葉山伊月
「ねえねえ、辻堂先輩。本当に少しだけでいいんですよぉ。わたしのフォトの被写体になって下さいよ。稽古の邪魔はしないっすから♪」
「だから、遠慮しろって言ってるだろ? 他の奴に頼めって」
辻堂晴人はうんざりした調子で、後ろから追いかけてくる少女に文句を言う。
「えー、私は辻堂先輩じゃなきゃ嫌なんっすよぉ。だからこうやって、めげないで先輩にお願いをしてるじゃないですかぁ」
だが、晴人の後輩にあたる二年生の女子生徒、葉山伊月は人懐っこい口調で彼にしつこく食い下がってくる。
三年生の教室がある一階の廊下にもかかわらず、まるで自分の学年のフロアであるかのように堂々と歩く少女に、自然と周囲の視線は集まってくる。同時に、それは伊月の標的になっている晴人も巻き込まれることを意味する。
周囲から放たれる好奇の目に、晴人は居心地の悪さを感じる。
実際に部活の時間でも、今のような休み時間の時でもしつこくつきまとわれるわけだから、落ち着く暇が無い。そのせいでか、同じクラスの柔道部員や、ノリの軽い女子からは色々と冷やかされてしまっている。
彼女、葉山伊月とこのような関係になったのは、晴人が二年生の秋頃からである。
伊月から、自分の作品の被写体を探しているので是非それを引き受けて欲しい、とせがまれたのが始まりだった。もちろん、その時は断ったのだが、以降も教室で待ち伏せをしていたり、武道場の外から覗き見をしたりと、しつこくついて回ってきたのだ。
晴人は足を止める。その時に、後ろを付いてくる伊月も立ち止まる気配がする。
「なあ、葉山。どうしても俺じゃないとダメなのか?」
彼は振り返り、下級生の少女に対してその気持ちを問うた。
晴人の問いに、伊月は「もちろんっすよ」と答える。その時の彼女の表情たるや憎たらしいほどの爽やかさであった。
その顔を見て、晴人はどこかあきらめにも似た心境になる。その心境のままに、伊月のことをジッと見るのだった。
「え、もしかして先輩、ついに引き受けてくれるんすか? 私の作品の被写体になってくれるんすか?」
分かりやすいぐらいに喜色満面になる伊月。その様子を見ると、晴人はやっぱりダメだ、とは言えないのだった。
「まあ、今日は部活がもともと休みの日だからな。分かったよ、そこまで熱心に頼み込むんなら、俺も葉山に付きあってみる」
設備の乏しい公立学校では、それぞれの部活が練習場所を融通し合って、何とか練習時間を確保している。この日は武道場で新体操部が練習する日になっている。もちろん、伊月はそのことも織り込み済みで晴人に交渉を持ちかけたのだろう。熱心さもさることながら、その抜け目のなさに、晴人も降参するしかないのだ。
「で、撮影っていっても一体何をやればいいんだ? 正直言って、勝手が分からないんだ。色々と教えて欲しいよ」
「そこんとこは任せて下さいよ。まずは顧問の先生に外出許可もらってくるんで、放課後は校門で待っててくれませんか? すぐに駆けつけます」
伊月はハキハキとした調子で言い終えると、足早に立ち去っていった。晴人はその後ろ姿を目で追いながらも、彼女の言葉遣いが急に変わったことを不思議に思うのだった。
※
「で、連れてきたのはここか?」
放課後。
伊月に誘われてついていった場所は、鎌倉の景勝地として名高い稲村ヶ崎だった。地理的には七里ヶ浜の東端に位置し、相模湾に突き出た岬の東側は鎌倉の市街地になる。
また、この岬は潮の分かれ目でもある。
由比ヶ浜は向岸流が発生しやすく、砂が堆積しやすいのに対し、七里ヶ浜は離岸流が発生しやすい。そのうえ水深が比較的深いために荒い波が押し寄せる危険なエリアでもある。現在は遊泳禁止の砂浜になっているのはそのためでもある。だが一方ではこの荒波を求め、サーファー達が集う人気の波乗りスポットでもある。ここではシーズンを問わず、サーファーがボードに乗って波乗りを楽しんでいる。
