女王さまの思いわずらい
「――どうなさいますか?」
背後に控えていた侍女の囁きに、アイリーンは小さく溜め息を落とした。
視線の先には重たげに枝垂れるミモザと、小さなガゼボ。咲き誇る黄色に半ば埋もれた丸屋根の下には、寄り添う男女の姿がある。
そのどちらにも見覚えがある。
女性は名をノーラ・アンダーソンと言う。地方貴族の一人娘だ。
麦穂色の豊かな髪に青い瞳、作り物のように整った顔立ちをした彼女は、昨年のデビューで社交界の話題をさらっていったらしい。
果たしてアンダーソン家の街屋敷には縁談が山のように持ち込まれ、にも拘わらず未だ婚約者がいないのは、相手を吟味しているからとも、さらなる大物を狙っているからとも聞く。
それが事実であるかはともかく、ノーラ嬢は望外の相手を釣り上げたようだ。
彼女が親しげに寄り添い、熱の篭もった眼差しを向けている男性は、名をリチャード・エビングという。年齢はアイリーンの六つ上の二十三歳。現王室の傍系エビング家の嫡男、儀礼称号のオーランド伯爵を名乗る彼もまた、社交界において知らぬ者はいない有名人である。
見上げるほどの上背に、鍛えられ均整の取れた体躯。ノーラ嬢の腰を抱く腕は逞しく、豪奢なジュストコールがなければひとかどの騎士のように見える。端正な顔立ちは硬質な印象を与えるが、少し垂れた目元と、目尻にあるほくろが絶妙な隙と色気を作り出している。
癖のある金褐色の髪が目を引く、文句無しの色男だ。
美しい庭園に、美しい恋人たち。幸せそうに語らうふたりと、枝垂れる花が風に揺れる様が、まるで描かれたの絵画のように調和している。
もしこれがアイリーンと何一つ関わりないことであれば、良いものを見させて貰ったと心底感じ入ったことだろう。
だが美男美女のうち色男、リチャード・エビングはアイリーンの婚約者だ。しかもアイリーンが彼らと鉢合わせたのは偶然ではない。アイリーンがここに居るのは、他ならぬリチャードに呼び出されたからだ。
話があるからと出かけた先がこの有様なのだから、悪意があってのことなのは疑うべくもない。それを証左に、アイリーンに気づいたらしいリチャードの口元が意味有りげに歪んだ。どうやら彼は、これを見せつけたかったらしい。
当人たちの意思とは無関係に結ばれた婚約を、彼が不満に思っていることは承知している。だが何もこんな真似をしなくても、というのが正直なところだ。
アイリーンはかち合った視線をげんなり断ち切ると、足音が立つのも構わずに踵を返した。
来た道を戻りながら、黙って後を付いてくる侍女をちらりと見遣る。
「……お父さまにお会いしたいのだけれど、今日はお戻りになるかしら」
「奥方さまがお出でですから、おそらくは。よほどのご事情でも起こらない限り、晩餐はご一緒なさると思います」
「そう。では夕食前に少し、お父さまとお話しする時間を作って欲しいの。調整をお願いできる?」
「はい、承知いたしました。……お嬢さまがお心をお決めになりましたこと、旦那さまはお喜びになるでしょう」
アイリーンに対するリチャードの振る舞いは、婚約者として最低最悪と言って良いだろう。公爵家の嫡男と伯爵家の令嬢、身分の差はあれど侮辱されているも同然で、侍女としてそれを傍で見ることしか出来なかった彼女は、さぞもどかしい思いをしたに違いない。
主としての不甲斐なさを、これからのことで少しは払拭出来るだろうか。
アイリーンは胸の裡で密やかな覚悟を決めながら、待たせておいた馬車に乗り込んだ。
リチャードに呼び出されたのは、サンノーファ宮殿の外れにある庭園だ。そこから四半刻の距離に、アイリーンの生家であるベケット邸はある。
ベケット邸は青屋根が美しい瀟洒な屋敷で、四代前の当主が立てた功績によって賜った建物だ。伯爵領のレイストンにある荘園邸よりも古く、過去には降嫁した姫君の住まいだったこともあるという。
普段は王宮官吏として要職を得ている父と、その娘であるアイリーンとが暮らしていて、領地を愛する母が滞在するのは社交シーズンのみだ。
今はシーズンが始まったばかり。それに合わせて領地を出た母が、王都の屋敷に着いたのは昨日のことだった。
おかげでここ暫くの父はたいそう機嫌が良い。あの調子でアイリーンの失態も大目に見てくれれば良いのだが。
半ば現実逃避にそう思いながら、アイリーンは馬車の中で小さく溜め息を落とした。
自室に戻りデイドレスを脱ぎ捨てて、下着の上にガウンだけを羽織る。
貴族の子女としてはマナー違反も甚だしい姿だが、どうせすぐに晩餐用のドレスに着替えることになる。来客の予定がある訳でもなし、それなら父との対面の前に少しでも英気を養っておきたかった。
侍女の咎める眼差しを無視して雑事を片付けていると、すぐに晩餐の時間が迫ってくる。
アイリーンは晩餐用のドレスに着替え、髪を整えてから父ジョセフの書斎へと向かった。
普段は滅多に足を踏み入れることのない書斎は、侍従と執事によって整然と整えられている。葉巻の匂いが染み付いた室内で軽く息を吐いてから、アイリーンは父に視線を当てた。
「お忙しいところを申し訳ありません」
「気にしなくていいよ、アイリーン。アイシャがこちらにいる間は、家に仕事を持ち帰ることはないからね。むしろ時間を持て余していたから、話しに来てくれてありがたいくらいだ。――それよりも今日はリチャード卿と会ってきたんだろう? その顔を見るに、ようやく動く気になったということかな」
