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特別になりたくて

 大船駅に到着した電車のドアが開く。

「お、おはようございます」

「あ、ああ。おはよう」

 ホーム側のドア付近に立っていた晴人は、乗り込んできた伊月とぎこちない挨拶を交わす。

「先輩、いつもこの時間の電車に乗ってるんですか?」

 動き出す電車の車内で、伊月は上目遣いで尋ねる。

「まあな。葉山もか?」

「いえ、いつもは一本あとの電車です。今日は早く学校に行こうかな、と思って」

 向かい合って立つ二人は、それ以降、言葉を交わすことはなかった。

 やがて電車は藤沢駅に到着し、二人は改札口を出る。

「あの……、これは昨日の代金です。受け取って下さい」

 改札を出たところで、伊月はおずおずと小さな封筒を差し出す。だが、晴人の方には顔を向けず、口調もかしこまっている。

 晴人は「ああ、ありがとうな」とだけ言ってそれを受け取る。

「後、タオルありがとうございました。ちゃんと洗って乾燥機にもかけておいたので」

 続けて、綺麗にたたんであるタオルを、晴人に紙袋ごと手渡す。

 それを受け取った晴人は、顔を逸らす伊月の横顔を見る。

「学校に行くか?」

 伊月はコクリと頷くだけだった。それから二人は北口を出て、通学路を歩いて行く。

 といっても、並んで歩いているわけではない。

 前を歩く晴人とかなり距離を取って、伊月が後ろからついて行く構図だ。登校中の他の生徒は、その光景をチラチラと見てはどこか取り繕った様子で学校を目指して歩いて行く。

 晴人も気になるのか、ときおり後ろに視線を向けて、後からついてくる彼女を確認する。

 だが、伊月は晴人の視線を感じ取るとよそ見をして彼と目を合わそうとしない。

 そんなやりとりが何度かあったため、晴人は足を止めて彼女と向かい合う。

「なあ、そんなに離れて歩くなよ」

 突然に振り向かれて、伊月はビクリと体をすくませると、さっきよりも露骨に目を逸らす。

「迷惑でしたか? 先に学校に行ったほうが良いですか?」

「いや、そうじゃなくて。そこまで離れて歩いてたら逆に目立つだろ。横に並んでいいから、早く学校に行くぞ」

 晴人の言葉に、伊月はハッとして顔を上げて彼を見る。

「並んで歩いていいんですか?」

「ああ、そうだよ。それと、その口調。俺に対してはあまり使わないでくれ。お互いに気を遣わなきゃいけない雰囲気になるだろ?」

 晴人は伊月の顔をしっかりと見据えて言う。

「でも、難しいです。昨日は先輩に迷惑をかけちゃいましたし、もしかしたら怒ってるんじゃないかと思うと。それに、……いえ、何でもないです」

 伊月は何かを言いかけて途中まで出かかった言葉を飲み込んだ。それを晴人は不思議に思ったのだが、なぜかそれについて聞こうという気が起きなかった。

「迷惑、か。どうかな? お互い服が濡れただけで、怪我しなかったんだから、そうは思わないよ。それに、あの時は葉山が波にさらわれたらまずい、と思って動いたんだ。結局は遅かったけど、海に投げ出されたわけじゃないからな。ほら、こっちに来いよ」