西に目を向けると砂鉄を多く含み黒光りする砂浜が延びており、遠くには小動岬と江の島が望める。また、今の季節では見ることが出来ないが、冬の澄んだ空気のもとでは、富士山も眺められる絶好の場所だ。
また、公園とその向こう側にひろがる稲村ヶ崎そのものに目を向ければ、黄土色が強いシルト(泥が海底に堆積し塊になった泥岩の一種)を主とする波食台の岩場と、クリーム色をした凝灰質砂岩(細かい砂と火山灰が混合した堆積性の層。鎌倉、藤沢一帯に広く分布)がいくつもの地層をなしている岩壁が広がり、この相模湾岸一帯が隆起性の地形であることを物語っている。そこに、押し寄せた波がぶつかっては砕ける音が辺りに鳴り渡る。
その音はまもなく、空中に飛散した波しぶきが地面に降り注ぐ音へと変化する。密度が小さく、脆くて軽い地質の岩は、しぶきを浴びることによってバラバラという音をうみだす。
砕ける音、降り注ぐ波しぶきの音。これらが不規則に発生することで、辺り一帯に不思議な静けさをもたらしている。
それらの光景を、伊月は夢中になってカメラに収めていく。その熱中ぶりは、観光客がついつい注目してしまうほどであった。
晴人も、カメラを構えて湘南の景色を写真に収めていく彼女の横顔を見て、そこから目を離せないでいる。彼女の姿勢に、そして、その横顔に目を奪われていたのだ。
伊月は、姿勢を真っ直ぐにすると、脇を締め、左手でレンズを下から支えてブレを防ぎ、片目をつぶって、ただひたすらレンズ越しに見える世界に意識を集中させる。
そして、狙ったタイミングでシャッターを切る。
その姿を見つめる晴人の表情には、どこか憧憬のようなものがにじみ出ていた。
「良いところっすね。わたし海が好きなんすよ。先輩はどうっすか、海は好きっすか?」
屈託のない笑顔で、伊月は晴人のいる方向に振り向く。
晴人は、伊月の顔の特徴とも言えるだんごっ鼻についつい目が向いてしまう。
彼が伊月の顔を見る時には、まずそこに目がいくのだ。そして、そこからはやんちゃな少年のように大きく開く口元へ、それからは、どこかあどけなさを感じさせる大きくて丸い目へと向かう。
顔も、すこし地黒な肌がそのままになっていて、多くの同級生女子がしているような、薄いメイクもしているかどうかもあやしい。お洒落には無頓着で、どちらかというと田舎娘のような見た目。
なのに、不思議と惹き付けられてしまう雰囲気がある。
「何っすか先輩? ボーッとして。わたしの顔に何か付いてるっすか?」
彼女に見とれている晴人を不審に思ったのか、伊月はその顔を覗き込むようにして見る。
それに驚いた晴人は、思わず「いや、特に変なものは付いてないぞ! 大丈夫だ」と反射的に答えてしまう。
「変なの……。それよりも、先輩はどうなんすか? 海は好きっすか?」
「俺か? 俺は、まあ好きではあるんだけど……。どうしたんだよ、急に?」
伊月の素朴な問いにも、晴人は戸惑いを隠せない様子だ。
「ならよかったっす。無理に付き合わせちゃったから、海が嫌いだったらどうしようかな、と思って」
伊月は安堵したのか、目を細め、眉尻を下げて口元を緩ませる。晴人は、やはり彼女の顔から目を離せないでいるのだった。
「ところで先輩。ウォーミングアップも終わったので、そろそろ先輩を入れて写真を撮りたいんですけど、いいですか?」
また、休み時間と同じことを経験する。伊月の言葉遣いが急に変わる。
「なあ葉山。いつもと言葉遣いが変わってないか?」
晴人は率直な感想を伊月にぶつける。