「はい。ついては数日、離れを使用したいと思っております。許可をいただけますか?」
もちろん、と言って父は穏やかに微笑う。
「きみの好きにすると良い。それで、あちらに連絡は済ませたかい?」
「ええ、さきほど手紙をお送りしました。随分と待ちわびていらっしゃいましたから、そう間を置かずに返信いただけるかと」
「さすがは手際がいいね。――ああ、尻尾を振って喜ぶ彼らの姿が、目に浮かぶようだ。長く焦らされたことは気の毒だけど、そもそもが身内の蒔いた種だからね。少しは良い薬になっただろうし、だからきみが気に病む必要はないよ。それよりも他に入り用なものはないかい? 何でもと言う訳にはいかないけれど、多少の無理なら利かせてあげよう」
「……それでしたら、どうかお母さまのご機嫌を取って下さいませ。一緒に出掛けるのを楽しみにしていらしたのに、わたしの都合で駄目になってしまいましたから」
日頃は所領の管理に熱を入れている母アイシャだが、離れて暮らす家族へ注ぐ愛情はとびきり強い。三兄妹で唯一の娘であるアイリーンは特に猫可愛がりされていて、シーズンで王都に来た際はカフェに買い物にと連れ回されるのが常だった。
今年も例年通りに予定が詰め込まれていて、本当なら明日も買い物に行くはずだったのだ。だがアイリーンはこれからの準備で、しばらくは手が離せなくなる。
出掛ける予定がふいになったことを知れば、母はさぞかし気落ちするだろう。
母の悲しむ顔を見たくないのは父も同様らしく、アイリーンの頼みに一も二もなく頷いてみせた。
「それなら明日は休みを取るよ。今のところは急ぐ案件もないし、何より私も夫婦水入らずで過ごしたいからね」
「あまり無茶はなさいませんよう。後で痛い目を見ることになるのは、部下の方たちだけではありませんよ」
「そうならないように鍛えてるつもりなんだけどねぇ。まったく、どうにも頼りなくていけない。私だってずっとこちらにいる訳じゃなし、そろそろ鍛え直すに良い頃合いなのかもしれないね」
「どうぞ、お手柔らかに。……わたしは先に食堂に参りますが、お父さまはどうなさいますか?」
「所用を片付けたらアイシャと向かうよ。いくつか彼女と話しておきたいこともあるしね」
「ではお母さまに今回の件、それとなくお伝えしておいてください。いきなり知らされては、きっと夕食どころではなくなるでしょうから」
任せておきなさい、と微笑う父にひとまずの暇を告げて、アイリーンは書斎を後にした。
ベケット邸の広い庭園には、装飾建築だけでなく居住可能な建物がいくつか設えられている。
アイリーンが使用の許可を求めたのはそのうちのひとつ、かつての主である姫君の名を冠する小邸宅だった。
小邸宅は煉瓦造りの二階建てで、貴婦人が纏うレースのように緑の蔓草が壁に這わされている。部屋数は少なく一階は食堂と居間と水回り、二階に主寝室と客室がふたつのみだ。
台所は備え付けられておらず、使用人用の居室も無い。元は荘園での暮らしを疑似体験するための建物で、今は個人的な茶会や晩餐会にのみ使用されていた。
アイリーンの婚約者であるリチャードも茶会には何度か招かれていて、それで彼はさして疑問も抱かずに小邸宅に足を踏み入れた。
今回の呼び出しは、リチャードの父であるマクファランド公爵を通して行われたものだ。父公爵の命では招待を拒むことが出来ず、だからだろう。彼は居間に入るなり不機嫌も露わに口を開いた。
「この間の意趣返しのつもりか? きみがそうしたい気持ちは解らなくはないが、マクファランド公爵を巻き込むのは止めてくれ。ああ見えて父も暇ではないんだ」
「それは重々承知しておりますが、そもそもそうせざるを得ない状況を作ったのは、リチャードさまではありませんか。わたしに文句を仰っても困ります。それよりもどうぞおかけ下さい。場合によっては、少し話が長くなるでしょうから」
言ってソファを手で示す。リチャードは不満そうな息を吐いたが、それでも言われるままに腰を下ろした。
テーブルを挟んだ正面の席にアイリーンが着くと、程なくして現れた侍女が手早く茶の支度を調えてゆく。用意された茶は客人に相応しい上質なものだったが、彼はそれを一瞥もせずに口を開いた。
「――それで? わざわざこんな場所に呼び付けて、きみは何が言いたい」
「先日、サンノーファの庭園でお見かけした、アンダーソン家のご令嬢についてです。直接は存じ上げないのですが、お美しさを鼻に掛けることもない、貞淑で楚々とした花のような方だとか。まだ婚約者を定めていらっしゃらないようですが、何故リチャードさまとご一緒だったのでしょう?」
穏和に微笑んで問うと、リチャードが鼻に皺を寄せる。
「見ていたのだから解るだろう。……ノーラは、彼女は素晴らしい人だ。真っ直ぐな心で物ごとを捉え、誰に対して驕ることもない。穏やかで優しい眼差し、浮かべる慈愛に満ちた微笑みは、まるで聖典に描かれる女神のようだ。彼女に出会うことで初めて、私は己がどれだけ愚かで浅膚だったかを知った。彼女には――ノーラには誠実でありたいと思っている」
「それはそれは素晴らしい、良い心がけでございますね。ところで」
アイリーンは笑みを浮かべたまま首を傾ける。