 晴人に促された伊月は、ためらいがちに彼に近づいていって横に並ぶ。

「いいんですか? その、うっとうしくないですか?」

「いつもうっとうしく後をつけてくる奴が何を言ってるんだ? それがなくなった方が調子狂うだろ。ほら、学校にいくぞ」

 晴人は伊月を促すようにして歩き出す。伊月は「は、はい。今行きます」と小さく答えるのだった。


       ※


 昼休み。

 晴人は教室棟の二階へと上がり、伊月のクラスを訪ねる。同じクラスの女子柔道部員に伊月の所在を聞いたところ、教室にはいないという返事がきた。

 晴人は伊月を探し続けた。

 写真部の部室へ。校舎裏へ。思いつくところを次々に当たっていった。

 そして、中庭にさしかかったとき、彼女の姿を見た。伊月は中庭のベンチに腰掛けて、何やら手に持っているものを眺めている。

 晴人は伊月に歩み寄り、彼女の正面で立ち止まる。

「……先輩?」

 気配に気づいたのか、伊月は顔を上げて晴人を見上げた。

「まったく、探したんだぜ? 隣、いいか?」

 伊月は場所を空けて、そこに晴人は腰掛ける。

「何を見ていたんだ?」

 伊月が眺めていたものが何なのか気になっていた晴人は、率直に尋ねる。

「昨日、先輩と一緒に行った稲村ヶ崎で撮った写真を見ていたんですよ。コンビニで現像したので、画質は部室で現像したものほどじゃないんですが」

 彼女はその何枚かを晴人に差し出す。

 一枚は、稲村ヶ崎公園を背景に撮った写真。二枚目は、江ノ島が映り込んでいる写真。あと一枚は、岩場から稲村ヶ崎の突端をバックに撮った一枚だ。

 モニターからではいまいち出来映えが分からなかった晴人だったが、こうして現像されていると、全体を見渡すことができて分かりやすい。

 素人目に見てもよく撮れている。それが晴人の抱く感想だった。写真に写り込んでいるのが自分であることは少々気恥ずかしいのだが、人物と背景となっている景色が上手い具合に調和して、一つの絵になっているようにも感じる。ただ、一方で気がついた点がある。それは、風景がメインなのか、それとも人物がメインなのかがいまいち分からないというところだ。

 ただ、少なくとも風景写真を撮る伊月のセンスは中々のもののようにも感じられた。

「ああ、これが昨日に撮ったものか。中々よく撮れてるじゃないか」

「そ、そうですか? 先輩にそう言われると何だか照れちゃいますね」

 伊月の口調は相変わらず硬いままだが、口元はゆるくなっている。

「でもな、素朴な疑問なんだけど、これは俺が一緒に写ってる必要はあったのかな?」

 晴人は伊月に、疑問点をできるだけ率直なかたちで伝える。

「やっぱり、そう思いますか?」

 伊月の声が少し曇る。晴人は、言い方がまずかったか、と少し不安になる。

「そういう意味じゃなくって、なんというか風景がメインなのか、俺がメインなのかがいまいちはっきりとしないってことだよ。ほら、こんなに周りの景色がよく撮れているじゃないか。正直、これだけでもよかったんじゃないかって思えるんだよ」

 慌ててフォローを入れるが、伊月は「別に、大丈夫ですよ」と言って取り繕う。

「でも、よく分かっちゃいましたね。結局、いざ人を入れて写真を撮ろうとしても、無意識に風景に目がいっちゃうんですよ。で、こうやって人物がどうも小さく写ったり、目立たなくなったりしちゃうんですよね。接写の時は多少は改善されるんですけど」

 伊月は正直な気持ちを吐露する。

 晴人は考えた。もしかしたら、伊月は伊月なりに自分の課題を自覚してそれを克服しようと頑張っているのかもしれない。つい最近までは、伊月がしつこくつきまとってくることだけに注意が向いてしまっていた。だが、それは晴人を頼りたいという気持ちのあらわれだったのかもしれない。

 もっとも、それがなぜ自分なのか。そのことがまだ晴人にはよく分からないが。

「なあ、葉山はやっぱり上手に写真を撮れるようになりたいのか?」

 伊月はコクリと頷く。

「そうか、なら練習だな。本当に俺でかまわないっていうなら付き合うぜ」

 晴人の言葉に、伊月は驚きの表情を浮かべる。

「本当にいいんっすか? いえ、すみません。いいんですか?」

「せっかく元の喋り方に戻ったのに言い直すなよ。ああ、そうだ。付き合うよ」

 それを聞いた伊月は、急に赤い顔になって晴人から目を逸らす。

「何だよ。上手に撮れるようになりたいんだろ? だったら、練習するしかないだろ。第一、もっと上達したいから、上手くなりたいから練習するわけだろ? それ抜きには上手になんかならないって。まあ、これは受け売りなんだけどな」

