んでいる側の腕、要は釣り手の腕、脇が無防備になってしまう。姿勢も不安定になり、揺さぶりを受けやすくなってしまう。

 つまり、奥襟を掴まれた晴人がそれに対処する方法は自ずと導き出される。それは絶対に頭を下げないこと。相手が圧力を加えてきても、絶対に屈しないことだ。

 とはいえ、好んで奥襟をとるだけのことはある。晴人が頭を下に向けまいと抵抗すれば、より一層の力を加えて、晴人の頭を下げさせようとしてくる。

 晴人は相手の釣り手の力を弱めるために、足払いなどを駆使して注意を逸らそうとする。

 しびれを切らした相手は、晴人の頭を抱え込むようにして引き付け、踏ん張っている晴人の膝部分を刈り払おうとした。

 奥襟を掴んだ状態からの定番とも言える技、払い腰を仕掛けてきた。

 晴人の反応が遅かったならば、相手はそのまま投げることができただろう。しかし、晴人のほうが一瞬早かった。

 引き込まれる直前のところで胸を張り、腰を相手にぶつけることで相手を前へと押し出す。バランスを失った相手は、投げきれないまま畳みに膝をつくのだった。

 晴人はそれ以上の深追いは避け、半歩ほど身を引いて距離をとる。

 審判は「待て!」と宣告し、開始線に戻るように促す。

 両者とも開始線に戻り、試合が再開される。

 晴人は、極端に横向きの姿勢、いわゆる半身の体勢で再び釣り手をとりに行く。右手で相手の襟を掴むも、やはり半身の体勢をやめたりはしない。

 その状態で、晴人は相手の右手の挙動を注意深く見る。

 相手の手は肘が上がり気味で、すぐにでも上から振りかぶって襟の後ろを掴もうとしていることがうかがえる。

 つまりは奥襟を掴み、大技で一気に投げるという戦法が得意な相手と見える。

 そう判断した晴人は、半身の姿勢をやめて、大きく後ろに下げていた左足を大きく踏み出していく。

 それを待っていた相手は、高い位置から晴人の襟ではなく、背中を掴もうと手を伸ばしてくる。

 だが、それこそが晴人の待っていた動作だった。

 晴人は冷静にその腕をいなし、相手の肘のあたりの袖を左手で強く掴む。

 さらに、そのまま袖を握りしめた手を力いっぱいに自身の右肩に向けて押し切る。

 晴人の左の拳は、彼の目の前を通過し、袖を握られている相手は大きく前につんのめる。

 その瞬間、先ほどの試合で決めた一本背負いと同様の足運び、すなわち右足を軸とした時計回りで回転する。

 相手は晴人の腰を支点にして縦回転し、背中から畳へと倒れていった。

 袖釣り込み腰という技が決まった。

 審判は「一本!」と声を張り、試合が終わる。

 畳を歩く晴人は、ホッと安堵する。短時間で試合に勝利したからだ。

 先ほどの決まり手、袖釣り込み腰は奇襲技として用いられることが多い。だが、技を掛ける側にとっては難易度が高い技だ。タイミングを見誤ると防御不可能な体勢になってしまうため、敗北は必至となる。つまりは勝利を決めるか、それとも負けるかの二択だ。

 だが、晴人は賭けに出た。一回戦では体力を多めに消費してしまったからだ。ここで、試合時間が大幅に長くなれば、三回戦では疲労がピークに達してしまう。それは何としても避けたかったのだ。

 控え場所に下がった晴人は、常温にしたミネラルウォーターを飲み、水分を補給する。

 後輩の男子部員は、晴人の疲労を少しでも回復させようと、肩を揉んだり、手のひらのマッサージをしたりしていく。

 ある程度それを施してもらってから、晴人は後輩たちに礼を言い、次の試合に備えて体力の回復に努める。

 その間にも、晴人は気がつけば伊月の姿を目で追っていた。自分と同じ、最後の大会に、その一試合、一試合に、これまで積み重ねてきたものすべてをぶつけ畳の上で闘う仲間たち。