「リチャードさまはご自身が婚約していらっしゃることは、覚えておいでですか?」
「ああ、もちろん覚えているとも。なにかの間違いであればとは常々思ってはいるが。言っておくがきみとの婚約は、家の事情で結ばれたものだ。私は一切関知していないし、納得もしていない」
「ですが既に決まったことです。感情論を持ち出して、子供のような駄々をこねるのはおやめくださいませ」
ぴしゃりと言ってから、アイリーンはマナーに反しない程度の溜め息を落とした。
「わたしたちの婚約が結ばれた理由を、リチャードさまがご存知ではないことは承知しております。ですが――」
「婚約の理由? ただの政略だろう。中央と距離を取りたいベケット家と、逆に取り込んでおきたい王家と、それぞれが妥協して担ぎ出したのが私だったと聞いている」
「それも理由のひとつではありますが、全てではありません。そもそもわたしたちの婚約が成ったのは、マクファランド公爵が是非にと願ったからです」
「父上が?」
驚きの声で言うリチャードにアイリーンは頷く。
「四年前のことです。閣下自らこちらにいらして、父とわたしに頭を下げて仰ったのです。くれぐれもよろしく頼む、と」
「まさか。ありえない」
「そのありえないことだったからこそ、父も折れたのでしょう。ベケット家は婚姻に政治を持ち込みませんから」
血筋の為せる業なのか、それとも環境がそうさせるのか、ベケットの人間は配偶者に拘泥するきらいがある。身近なところではアイリーンの父ジョセフがそうだ。
貴族ではない騎士爵の娘だった母を娶るのに取った手は、その陰湿さと強引さとで今も一部では語り草になっている。
それ以外にも系譜の枝葉を辿れば、似たような話はごろごろと転がっている。このような気風だから政略婚が上手くいく筈もなく、貴族に連なる者としては稀なことに、配偶者の選択は個々に委ねられていた。
とは言え何ごとにも例外というものは存在する。
マクファランド公爵からの打診がまさにそれで、様々なしがらみが故に、ベケット家はリチャードとの婚約を受け入れざるを得なかったのだ。
社交界のデビューも済ませていない小娘、それも格下の伯爵家相手に頭を下げざるを得なかった公爵の苦吟を思うと胸が痛む。
脳裡に浮かぶその光景を振り払うように頭を振って、アイリーンは言葉を続けた。
「公爵閣下はリチャードさまの下半身のだらしなさについて、たいそう危惧しておいでです」
「……なんだって?」
「あれだけの浮き名を流しておいて、まさか無自覚でいらしたのですか?」
内心の呆れを隠さず問い返すと、リチャードが気まずげな顔になる。だがすぐに眉を顰めて、不機嫌な声で言った。
「そうではない。きみが淑女らしからぬ物言いをするから戸惑っただけだ」
「すべき話題が話題ですから。品性に欠けた物言いには、目を瞑っていただけると助かります」
言ってアイリーンは小さく息を吐く。
「リチャードさまのそれが遊びの範疇に収まっていれば、公爵が動くことは無かったでしょう。それを証拠に、リチャードさまが社交界に出てしばらくは、公爵閣下も余計な口出しはなさらなかった筈です」
「……なぜ、きみがそれを知っている」
「婚約を結んでから、しばらくしてでしょうか。厄介事を押し付けるだけなのは不公平だ、と公爵閣下が仰って。せめて情報提供はさせて欲しい、と身辺調査の書類をくださったのです」
釣り書き代わりに寄越されたそれには、リチャードが関係を持った相手について事細かに記されていた。
名前と身分から始まり外見的特徴に趣味嗜好、中には交わした会話さえ連ねられている者もいて、調査にかけるマクファランド公爵の本気度が伺える代物だった。
公爵直々に貰ったそれは読んで楽しい内容では無かったが、婚約者の為人を理解するのに、これ以上のものはなかったこともまた事実である。
「以降も調査書は定期的にいただいております。ただアンダーソン家のご令嬢については、情報の確実さよりも速度を重視なさったのでしょう」
今のところ正確に掴んでいるのは彼女の名前と容姿、リチャードが相当に入れ込んでいるということだけだ。
「ですから、お聞かせください。先ほど誠実でいたいとおっしゃいましたが、具体的にはどうなさるおつもりだったのですか?」
リチャードの眉間に、ぐっと皺が寄る。
「……きみとの婚約を解消する。その上で彼女に婚姻を申し込むつもりだった。きみが破棄に向けて動いてくれていれば、面倒も少なくて済むと踏んだんだが……」
「ああ、なるほど。先日の呼び出しは、その為のものだったのですね」
浮気男に愛想を尽かして婚約を破棄する、なんて馬鹿げた話は、近頃ではそこかしこに転がっている。
アイリーンとてリチャードとの婚約に政略以外の意図が無ければ、早々に見切りをつけていたことだろう。
不誠実極まりない婚約者を眺めて、アイリーンは小さく息を吐いた。
「まずひとつ、申し上げておきます。わたしやリチャードさまがどれだけ願おうと、わたしたちの婚約が無効になることは有り得ません」
「政略以外にも理由があるなら、そうなのだろうな」
苦い声でひとまずの同意を示して、リチャードは眉間に深い皺を刻む。
「だが既成事実を作ってしまえば話は別だろう。それを踏み止まっているのは、偏にノーラの名誉を傷付けたくないからだ」