「それって、先生の言ってることですよね? 柔道部の」

 指摘を受けて、晴人は照れくさそうに頬を掻く。自分が伸び悩んでいた時に言われた台詞であるが、それゆえに不思議と心に残っている。だが、それはおそらく伊月にもあてはまることではないか。

「とは言っても、さすがに稽古中はできないけどな。でも、今度の日曜日はどうだ? 葉山の撮影練習もかねた散歩なんていいんじゃないかな?」

「それって、日曜日に先輩と一緒にお出かけできるってことで……、お出かけできるってことっすか?」

 伊月は、慌てて言い直す。それを聞いた晴人は、彼女を微笑ましく思うのだった。

「おう、そうだ。日曜日はとことん付き合ってやる」

 見得を切るように自信たっぷりに返事をする。

 それを受けて伊月は「なら……」と言葉を続けるのだった。


       ※


 日曜日になり、晴人は伊月と出かけるために、待ち合わせ場所となっている港南台駅に降り立つ。

 その後、改札口近くで伊月の到着を待つ。

 ポケットからスマホを取り出して時刻を確認する。待ち合わせの時間を念頭に置けば、そろそろ伊月が来る時間ではないか。そう考えて、改札口の向こう側に目を配る。

 すると案の定、私服姿の伊月が小走りで改札口に向かってきた。

 ICカードで入場すると、晴人の前に立ち、嬉しそうな顔で彼を見る。

「お待たせしました。今日は先輩とお出かけなんて、何だか楽しみっすよ」

 伊月の調子は普段どおりに戻っているようだ。砕けた口調で、人懐っこい、いつもの葉山伊月だ。晴人には、そっちの方が落ち着くように思われた。

「最初はどこに行く?」

「そうっすね、此処らは結構絵になる景色が見られるところが多いっすから。とても迷っちゃうんすよ。でも、最初は根岸に行って石油コンビナートを見ることに決めましたんで、このまま横浜方面の電車に乗りましょう」

 伊月は口角を大きく引き上げて行き先を提案してくる。

 彼女に付き合うと言った晴人には、特に断る理由もない。今日は一日、彼女の練習に付き合うのだから。

 二人は、京浜東北・根岸線の根岸駅で下車した。駅のホームからは、貨物の専用線が見え、そこにはグリーンカラーに塗装された石油の輸送車両がいくつも連なって待機している光景が見える。その奥にある首都高速湾岸線の高架が走り、支柱と支柱の間からは、巨大な貯蔵タンクが建ち並ぶ光景がはっきりと見て取れる。

 駅を出た二人は丘陵地へと上るために、白瀧不動尊へとつづく石段を登っていく。

 狭く、急角度の石段を登ることから、用心のために伊月を先に登らせた晴人だったが、結果的に彼女の後ろ姿を見上げることになり、少し落ち着かない気分になってしまう。

「うわあ、先輩。すごい迫力っすよ!」

 石段を登り切った伊月が、晴人を手招きする。

 彼女にうながされて、あと数段を残すところで中央の手すりにつかまり、後ろを見る。彼の位置からでは、樹木ですこし見づらくなっているが、コンビナートの精製プラントが塔のようにそびえ立っている姿を確認できる。

 プラントからは、まるで息をするかのようにてっぺんから白い煙を吐き出している。

 晴人は伊月に目を向ける。

 さっそくと言わんばかりに、彼女はカメラを構えて写真撮影に夢中になっている。

 そんな伊月を下から見上げる晴人は、彼女が感動した風景以上に、それを写真に収めている少女の姿に見入っていたのだった。

「写真を撮ってるわたしが言うのもなんですけど、やっぱり、実物は写真で見るよりもすごいっすね。でも、だからこそ燃えてくるっす!」

 素直に自分の心象を言葉にする伊月の表情は、とても晴れやかだった。目の前に広がる世界をありのままに見て、それに心を通わせているような、そんな表情だった。

 それから、二人は横浜市内のいくつかのスポットでロケに勤しんだ。森林公園の競馬場跡を背景にしたあとは、山手駅から石川町駅に移動して中華街へ、そして山手へと向かい、とある有名なミッションスクールの脇を通る西野坂へ。