「ああ、これですか? わたし、真面目にやらなきゃいけないときや、袖を捲らないといけない場面ではこういう口調にするって決めてるんですよ。だって、話し方って大事じゃないですか。それ一つだけでも、気持ちって大分変わると思いますよ」
伊月は臆面もなく言うのだが、晴人にとってはどうにもやりづらい。
「……そうか」
晴人は一瞬だけ視線を外した後、若干の躊躇もあったが伊月の頭の上に手を乗せる。
急に頭の上に手を乗せられた伊月は、驚いたような表情をした後、頬を赤く染める。
「その熱意は分かったよ。でも、今はいつもの葉山のキャラで良いと思うぞ。そんな言葉遣いじゃあ、やりづらいからな」
そう言って、伊月の頭の上から手を離した。伊月は「……は、はい。じゃあそうします」と俯き加減で返事をする。
伊月が普段の調子に戻るためにリラックスしたいということもあって、晴人はそれを待っている間、柵に手を乗せて周囲の景色を見渡していた。
七里ヶ浜では、サーファー達がボードに体を乗せて、両腕を使い押し寄せてくる波に向かって漕ぎ出していく。最初の波を乗り越えた後、方向転換して次の大きめの波を待ち、波の頂点でボードの上に立って滑り出していく。だが、そのうちの何人かのサーファーは白波に掬われて体勢を崩し、海にその身を預けるかたちになるのだった。
とくにサーフィンに興味を持たず、しようとも思わない晴人だったが、こうして何もすることがない時間に彼らの姿を眺めているうちに、その光景に見惚れてしまうのだった。
と、そこに気を取り直した伊月がやってくる。
「お待たせしてすみませんでした。今から撮影を始めたいんすけど、良いっすか? ……その、こういうノリでいいんっすよね?」
少し戸惑いの色を見せながら、伊月は晴人の顔をうかがう。
「ああ、それで頼むよ。そっちなら俺も気楽だ」
それを言われた伊月は、はにかみながら「はい」と小さく返事をした。
こうして始まった撮影だが、素人の晴人は基本は伊月の言うがままに動かざるを得ない。
彼女に促されて、指示された場所に立つ。
「じゃあ始めますよ。先輩、まずは目線こっちに向けてくれないっすか?」
晴人は、伊月に言われるがままに目線を向けていく。
だが、伊月はカメラを向けてはいるものの、一向にシャッターを切る様子がない。
「おい、撮るんじゃないのかよ?」
「いやあ、フェイントっすよ。すみませんね、先輩」
伊月のおどけた調子の言葉に、呆れて顔を緩ませる。
が、その瞬間にカメラのシャッター音が鳴るのだった。
「っていうのが実はフェイントだったんすよ。……あれ、先輩ちょっと怒ってます?」
険しい顔をした晴人を見て、伊月は少し様子をうかがうようにして尋ねる。
「いやいや、不意打ちしたのは悪いと思いますよ。でも、待ってて下さい。きっとかっこよく撮れてるはずですから、ちょっと待ってて下さい」
伊月はデジカメのモニターで、先ほどの撮影した画像を晴人に見せる。
「何か、自然な感じで力が抜けて良い雰囲気じゃないすか?」
伊月の視点から色々と解説を加えてもらったが、やはり素人の晴人にはその出来映えは判断しかねるところがある。
「それじゃ、次は江の島をバックに入れて撮影したいっす」
そう言うと、伊月は反対側に回り込み、視線を向けてくる晴人の姿を何度も撮影する。
時々、伊月はカメラを下ろして被写体を見たりする。その時の顔は、どこか活き活きとしており、それが彼女の大きく引き上がった口元に現れている。
「なんかいいかも……。じゃあ次は海をジーっと見てる先輩が取りたいっす! ほら、相模湾って、綺麗な海だと思いませんか? 何というか、深い青って感じで」
晴人は、伊月の指さす方向へと目を向けて、海の色を眺めている。正直、そういう感覚で海を眺めることはなかったので、ついつい色を意識して覗き込んでしまう。
その隙に、シャッターを切る音が聞こえる。