「ですから、こうしてリチャードさまをお呼びしたのです。ベケット家のご令嬢がお手付きになってからでは、手遅れになってしまいますから」
「……そうか、やはり継承権絡みか」
「ええ、仰る通りです。リチャードさまの王位継承権は現在六位。陛下はご健勝でいらっしゃいますから、順位が繰り上がることはないでしょう。ですが万にひとつ、ということもございます」
現在の王室に王子は三名。いずれの方々も既に成人していて、聡明と名高い王太子には、侯爵家から迎えた妃と一子がある。
リチャードに王冠が回ってくる可能性は皆無に等しいが、それでも血統は瑕疵なく繋がなければならない。
「アンダーソン家は爵位を持たない地方領主です。いずれ公爵家を継ぐことになる方の、ご生母の実家となるには何もかもが不足しています」
「言われるまでもない。だから今、アンダーソン家の当主が授爵出来るよう働きかけているところだ」
「それも存じておりますが、立てる功も無しに叙爵は叶わないでしょう」
「ならば王位の継承権など投げ打つまでだ。ノーラと添い遂げられないなら、あんなものに価値など無い」
「では継承権を返上して、それでどうさるおつもりです」
出来るかどうかはともかくとして、継承権を捨てるということは即ち王族ではなくなる、ということだ。
マクファランド公爵は王族にのみ叙される爵位、つまり継承権を失えば同時に公爵となる未来も、それに付随する何もかもが失われることになる。
儀礼爵位を名乗る程度は許されるだろうが、名前だけのそれには殆ど価値がない。治める領地が無いから税収も得られず、収入は国から与えられる年金に頼るしかない。
次期公爵という立場とその贅とを甘受していた彼に、そんなつつましい暮らしは耐えられないだろう。
リチャードもそれは充分に理解しているのか、苦り切った表情を繕いもせず吐き捨てた。
「……アンダーソン家に婿入りする、という手もある」
「残念ですが、それも認められないでしょう。継承権を放棄なさっても、リチャードさまのご血筋は王族のそれです。婿入りなさる家には、ある程度の格が求められます」
家格とは爵位の有無だけを指すのではない。そこにはこれまでに立てた功績や国への忠義、他家との繋がりや当主の為人もが含まれている。
王族との関わりを手にしてのぼせ上がり、欲に目がくらむようでは困るのだ。
娘がリチャードと恋仲になったと知るや否や、妙な動きを見せ始めたアンダーソン家では不適格と言わざるを得ない。
つまりリチャードの望みは何ひとつ叶わない、ということだ。
アイリーンは小さく息を吐いてから、哀れみの籠もった目でリチャードを見つめた。
「残る手段は、手に手を取っての駆け落ちでしょうか」
「それは……私に死ねと言っているのも同然だ」
傍系とは言え王族の血筋、もし市井に流出すれば国内はおろか、国外にも利用されかねない。そうなる前に不安の芽が断たれるだろうことは、火を見るより明らかだ。
可能性をひとつひとつ丁寧に潰されて、リチャードもさすがに逃げられないと悟ったのだろう。悄然と肩を落とす様からは、普段の色男ぶりが微塵も感じられない。
すっかり精彩を欠いた彼に視線を当てたまま、アイリーンは意識して優しい声で言った。
「リチャードさまには信じがたいことかもしれませんが、わたしとの婚姻はある意味では救済となるでしょう。そしてそれこそが、マクファランド公爵の狙いでもあるのです」
「……救済だと? よもやノーラの代わりに、きみを愛せなどと言うのではないだろうな」
「いいえ、わたしがリチャードさまに愛を求めることはありません。わたしがあなたに求めるのは――忠誠と崇拝です」
言ってアイリーンは手を持ち上げる。
背後に控えていた侍女が黙って差し出した『それ』の柄を、アイリーンはしっかり握り締めた。
唖然としているリチャードに頷く。
「大丈夫ですよ。しっかり修練を積んでおりますから、リチャードさまに傷を残すような不調法は致しません」
「な、なにを……それは、なぜ、そんなものを……」
「それは勿論、あなたの躾けに必要だからです。――美しいでしょう? 元は乗馬用だったものを、頼んで特別に作り直した特注品なんです」
言いながら手にした短鞭を軽く振るう。
先端のフラップが空気を切り裂いて、慣れ親しんだ小気味良い音が響いた。
「どうぞご安心くださいませ。リチャードさまが良い子にしていれば、きっとすぐに済みますから」
リチャードにしてみれば少しも安心出来ないことを平然と言って、アイリーンはにっこりと微笑んでみせた。
今でこそ伯爵位を得て、大穀倉地帯を治めているベケット家だが、そもそもの始まりは王国北部にある狭小地、そこに住まう氏族の長に過ぎない。
作物のろくに育たない痩せた地と、僅かばかりの石炭を産出する枯れかけた鉱山、食いつなぐだけで精一杯の困窮しきった人々。財と言えるのはそれが全てで、ベケット家は中央からも半ば見放され忘れ去られた存在だった。
そんな貧乏領地に転機が訪れたのは、今から二百有余年前のことだ。
隣国との戦端が開かれて間もなく、放置され崩落しかけていた坑道の奥で、ダイヤの原石が見つかったのだ。そこから試掘し発見された鉱脈は恐ろしく豊かで、これで貧しさから解放されると領地は沸きに沸いたと言う。