 そこを登り、港の見える丘公園の展望台へと行き、ベイブリッジを背景に写真を撮ったりもした。

「先輩、これなんかどうっすか? ちょっと良い感じじゃないっすか?」

 休憩もかねて、公園のベンチに腰掛ける二人。伊月は、カメラのモニターで、これまで撮影された画像を晴人に見せる。

 森林公園での一枚、西野坂の木陰での一枚、ベイブリッジを背景にして撮った一枚。そのいずれにも、晴人が写っている。

 彼女自身が良いと感じた写真には、ちょっとした共通点があった。しっかりと、晴人がクローズアップされており、それでいて、伊月の持ち味とも言える、風景を上手に写真の中に落とし込むテクニックも活かされている。今思えば、稲村ヶ崎で撮った写真はいずれも晴人の全身が写り込んで、風景の中に埋没したような印象があった。それが少しずつ修正されているようにも思える。でも、そこには彼女らしさが感じられて、それが写真に独特の雰囲気をもたらしているようにも感じた。

「ああ、俺もそう思ったぞ。でも、ちゃんと葉山らしさっていうのかな、風景を上手く写真に収める部分も見えるな。何かそこがやっぱりすごいと思うぜ。……ただ、自分が写ってると思うと何だかこっぱずかしい気分だ。これ、写真部の掲示スペースには出さないでくれよ」

「ええ! もったいないっすよ。絶対に貼り出してやるっすからね」

「だめだって、これ以上葉山がらみで目立ったら、茶化しどころの話じゃなくなるだろ」

「んなことないっすね。むしろ、先輩のことをかっこいい! っていう女の子達も出てくるかもしれないっすよ。モテ期到来っすよ! ……ああ、でもそれはちょっと嫌っすね」

 軽口を叩く伊月。それをたしなめる晴人。どこか漫才の掛け合いをしているようなやり取りをしている。

 晴人は、葉山伊月という少女の人柄を、少しだけ垣間見た気がした。


       ※


 そして、日がだいぶん傾く時間になった。

 氷川丸に立ち寄った後に山下公園を散策していた晴人と伊月は、港の見える丘公園の展望台に足を運んだ。伊月がもう一度だけ横浜港とベイブリッジを見たいと提案したからだ。

 展望台から眺めるベイブリッジは、まもなく夕陽へと変わろうとする西日によって黄色く光り、海も陽の光を反射して波打つ海面が白い光を放っている。

 伊月は、光が生み出す世界に魅入られるように、やはりその光景を写真で撮影しているのだった。

「そう言えば、覚えてるっすか? わたしと先輩の初コンタクトの場面は」

 伊月は風景写真を撮る手をとめ、晴人に声を掛ける。

「ああ、去年だったろ。急に押しかけてきたものだから本当にびっくりだったよ」

 晴人の返事に、伊月は「あの時は申し訳なかったっす」と照れくさそうに頬を掻く。

「あと、この前に話してくれましたよね? イケメンに頼めばいいだろって。あの時に出してくれてた人たちには、実はもう頼んで被写体になってもらってたんすよ。その時には部の先輩から言われたとおりに撮ってみたんすよ。確かに格好良かったっすね。写真部の先輩にも、いい感じじゃないかって褒められたし。自分でも新鮮な気分でした。でも、やっぱり欲しかった絵は撮れなかったんすよ。だから、思ったんすよ。辻堂先輩にお願いして、被写体になってもらって、もう一度自分流に撮ってみようって。そうすれば、何か分かるかもしれないって」

