プロローグ
五月半ば。日曜日の神奈川県立武道館。
その日、横浜市の郊外に立地しているこの施設では、高校柔道の総体予選が行われる。この日に開催されるのは体重別、いわゆる個人戦である。
赤畳で仕切られた試合場が横に四つ並ぶという、横長の構造を特徴とする武道場に、県内の選手達が所狭しと並んでいる。その中に高校三年生の男子、辻堂晴人の姿もあった。
公立高校の生徒である彼は、私立の強豪高校のように坊主頭にしているわけではないが、やはり柔道をするのに支障がないように短めに髪を整えている。
晴人は同じ学校のメンバーとともに整列し、開会を待つ一方で、誰かを探しているかのように、会場の隅々に目を向けている。
そして、晴人の視線が止まる。彼の目が向いた先には、一人の少女がいた。彼女は、多くの男子選手がずらりと並ぶ試合会場を眺めていた。だが、この少女に視線を送る晴人と目が合わないところを見ると、まだ彼に気がついていないようだ。
晴人は少女の姿が会場に見えたことに安堵して、フッと軽く息を吐く。
開会式は無事に終わり、各学校毎に待機場所へと向かい、自分の試合に備える。
晴人は、そこで先ほどの少女に声を掛ける。
「おはよう葉山。本当に来てくれたんだな」
「はい、約束っすから。それに、ようやく辻堂先輩がオーケーしてくれたし、柔道部の顧問の先生からも取材許可が出たんすよ。これで行かないなんて考えられないっす」
彼に声を掛けられた少女、葉山伊月は人懐っこい笑顔でそれに答える。
公立校らしい、少々野暮ったいデザインのブレザーを着た少女は、やはりどこか垢抜けない雰囲気を醸し出している。都会のおしゃれな女子高生のような化粧っ気がまったく感じられない容姿といい、適当に二つに束ねたお下げ髪といい、いかにも地方に暮らす素朴な少女といった感じだ。
だが、それがかえって彼女の元々持っている愛らしさと、健康的な美しさをあらわしているようにも思える。
伊月の首には太めのストラップが掛けられて、両手でカメラをしっかりと持っている。
写真部に所属する彼女は、自分が参加する写真コンテストに向けた作品づくりのために武道館に足を運んだのだ。またその活動の性質上、新聞部とは協力関係にある。そのため、柔道部の大会成績を報道する際の写真取材も兼ねている。
言ってみれば、彼女も正式な部活動として参加しているのだ。
「今日は、柔道部の皆さんの勇姿をバッチリこのカメラに収めさせてもらいます。もちろん、柔道部のみんなや他の学校の人の邪魔にならないように十分に気をつけますので、よろしくお願いします」
伊月は、先ほど晴人に対して用いた砕けた口調を封印している。それは、彼女がいわゆる真剣モードに入ったことを意味している。
彼女の目に熱がこもっているのを確かめた晴人は、試合の開始時間まで一旦解散となったところを見計らい、声を掛けた。
「葉山、何か困ったことがあったり、助けがほしいことがあったら遠慮なく先生や部の後輩達に言ってくれよな」
「ありがとうございます。先輩こそ、ちゃんと勝ち上がってくださいよ。柔道部の人達の闘いぶりもしっかりと写真に収めていきますけど、やっぱり辻堂先輩の試合を、私も撮りたいですから」
伊月は口調といい、顔つきといい、思わず感心してしまいそうなほど引き締まっている。それに影響されたか、晴人も心なしか気持ちが大きくなった気もする。
「ああ、俺も試合が待ってるからな。葉山も、自分の仕事頑張れよ」
晴人の言葉に、伊月は「はい、先輩も待ってて下さいね」と笑顔を見せると一番早く試合が始まる会場へと急ぎ足で向かっていった。
伊月の後ろ姿が段々と遠くなっていくのを見届けながら、晴人は妙な感慨を抱いていた。
葉山伊月という少女は、辻堂晴人にとっては間違いなく特別な存在である。それは、逆に葉山伊月にとっての辻堂晴人という少年の存在についても言えることである。
葉山伊月がいなければ、今の辻堂晴人はあり得なかったろう。また、同様に辻堂晴人がいなければ、今の葉山伊月はあり得なかったはずだ。
そのことを、彼はおぼろげながらも自覚している。それゆえに、伊月のためにも自分の試合を何としてでも勝ち進めていくことが大切だ。
そうやって自分の心に言い聞かせると、晴人は自分の試合場へと足を進めていった。そして、そんな彼の脳裏にはついこの間までの出来事がよみがえってくるのだった。