ところが当時の領主は、鉱山の権利のなにもかもを王家に献上してしまったのだ。管理と防備の面倒を避けた、というのが実際のところではあるのだが、軍事資金の調達に苦慮していた当時の王は、これを大いに褒めそやした。
かくしてベケット家には報奨として伯爵位を授けられ、戦地だった広大な土地も与えられた。ただひとつ想定外だったのは、開拓に送り込まれた人夫のことごとくが、破落戸崩れだったことだろう。
報奨の体を取ってはいたが、都合の良い厄介払いに利用されたのは明らかだった。
当時の領主の手記には、多くの苦労と恨み言とが綴られている。
とは言え戦後の人手不足に苦慮していたのは事実だったようだ。使えるものは全て使ってやろう、と当時の領主が開き直って試行錯誤の果てに考案したのが、効率的な人心掌握術である。
手法は至ってシンプルだ。
まず相手の自由のなにもかもをを奪って矜持を折り、痛みと苦しみを身に刻み込む。逆らおうとする意思も気力も根こそぎ削いでから、慈愛と寛容を示して主に依存させ隷属させるのだ。忠実な下僕となった者たちは、決して主に逆らうことはない。
この術は子々孫々へと受け継がれ、更には代を経て手法や道具が洗練されている。
此度のリチャードにもそれは遺憾なく発揮されて、躾けを終えた今では素晴らしい従順さを見せていた。
つい先日にはアンダーソン家へ赴いて、謝罪と別れ話を済ませてきたらしい。
多忙を縫って送られてくる彼からの手紙には、特に命じた訳でもないのに詳細な報告が綴られている。
褒めて欲しいのだろう。まるで尻尾を振る子犬のようで微笑ましいが、褒美をねだるのは少しいただけない。次に会ったときにでも、しっかり話して聞かせた方がいいだろう。
そう溜め息を吐いたところで、扉をノックする音が響いた。
手にしていた便箋を文机に置いて、アイリーンは応えを返す。扉を開けて現れたのはアイリーン付きの侍女で、彼女はお手本のような作法で膝を折ってから口を開いた。
「お嬢さま、お客さまがお出でです」
「そう。……どんなご様子かしら」
「以前お見かけした時と比べると、かなり憔悴していらっしゃいます。思い切ったことをするようには見えませんが、用心をなさった方がよろしいかと」
「そのつもりはなかったけれど、結果としては追い詰めてしまったものね。ありがとう、一応の心積もりはしておくわ」
苦笑含みに言って立ち上がったアイリーンに、侍女は心得たふうに扉を開けてくれる。
彼女が先導するまま自室を出て、階下の応接室に向かった。
家業の関係で客人を招くことの多いベケット邸には、その用途に応じた複数の応接室が設えられている。今日の客人を通したのは玄関ホールからほど近く、主に一般的な用向きに使用される一室だった。
庭に面した窓からの採光で室内は明るく、客人が居心地良く過ごせるよう側近には使用人を配してある。それはすなわち逃走経路の確保が容易く、声を上げればすぐに人を呼べる、ということでもある。
たとえ客人が思い余った行動に出たとしても対応は充分可能だ。それでアイリーンは少しも気負うことなく、客人の待つ応接室に足を踏み入れた。
布張りの長椅子に腰掛けていた客人――ノーラ・アンダーソンが弾かれたように面を上げる。
以前に見かけた時にも思ったことだが、目を奪われるほどに美しい容貌をしている。
やつれて尖る頬のラインと、化粧で隠せない目の隈があってさえ、その容色は僅かも損なわれていなかった。
なるほどアンダーソン家当主が、娘の婚姻相手を厳選したくなった気持ちがよく分かる。
アイリーンは内心で感嘆の溜め息を零しながら、ノーラ嬢の対面の椅子に腰を下ろした。
場の雰囲気に飲まれている風だったノーラ嬢が、慌てて立ち上がる。
「お、お初にお目にかかります。ハーロウのアンダーソン家が一女、ノーラと申します。あの、この度は不躾な申し出にもかかわらず、お時間をくださって感謝しております」
「……以前お見かけしたことはありましたが、こうしてお会いするのは初めてですね。どうぞ、おかけになってください。すぐに済むようなことではないのでしょう?」
にっこりと微笑みながら、手で長椅子を差し示す。
ノーラ嬢は物言いたげな目でアイリーンを見つめていたが、唇を引き結んだまま腰を下ろした。
侍女が淹れた茶に口を付けて、ふと小さく息を吐く。優美なカップの縁を指でなぞりならがら、アイリーンは口を開いた。
「作法を無視した振る舞いであることは承知しておりますが、わたしは時間を無駄にするのが好きではありません。ですから余計な前置きは無しにいたしましょう」
言って浮かべる笑みを深くする。
「本日こちらにいらした理由を、教えていただけますか?」
直截に過ぎるアイリーンの問いかけに、ノーラ嬢は弾かれたように面を上げた。レースの手袋に包まれた手をぎゅっと握り締めて、彼女は今にも泣き出しそうな顔で言った。
「いきなり手紙を送り付けて、不躾なことをしたのは分かっています。でも、どう考えてもおかしいんです。リチャードさまは私を愛してるって言ってくれました。問題が片付いたら結婚しよう、って約束もしてたんです」
それなのに、と悲しみに震える声で呟いて、ノーラ嬢は果敢にもアイリーンを睨めつけた。
「婚約者と話を付けてくる、と言って出かけていったきり連絡が取れなくなって、ようやく会えたと思ったら、いきなり別れようだなんて……! 絶対に、なにかあったに違いありません」