 伊月はあっけらかんとした様子で、ことの顛末を説明する。

 だが晴人は、どうも伊月の言葉を額面通りに受け取る気にはなれなかった。なぜ、葉山伊月は、自分、辻堂晴人を被写体にしなければいけないと思っているのか。

 なぜ自分が選ばれているのか。いまだに思い当たるところが分からないのだ。

「そもそも、葉山は何で俺を選んだ?」

 だからこそ、晴人は疑問をストレートにぶつける。

「んー。それを話すのはちょっと恥ずかしいんですけど。柔道部に美千留ちゃん、いるっすよね。彼女は友達なんで、誘われて去年の新人戦を見に行ったんすよ」

 彼女から返ってきた言葉に、晴人の顔が強ばる。

「その時に、先輩の試合をたまたま見てて、その試合が印象的だったっす」

 その試合は、晴人にとっては苦い思い出だ。

 あの時の試合では、何度投げても、なぜか判定は出されない。明らかに相手は消極的な姿勢を見せているのに、審判の咎めがない。そんなこんなで試合時間が無駄に過ぎていって、残り時間がわずかになった時だ。

 赤畳、つまり場外際での攻防が展開されていたときだ。組み合っていた晴人には、はっきりと分かる。相手は故意に場外へと押し出してきた。これは柔道の試合規定では違反行為だ。

 当然に試合が止められて、主審は副審を呼んで話し合いを始めた。その結果は、晴人がわざと場外へ出た、ということになり、反則は彼に出されたのだ。

 後は残り時間わずか。結果は晴人の判定負け。初戦敗退だ。畳の上では泣くまいと必死でこらえていたが、畳から出た後は思わず涙が溢れていた。

「その時は、先輩が負けたという結果は頭から飛んでましたね。わたしが記憶に残ってるのは、試合中の先輩の顔、試合が終わったときの、何かをこらえて気丈に振る舞っているときの顔でした。ああいう顔ができる人がいるんだって」

 晴人は思い出した。伊月が被写体になって欲しいという申し出があった時は、まだ新人戦の時の出来事を引きずっていた時期だった。だが、自分がその時に、伊月に対してどんな態度で接したのか、そのことは思い出そうとしてもできなかった。

 ひどい態度をとっていなければよいが、と思わざるを得なかった。

「今だから言っちゃいますね。わたし、今まで風景の写真ばっかり撮ってて、先生や部の先輩からも人物を入れた写真を撮ってみろと言われてたんです。でも、先輩達のように上手に撮れなくて、写真部では居心地も悪かったんですよ。みんな新聞部と協力して大会の写真を撮ってくるのに、私はお留守番みたいな立ち位置でしたから。試合を見に行ったのも、美千留ちゃんに気分転換になるんじゃないの、って言われてしぶしぶだったんですから」

 伊月の口調が変化していることに気づくが、それ以上に、晴人は彼女の言葉に引っ張られて当惑している。

 伊月は、一体何を伝えようとしているのか。晴人は、それで頭がいっぱいだった。

「でも、あそこにいたからこそ、辻堂先輩の試合を見たからこそ、わたしの気持ちが変わったんです。何かに真剣になってる人の、最高の瞬間をカメラに収めてみたい。そう思えるようになったんです。わたしを変えてくれたのは、先輩なんですよ」

 まだ状況を上手く飲み込めていない晴人を見て、伊月はクスリと笑う。

「もうストレートに言っちゃいますね。わたしは辻堂先輩にとっての特別になりたいんです。生意気かもしれないですけど、それが正直な気持ちです。だって、辻堂先輩は、私にとっての特別な人ですから」

 伊月は恥じらうように口元を緩め、ジッと晴人を見てくる。

 気がつけば、空は赤くなり、辺りには夕闇が迫っている。伊月の背後に見えるベイブリッジも夕陽に照らされて、独特のあかね色に変わっている。

 それなのに、晴人には伊月の顔がはっきりと見えた。そこに見えたのは、人懐っこい少女の顔をした葉山伊月ではない。女の顔をした葉山伊月、つまり辻堂晴人という男を求めている葉山伊月の顔だった。

 彼女のたたずまいも、彼女の周りに広がる世界の姿も、それが晴人にとっては、これ以上にはない最高の出来映えの写真に見えたのだった。

「……遅くなっちゃったので、帰りましょうか?」

 伊月は、いつもの人懐っこい少女の顔に戻り、晴人に声を掛ける。彼女にたいして、晴人は頷くことしか出来なかった。


       ※


 五月に行われる最後の大会が近づいてきたある日。

 更衣室で着替えを済ませて武道場に入った晴人は、そこに伊月の姿があることに驚きを隠せなかった。だが、柔道場には他の部員達も、さらには顧問の教師がいる。その誰一人としてそれを気にする様子がない。