「なあ、一つ聞いて良いか? 葉山は何で俺を被写体に選んだ? 人物の写真を撮るんだったら、もっと顔がいい奴はいくらでもいるだろ? サッカー部とか、バスケ部とかにも女子から人気の奴がいるじゃないか」
晴人は撮影を続ける伊月に、素朴な疑問を投げかける。
「うーん、さっき先輩が言ってくれてた人は確かにイケメンっすよね。でも、先輩はイケメンじゃないですけど、その人達よりも光ってるっすよ! わたしが断言します!」
伊月は自信に満ちた声で断言する。
「理由はそうですねえ。何というか、先輩はフォトジェニックなんすよ。日本語で言うと絵になる男って言うんすかね。大体そんな感じっす」
伊月は横文字の用語を使って説明をする。
晴人には聞き慣れない言葉だ。そのうえ、絵になるというざっくばらんな表現のせいで、かえって困惑の色を顔に浮かべてしまう。
それから、彼女は再び写真撮影に精を出す。彼女の撮影がしばしの間続いた後だった。
「ねえ先輩、今度は下の岩場に降りてみないっすか?」
伊月は、海岸線に広がる岩場を指さす。
「いや、危ないだろ?」
「大丈夫じゃないですか? ほら、ちょうど海も凪の状態になったみたいですし。今のうちに行っちゃいましょう! 稲村ヶ崎の岬を背景に先輩を撮りたいんすよ」
伊月が指さして強調するように、たしかに風が止んだ状態になり、先ほどとは打って変わって波が砕ける音がパッタリとしなくなっている。そのせいか、辺りは寄せて返す穏やかな波が砂をかき回す音だけが聞こえてくる静けさに包まれている。
「仕方ないな、でもちょっとだけだぞ」
「はい! ありがとうございます」
一抹の不安を拭いきれぬ表情で、晴人は彼女の提案を受け、バッグを手にとって下の岩場へと向かう。
岩場は海が凪ぐまでの間に乗り上げていた波によって湿っている。摩耗した泥岩と海水とがつくる独特の滑らかな感触が、二人の運動靴の底を通して伝ってくる。辺りにも潮の香りが漂い、その場に立つ二人の鼻孔を満たしていく。
「じゃあ先輩、岬を背景に撮りたいんで、もうちょっと奥までお願いできるっすか?」
晴人は岩場を歩き、伊月から距離をとる。
晴人の背後には、鎌倉幕府の滅亡を決定づけた中世の大合戦の舞台が広がる。
崖の上部には森が多い茂り、数本ほど背の高い木が突き出している。そこから下は、脆くて崩れやすい砂岩の露頭(岩などがむき出しになった場所)が相模湾に向かって急角度で落ち込み、付け根のところでは、靴のつま先を横から見たような形の、突き出した岩場が広がる。その非常に珍しい地形は、見る者に不思議な情感を抱かせる。
この名勝を背景にして、伊月は晴人に思いつくかぎりのポーズをリクエストして、それらを写真に収めていく。その熱中ぶりたるや相当なものであり、周りの様子が見えなくなるぐらいであった。
ふと、カメラを向けられている晴人は風の動きを感じ取った。さっきまで無風に近い状態だったのに、肌で感じられるほど空気が動くのを感じたのだ。
不安になり伊月を見る。だが、彼女は撮影に夢中なのか、空気の流れが変わったのに気づいていない様子だ。
「おい、葉山。何かいやな予感がする。早く上にあがろうぜ」
晴人にカメラを向けていた伊月は、カメラを下げる。まだ状況が飲み込めていない様子で、ボーッと彼を見ているだけだった。
かまわずに晴人は駆け寄り、伊月の腕を掴んで岩場から上に上がろうとする。
その時だった。
大きな波が押し寄せてきて岩場にぶつかり、白波を立てながら乗り上げて、辺り一面に広がっていく。それは上へと避難しようとしている晴人と伊月の立っているところにまで及び、伊月の足下を掬った。
伊月が体勢を崩して倒れそうになっている。