「そのなにかをわたしがした、と?」
「だって、それ以外に考えられないじゃないですか。リチャードさまのような優しくて誠実な方が、こんなことをする筈がないんですから。だから、もし……リチャードさまの意思を歪めるような真似をしているなら、私は絶対にあなたを許しません」
そう勇ましく告げたノーラ嬢に、アイリーンは思わず目を瞬かせた。
婚約者がいながら未婚の令嬢に手を出そうとした男の、どこに優しくて誠実な要素があると言うのだろうか。躾けが済んですぐに別れ話をしたことを鑑みれば、むしろリチャードは誠意に欠けたろくでなしだ。
相手の欠点が見えなくなるのが恋とは言え、ここまで盲目だと他人事ながら少し気の毒になってくる。
ふたりの仲を引き裂いた後ろめたさも相まって、アイリーンは気遣う声で言った。
「いきなりのことに戸惑う気持ちは分かります。ですが不用意な発言はされない方が良いでしょう。あなただけでなく、ご家族の立場まで悪くなりかねません」
「……そうやってリチャードさまも脅したんですね」
随分な言いがかりである。
リチャードを躾けた覚えはあっても、脅すような真似は一切していない。そもそも脅して言うことを聴かせるようでは、主として三流以下の振る舞いだろう。
とは言えリチャードの行動が褒められたものでなかったことは事実だ。
今やアイリーンの支配下にあるリチャードではあるが、その性根の矯正にはまだ時間がかかりそうだ。
まったく手の掛かる。
アイリーンはそう胸の裡だけで苦笑含みに零してから、手にしていたティーカップをソーサーに戻した。
リチャードに輪を掛けて面倒な客人に視線を当てて言う。
「あなたが聞く耳をお持ちでないなら、わたしが何言っても無駄でしょう。水掛け論をするつもりもありません。さあ、どうぞお帰りになって、気の済むまでリチャードさまと話し合いでもなさってください」
「それが出来たら、あなたになんて会いに来たりしてません……!」
殆ど叫ぶように言って、ノーラ嬢は大きく頭を振った。
「本当に、なんて意地悪な方なの。私はリチャードさまにお会いすることも、連絡を取る手段すら失くしてしまったのに……。話し合うなんて、出来る筈がないのに」
「……連絡が取れない?」
「全部あなたがやってるくせに、そういうなにも知らないみたいな振りは止めてください。信用出来る方から聞いて知ってるんですから。――ここに彼を閉じ込めているんでしょう?」
妙に確信を持った彼女の口振りに、アイリーンは思わず眉根を寄せた。
ノーラ嬢の正義感に満ちた主張はどうでも良いが、いくつか聞き捨てならないことがある。
今は忙しく自領を跳び回っているリチャードだが、つい先だってまでアイリーンの管理下に置かれていたことは事実だ。しかしこのことを知るのはごく一部の者に限られていて、もちろんノーラ嬢はそこに含まれてはいない。
つまりは彼女に話を漏らした、信用出来る方とやらが存在する、ということだ。
これは早急に突き止めて対処しなければならない。
リチャードを躾けてからと言うもの、まったく厄介ごとばかりが舞い込んで来る。その最たるものである相手に目をやって、アイリーンは小さく息を吐いた。
「誰になにを吹き込まれたかは知りませんが、リチャードさまはここにはいらっしゃいません。領地でお過ごしのはずです」
「嘘ばっかり。ただ領地にいるだけなら、エビング家の使用人が口を噤むはずがないでしょう? あなたがリチャードさまを隠してるから、誰もなにも言えないんだわ」
「……本当に話が通じませんね」
そう辟易とこぼした時だった。にわかに玄関ホールが騒がしくなる。
今日はノーラ嬢の他に、客人の予定はなかったはずだが。
そうアイリーンが首を捻る間にも、物音や話す声は大きくなってくる。やがて慌ただしい足音が近付いてきて、ノックもなしに応接室の扉が勢いよく開かれた。
「オーランド伯爵、どうかお待ちください……!」
追いかけてきた使用人の声を無視して、現れたオーランド伯爵――リチャードは焦った風情で応接室を見渡した。アイリーンと目が合って、彼は分かりやすく表情を強張らせる。なにかを言いかけてすぐに口を引き結び、大股に歩いて近付いた。
ノーラ嬢の存在に気付いているはずだが、まるで見向きもしない。忠犬もかくやという態度で、彼はアイリーンの傍らに膝を突いた。
よほど急いで来たのか、洒落者の彼が薄汚れた旅装を改めてもいない。普段は綺麗に撫で付けてある髪も、毛先があちらこちらに跳ねていた。
赦しを請うようにアイリーンを見つめる姿が、子供の頃に飼っていた牧羊犬のそれに重なる。
思わず伸びた手で乱れた髪を撫でてやりながら、アイリーンは首を傾けた。
「リチャードさま、いつこちらにお戻りに?」
髪を撫でられて嬉しそうにしていたリチャードが、問われて誇らしげに目を輝かせる。
「たった今だ、アイリーン。とても見られた姿ではないだろうが、どうか許して欲しい。執事から話を聞いて、それですぐにこちらに飛んで来たんだ」
「そのように慌てずとも、後ほどわたしから連絡を差し上げましたのに。――さあ、どうぞお掛けになってください。戻ったばかりでしたら、さぞお疲れでしょう?」
促されて立ち上がったリチャードは、アイリーンに言われるまま長椅子に腰を下ろした。