 部員が全員そろったところで、練習前に顧問から話があるので、それをまず済ませるということになった。

 その話とは伊月のことであり、顧問の教師が言うには五月の大会には彼女が新聞部への協力取材のために駆けつけるということだった。

「試合当日にお邪魔することになりますが、皆さんの勇姿をしっかりと写真に収められるように頑張りますので、よろしくお願いします!」

 伊月は元気の良く声を張って意気込みを語ると、頭を下げてから武道場を後にした。

 その姿を、晴人は無意識のうちに目で追っていたのだった。


 練習を終えて制服に着替え終わった晴人は、校門にさしかかったところで足を止める。

「待ってたっすよ、先輩。一緒に帰りませんか?」

 校門にもたれかかるようにして、伊月が立っていた。彼女の笑顔を見た晴人は、不覚にも口元を緩ませて微笑みを返してしまうのだった。

 ごく自然なかたちで二人並んで歩き、藤沢駅を目指す。

「それにしても、取材をさせてもらえるようになったんだな。ずいぶんな進歩じゃないか」

「えへへ、そんな大層なことじゃないっすよ。どっちかというと部長に頼み込んで無理矢理にオーケーをもらったような感じだったっすから。でも、それはチャンスをもらえたってことっすから、絶対に無駄にできないっすよね」

 伊月は照れくさそうに頭を掻いて、事の顛末を話す。

 晴人は、伊月を取り巻く環境が少しだけ変化したことを知り、まるで自分のことのように嬉しく思うのだった。そして、なぜそのように思うのかも、何となく思い当たる。

 ――わたしは辻堂先輩にとっての特別になりたいんです。

 夕暮れ時の、港の見える丘公園の展望台で聞いた彼女の気持ち。それが葉山伊月の告白であることは、はっきりと自覚できる。だが、彼女の告白に対して、晴人は返答をすることができなかった。

 今でも迷っている。答えをここで言うべきか、それとも……。

「この前のこと、焦って答えを言おうとしなくてもいいっすよ、先輩」

 伊月は晴人の顔を覗き込んで語りかける。まるで晴人が何を考えているかがお見通しだとでも言いたげに。

「何せ、もっと目の前に大事な勝負があるじゃないっすか。三年間、先輩がひたむきに取り組んできたことの締めくくりなんすから、それに専念して下さい」

 一丁前な態度の伊月に、晴人は肩の力が抜けるような気分がした。

 すると、伊月にどうにもちょっかいをかけたくなってしまう。

 晴人は、頭一つ背が低い伊月に目をやると、強めに頭をなで回す。

「うわ! な、何するんすか? 頭をグシャグシャにかき回して、小学生扱いっすか?」

「あまりに可愛いこと言ってくれたからだよ。俺もそのつもりだ。葉山が俺の試合を撮ってくれるまでは、いや、お前の前では負けられないって」

 伊月の頭から手を離し、彼女の顔をうかがう。伊月は少しむくれたような顔で見上げていたが、それはすぐに笑顔へと変わった。それにつられて、晴人も穏やかな笑顔になる。

 気がついたら、二人は声まで出して笑っていた。

 もう少し一緒にいたい。おそらくは二人ともそう思っていただろう。だが、別れる時間がやってくる。電車が大船駅へと到着し、彼女はここで乗り換えになるからだ。

「それじゃ、先輩。ここで失礼します。試合会場で会いましょう。先輩は、先輩の勝負に全力を出し尽くして下さいね」

 伊月はもう一度だけ晴人に微笑んでから、駅のホームへと降り立つ。

 晴人は、駅のホームを歩く伊月の姿を、ずっと目で追っていた。


 そして、試合当日を迎えた。

 ――試合会場で会いましょう。先輩は、先輩の勝負に全力を尽くして下さいね。

 試合会場へと向かう電車の中で、晴人の頭の中には別れ際に伊月が言った言葉が何度も浮かぶのだった。

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