 その彼らを、一心不乱に追いかけて撮影する伊月。その姿に、晴人は心を惹き付けられるのだった。

 晴人の視線がどこに向いているのかを、彼の傍にいた美千留という女子部員が察する。伊月の友達でもある彼女は、晴人に「次の試合、撮ってもらうように言っておきましょうか?」と耳打ちしてくる。

「いや、大丈夫だよ。葉山もたたかっているんだ。あいつの顔を見てみろよ。真剣そのものだよ。立ってる場所が違うだけさ」

 晴人は、それをやんわりと辞退した。

「でも、ありがとな。去年の新人戦の時、葉山を誘ってくれたんだって? あいつから聞いたんだけど。お前のおかげだよ、ほんとに」

 不意打ちのように告げられた美千留は、戸惑いがちに「それほどでもないですよ」と言う。

「……でも、だからこそ次の試合も負けられねえよ。俺のためにも、葉山のためにも」

 晴人は言い聞かせるように言葉を発すると、自分の戦いの舞台である試合場を見据えた。


       ※


 そして三回戦。

 晴人の顔が険しくなる。それもそのはずである。

 今、晴人の目の前にいるのは、去年の新人戦で負かされた相手である。

 試合終了が迫ったところで、場外に押し出されて判定負け。その屈辱的な敗北を晴人にもたらした相手である。

 だからこそ、絶対に負けるわけにはいかない。

 晴人は、鋭い視線を相手にぶつける。相手も、お返しとばかりに晴人をにらみ返す。

 促されて、両者は立礼する。そして、開始線を踏み越える。

 審判の「始め!」という声が出され、試合が始まる。

 両者は組み合う。

 相手がラフな戦法を用いることは、対戦経験から予想できる。想像通り、晴人にプレッシャーを与える意図で、頭をグリグリと晴人の頭に押しつけてくる。これは去年での戦法と同じ。晴人はそれに付き合わずに、自分の有利な体勢をつくりにかかる。

 相手は、足払いを掛けてくる。だが、ほぼ蹴りに近い形で、ペースを狂わせるため、相手を怒らせて冷静さを失わせるための挑発に近い。もちろん、晴人も足首にダメージを受けるうえに、不愉快な気分になる。だが、挑発に乗って去年のような失敗をするつもりはない。

 不用意に飛ばしてきた足をとらえて、逆に足技を掛けて相手を揺さぶっていく。

 晴人が挑発に乗ってこないことに気がついたのか。今度は奥襟を掴んで乱暴に引き回し、無理矢理な体勢から払い腰をしかける。

 その体勢と技の仕掛け方から、浴びせ倒すようにして同体となって投げる技法、いわゆる巻き込みを施そうとしていることを察知する。

 そうはさせまいと、晴人は背筋を反らせ、腰で相手の身体を突き飛ばして防御する。結果、相手は技が出せずに、体だけが畳みに倒れ込んでいった。すかさず、晴人は腹ばいになっている相手にのしかかり、寝技にいく素振りを見せる。相手に精神的な圧力を掛けるためだ。

 だが、審判は「待て!」と宣告し、試合を止める。

 そして、開始線に戻ってから試合が再開される。少なくとも、それほど技術がある相手ではない。こっちがペースを乱さず、相手を制御できれば勝てる。

 そう考えて、組みにいったその時だった。

 試合場から、鈍い音が聞こえてくる。

 不快な衝撃音と、鈍い痛みで晴人の視界が一瞬で昏くなる。

 審判が慌てた様子で「待て!」と宣言して試合を中断させる。

 試合場には、膝をついて頭をさする相手、そして、尻餅をついてこめかみを手で押さえ、苦悶の表情を浮かべる晴人がいた。

 審判は両者を交互に見て、様子をうかがう。

 ――やりやがったな、あの野郎。

 晴人は心の中で怒りに燃え、相手を睨みつける。

 相手の頭が晴人の側頭部にぶつかった。いや、間違いなく狙ってぶつけてきたのだ。

 だが、組み合っている時に頭を押しつけてプレッシャーを与えるのは相手のスタイルだ。そのようなスタイルをとる選手は他にもいる。だとすれば、たまたま衝突しただけとして済まされてしまうだろう。納得はできないが、その可能性が大だ。