成り行き上のこととは言え、隣を許されたのが初めてだからだろう。彼の高揚と緊張とが伝わって来る。それを微笑ましく思いながら、アイリーンはすっかり放置していたノーラ嬢に視線を戻した。
「――だそうですけれど、嘘つきと呼んだことを訂正していただけますか?」
遠回しな謝罪の要求は、だがノーラ嬢の耳には届かなかったらしい。
彼女はただ一心にリチャードだけを見つめ、目を潤ませながら縋るように言った。
「……リチャードさま、やっとお会い出来ました。手紙をお送りしても届かなくて、すごく心配してたんです。お屋敷を訪ねても誰もなにも教えてくれなくて、いったいどちらにいらっしゃったのです」
「ノーラ……」
苦り切った声で彼女の名を呼んで、リチャードは小さく息を吐いた。
「あなたに対して私が行った不義理は、謝罪して許されるものではないと分かっている。以前にも言ったことだが――私を恨んでくれて構わないし、そうする権利があなたにはある。償えと言うなら、いくらでも償おう」
「リチャードさま、いったいなにを……」
「だが、それにアイリーンを巻き込むのはやめて欲しい。彼女はあなたと同じ、私の短慮に巻き込まれた被害者だ。政略という逃れられぬしがらみを鑑みれば、むしろ誰よりも不利益を被っていると言えるだろう。私はその尊い献身に恥じぬよう、誠意を尽くして彼女に報いたい」
「そんな……でも、だってリチャードさまは言っていたじゃないですか。その人との間にはなにもない、ただの政略で迷惑してるって。本当に心から愛しているのは私だけ、だから結婚しようって約束したのに……」
はらはらと涙を零して訴える様は、その容貌も相まって痛ましく見える。もしここが舞台の上であったなら、さぞや観衆の目を楽しませたことだろう。
だが当て擦られているアイリーンにしてみれば、ただただ煩わしく不愉快なばかりだ。
これ以上は話の通じない相手を構うのも面倒になって、アイリーンはうんざりと息を吐いた。
「夢が破れて嘆きたくなる気持ちは分かります。ですが文句を言う相手が違うのではありませんか? あなたが憤りをぶつけるべきは、リチャードさまやわたしではなく、あなたのお父上であるアンダーソン氏でしょう」
思わぬことを言われたからだろう。哀れっぽく泣いていたノーラ嬢が、流れる涙を拭いもせずに面を上げた。
「……私の、お父さま?」
「ええ、そうです。あなたのお父上が余計な欲を出さなければ、結婚は叶わずともリチャードさまの側にいることは出来たはず。それすら潰えることになったのは、アンダーソン氏がリチャードさまの名を利用したからです」
「あ、あの……ちょっと待ってください。お父さまが、いったいなにをしたって言うんですか?」
どれだけ泣き濡れていても、彼女の勝ち気さは鳴りを潜めることがないらしい。
戸惑いと反発とが綯い交ぜになった表情で言ったノーラ嬢に、アイリーンは淡々とした声で返した。
「ハーロウ西部、ウェスリーという土地はご存知でしょう?」
「……え、ええ。それが、なにか?」
「耕作にも牧畜にも適さない、乾いて痩せた土地だと伺っております。あそこに種を蒔くなら鳥にやった方が良い、とまで地元の方に言わしめるほどだとか。ところがそこを開墾するという名目で、アンダーソン氏が多額の出資を募っています」
アイリーンの隣で、リチャードが愕然と言う。
「それに私の名が使われていたのか?」
「確証を得られたのは、つい先日のことですけれど。どうやら王宮の調査機関が動いていたようですよ。詳しいことは、マクファランド公爵にお聴きくださいませ。わたしは報告をいただいただけですから」
「……そうか。なるほど、道理で」
なにか思い当たることでもあったのか、リチャードは痛みを堪えるような表情を浮かべている。彼の力無く落ちた肩にそっと触れてから、アイリーンはノーラ嬢に視線をやった。
「そのご様子ですと、どうやらご存知ではなかったようですね。……余計なお世話かもしれませんが、お父上と話し合われることをお勧めします」
「う、嘘です。そんなこと、お父さまがするはずありません。絶対に、なにかの間違いに決まってます……!」
「そのような主張はわたしにではなく、お父上になさってください。……これ以上はお話しすることもありませんし、あなたも気が済んだでしょう? さあ、どうぞお引き取りを」
出来るだけ穏やかに告げたつもりだが、追い払うことには変わりない。戸惑いの最中にあるノーラ嬢も、さすがにそれを理解したのだろう。憤りも露わに顔を赤くしたが、それでも噛み付くような真似はしなかった。
型通りに辞去の言葉を口にして、令嬢らしい所作で立ち上がる。彼女は涙の滲む目でリチャードを見つめていたが、それ以上はなにも言わずに応接室を後にした。
はた迷惑な客が去って、ようやく息を吐く。
出来れば二度と関わり合いになりたくない相手だが、なんとなくまだ一波乱ありそうで恐ろしい。
すっかり冷めてしまった茶に手を伸ばしながら、そうぼんやり思ったところで、不意に傍らのリチャードが床に膝を突いた。
頭を垂れる彼に、アイリーンは目を瞬かせる。
「リチャードさま、どうかなさいましたか?」
「……すまなかった、アイリーン。私の愚かな振る舞いのせいで、またきみに迷惑をかけることになってしまった。きみへの忠誠を示そうと、焦った結果がこの体たらくだ。自分でも本当に情けないと思っている。きみの手を煩わせるのは本意ではないが、いかようにでも罰して欲しい」