晴人は伊月の腕を掴んだ右手に伝わってくる、微妙な力の変化からそれを察知する。そこで自分から先に倒れ、伊月が頭を打たないように左腕で彼女の頭を抱え込む。
結果、二人は一緒に転倒し、海水に濡れた地面に体を横たえることになった。
彼は柔道で受け身の練習をしていてよかったと、この時ばかりは思うのだった。
「痛てて、葉山、大丈夫か?」
「はい、何とか。それにカメラも無傷ですし。……ただ、服が濡れて冷たいっす」
二人とも地面に付いた部分は海水ですっかり濡れてしまっている。晴人もスラックスがグッショリと濡れて、どこか不快感を覚えるほどだ。
晴人は立ち上がり、伊月を助け起こす。海水を吸ったスカートは、重たそうに下に垂れ、彼女の腰や太ももに張り付いている。
「今日はもう帰るか?」
「はい、それが良さそうっす。でも、そうなんすけどちょっと困ったことが……」
伊月はモジモジして、上目遣いで恥じらいを見せて言う。
「あの、言いにくいんですけど、……その、パンツが濡れちゃって気持ち悪いっす。こんなんじゃ電車に乗りづらいっすよ」
彼女の言葉に、晴人は顔を赤くして狼狽える。
「と、とりあえず、これである程度は拭いてくれ」
晴人は、丘の上に置いてある自分のバッグからスポーツ用の大きいタオルを取り出し、彼女に差し出す。
伊月はそれを遠慮がちに受け取り、濡れたスカートに押し当てたり、スカートの下に入れて脚を拭いたりする。
自分の普段使用しているタオルで、後輩の女子が体を拭いている。その姿を、晴人は妙に落ち着かない様子で見守っていた。
「困ったな……。そういえば、葉山はどの駅で降りるんだっけか?」
「港南台っす」
「俺は戸塚だから大船から別路線か……。というか、その前に江ノ電で藤沢まで戻らないといけないしなあ」
晴人は困り果てて、しばし考える。
「……しかたない。コンビニに行くぞ」
晴人は伊月の手を取って稲村ヶ崎を後にし、そして近くのコンビニに入っていく。
そこで恥ずかしそうに女性用の下着を手に取ると、代金と一緒に伊月へ手渡した。
レジで精算する際に、晴人は横から女性店員に「あの、トイレを貸してくれないですか?」と申し出る。当然に、慣れないことなのでぎこちない頼み方だ。
その後、店の外で待っている晴人のところへ、下着を替え終わった伊月が出てくる。
「あの、ありがとうございました。タオルはちゃんと洗って返しますので。……あと、パンツのお金も後でちゃんと払いますから心配しないで下さい」
顔を赤くして、目を逸らしながら真面目口調で話す伊月。さすがにその心情を察したのか、晴人は多くを語らないでおいた。
「じゃあ、帰るか?」
伊月は口をつぐんで頷く。
そこから、二人は稲村ヶ崎駅に向かう間も、江ノ電に乗って藤沢駅に行く間も、そしてJRに乗り換え東海道本線に乗っている間も、気まずそうな空気に包まれていたのだった。
車内で晴人はつり革を掴んで立つ。彼の目の前では、伊月が座席に腰掛けている。
東海道本線に乗り換えて藤沢駅を出て数分で、電車は大船駅に到着する。
「あの、わたしはここで乗り換えなので降りますね」
伊月は遠慮がちな小さい声でそう告げると座席から立ち上がり、開いた扉からホームに出ようとする。
「なあ葉山」
晴人はその後ろ姿に声を掛けて呼び止める。
その声に応えて、伊月は晴人に振り返る。
「また明日な。また学校で会おうぜ」
特に大した内容の言葉ではない。だが、伊月はすこしはにかんだ様子で笑顔を返し、彼に会釈をする。
ドアを閉めるための警告音がホームから聞こえてくる。それを聞いた伊月は、軽くジャンプをするようにして大船駅のホームに降り立った。
やがて電車は動きだし、戸塚駅を目指して出発する。ゆっくりと動く電車の中、晴人は窓越しに伊月の姿を目で追っていたのだった。