 審判は両者に立って開始線に戻るように促す。

 脳みそがまだ揺れている状態ながら、晴人は立ち上がり、開始線へと向かう。

 その後、両者は決め手を欠いたまま試合時間だけが過ぎていった。

 そして、試合終了まであと二十秒ほどとなった。二人は赤畳みの上、場外際での攻防へともつれ込む。それは、去年に晴人が味わった状況とまったく同じだった。

 相手は、ここで押し出しにくるだろう。そうすれば晴人が故意に場外へ出たとみなされ、敗北が濃厚になる。

 審判はよほどのことがないかぎり、故意に押し出したという判断は下さない。ほとんどは押し出された方に反則(故意に場外へと逃げる)を告げる。だから、絶対に押し出されるな。

 これは新人戦の後に、顧問の教師から厳しく教えられたことだ。

 だが、場外際に立っているのは晴人だ。強い力で押されれば、場外へと出てしまうぐらいの、まさに瀬戸際に立っている。

 相手は、必ず仕掛けてくる。その直感どおり、相手は体重を乗せて、晴人の襟を掴んでいる方の手、右手で場外へと押し出そうとする。

 まさに、とっさの判断だった。

 晴人の右足が動き、前に出ている相手の右足を刈り払う。

 前に出している足に、つまり右足に体重をかけていた相手は、バランスを崩してよろめいてしまう。

 そのチャンスを逃さずに、晴人は回り込んで相手との位置関係を逆転させた。

 そして、相手が姿勢を立て直す前。晴人は相手の股の間めがけて足を運んでいく。

 ほぼ横向きで飛び込んだ晴人の腰が、相手の腰にぶつかる。

 その衝撃で相手の身体は上へと持ち上がった。

 相手を投げるための技は、ほぼ完成した。それを、晴人は肌で感じる。

 ――これで決める。

 晴人は上半身を軸足となっている左足に向けて反時計回りに捻り、飛び込ませておいた右足を後ろに向かって高く蹴り上げた。その足は相手の左の太ももを真上に刈り上げて、その体を宙に舞わせた。

 晴人の切り札とも言える投げ技、内股がお手本に近いかたちで決まった。

 相手の身体は弧を描くようにして飛び、背中から畳みの上に落ちる。

「一本! それまで」

 審判のよく通る声がした後に、会場からは大きな拍手の音が鳴り出す。

 晴人は気を緩めることをせずに開始線まで戻ると、審判の指示通りに乱れた道着を整える。

 審判は手をかざして勝者が晴人であることを伝えると、再び会場では拍手がわき起こる。

 立礼を済ませて畳を後にする晴人が、伊月の姿を見つける。心なしか、彼女の目尻が潤んでいるようにも見えた。

 思わず微笑みかけたくなる。

 だが、それはやめた。試合を勝ち進んでいる以上は次の試合に備えなければならない。まだ、彼女に声を掛けたり、笑顔を送るわけにはいかない。自分の勝負はまだ終わっていないのだから。


 四回戦。これを勝てば準々決勝へと駒を進めることが出来る。

 前回の大会での雪辱を果たした晴人は、より一層気を引き締める。

 相手は県内でも上位に入る強豪校の選手だ。そのような学校の選手と相まみえるところまで自分が勝ち進んできたことが、いまだに信じられない気持ちだ。

 だが、事実だ。晴人はこうして畳の上に立って、開始線の手前で相手と向かいあっている。

 相手は涼しげな顔で晴人を見ている。

 だが、彼を見返す晴人は相手の力量がいかに今までの対戦相手を上回っているかを、放たれる雰囲気から感じ取っていた。手強いどころではない。今まで対戦したどの相手よりもはるかに強い。そう直感した。

 だが、畳の上に立てば、そのような気後れをすることはゆるされない。勝負は勝負だ。自分の積み重ねてきたすべてを、一試合にぶつけていくしかない。

 晴人は立礼をすると、開始線を踏み越えて相手と対峙する。

「始め!」

 審判の声とともに、晴人は相手に向かっていった。

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