しょんぼりと項垂れる姿が、いじらしくも微笑ましい。
茶に伸ばしかけた手で彼の頭を撫でてやりながら、アイリーンは口元を綻ばせた。
「手紙をいただいた時にも思いましたけれど、リチャードさまは火遊びの後始末が不得手ですのね。……あの方の分別のなさにも、多少の原因はありそうですが」
苦笑含みに言って、跳ねる髪を指先に絡ませる。軽く引っ張ると、リチャードの肩が小さく揺れた。
「今後の参考に、ひとつお聞かせくださいませ。リチャードさまは、あの方のいったいどこに魅力を感じましたの?」
問われてリチャードはのろのろと顔を上げる。
アイリーンを見つめる目は恍惚に染まっていて、だが一方で恐れの色も滲んでいる。
訊かれたくなかったことなのだろう。彼はひどく言いにくそうにしていたが、それでも逆らうことなく口を開いた。
「……最初に心惹かれたのは、彼女の外見だ。デビュタントの白いドレスに麦穂色の髪がよく映えていて、期待と興奮に輝く顔は咲き誇る薔薇のように美しかった。一瞬で心を奪われて、それでもう目が離せなくなった」
「あの美しさですもの。リチャードさまが心惹かれたのも当然でしょう。……中身がそれに伴っていないのが、少し残念に思えますけれど」
「私は愚かだから、彼女のそういうところも好ましく感じたんだ。屈託なく笑うところや、誰に対しても物怖じせずにいるところ、よく変わる表情も魅力的だった」
リチャードの言いたいことは解らなくもない。瑕疵があるからこそ、輝く美というものも存在する。
ノーラ・アンダーソンという女性は正にそれだろう。
あからさまな敵意を向けられ、そのことに不快感を抱いていたアイリーンでさえ、彼女の魅力を否定するのは難しかった。
「……わたしには、とても真似出来そうにありませんね」
「きみはきみだ、アイリーン。彼女のように振る舞う必要はない。私が忠誠を捧げたいと思うのは、きみただひとり。支配されたいと願うのはきみだけだ」
「でも彼女のことは、まだ愛していらっしゃる?」
「そうだな、確かに恋を忘れることは難しい。だがきみと新しく始めることは出来る」
遊び人の彼らしい言い分だ。
アイリーンは思わず苦笑して、指に絡めていた髪を解いた。
ぴんと跳ねてしまった毛先を撫で付けてから、手で柔らかな髪を梳る。リチャードは心地良さそうに目を細めていたが、おずおずといった風情で顔を巡らせた。
手のひらに耳を擦り付ける彼の姿に、アイリーンは陶然と息を吐く。
「ベケット家は婚姻に政治を持ち込まない、と以前に言いましたでしょう? 大層な物言いに聞こえたかもしれませんが、実は持ち込めない、と言った方が正しいのです」
「……私には違いがよく、分からないのだが」
「どうも血筋のせいらしいのですが、ベケット家の人間はとにかく恋着が酷くて。だからひとたび相手を見定めてしまうと、それ以外の方には見向きもしなくなります。政略で結ばれた後に恋する方と出会って、目も当てられないことになった、という逸話が残っているほどなのですよ」
怪訝そうにしていたリチャードの顔色が、さっと変わる。自身とアイリーンとの婚約が、政略で結ばれたものであることに思い至ったのだろう。
彼は縋るような目でアイリーンを見つめて言った。
「つまり……いつか私も、きみに見向きもされなくなる、と言っているのか?」
「――え? ああ、いいえ、そうではありません。わたしはとても運が良い、とお伝えしておきたかったのです」
言いながらリチャードの頭を撫でる。髪をくしゃりと崩すようにすると、柔らかに滑る感触が指に心地良い。
リチャードが戸惑うように瞳を揺らしているのに笑みを返して、アイリーンはいたずらっぽい口調で言った。
「あなたと初めてお会いした時、リチャードさまの態度がとてもとても腹立たしくて。何故このような方と婚約しなければならないのか、とお父さまとマクファランド公爵を恨みたい気持ちでいっぱいでした」
「あの時は……すまなかった。思うように動けず鬱屈していた、とはただの言い訳だな。巻き込まれたきみに対して、私の振る舞いはあまりに失礼だった」
「本当に。サンノーファの庭園に呼び出された時なんて、呆れてものも言えなくなりましたもの」
抑えた声で笑うと、リチャードが眉尻を下げる。
その悄気げたさまにアイリーンは笑みを深くして、髪を撫でる手を滑らせた。
頬から頤をなぞって、指先に軽く力を込める。されるがまま面を上げたリチャードの鼻先に、そっと口付けを落とした。
「それでもわたしが心を決められたのは、あのことがあったからこそ。あのままなにもなければ、こうして跪くあなたを愛しいと思うこともなかったでしょう。そう考えると、わたしたちには必要なことだったと思いませんか?」
「……ちょっと待ってくれ。きみが、私を?」
呆然と呟くリチャードに、にこりと微笑ってみせる。
「ですからわたしは運が良い、と申し上げたのですよ」
政略で結ばれる相手に恋情を抱けるのは、そうあることではないだろう。それが叶うのだから、この縁組みを持ち込んだマクファランド公爵と、それを蹴らずにいてくれた父には感謝しかない。
呆けた表情を浮かべるリチャードの顔が、赤く染まっていくのに満足の息を吐いて、アイリーンは今度は彼の唇に口付けを落とした。