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「俺、中学の時からずっと、高田さんのことが」


 高校二年の冬休みの、前日のこと。

 終業式が終わったあと、呼び出された第ニ音楽室のグランドピアノの前で。

 私を呼び出したのは、中高と同じ学校に通う寺島くん。

 とは言っても中学の時は一度も話したことがなくって、辛うじて顔は覚えているレベルでしかなかった。

 きちんと言葉を交わすようになったのは高校に入ってから。取り立てて目立つ方ではないけれど、男女問わず友達は多くって、いつも穏やかに笑ってる事の多い、どこか大人びて見える男の子。

 そんな大人びてるはずの寺島くんが、一目見て分かるくらい真っ赤に頬を染めているのは、言葉よりも雄弁にこれから伝えられる事を物語っていて。寺島くんが口を開く前から、私の頬もつられて赤くなってしまっていたと思う。

 しばらく所在無さげにうろうろと視線をさ迷わせた寺島くんが、覚悟を決めたようにきっと唇を引き結んでから、ゆっくりと口を開いた頃には、私の心臓は、これ以上ないってくらいにばくんばくんと大きな音を立てていた。


 高校二年の、冬のこと。

 今からおおよそ、三年と少し前のこと。

 きっと、私も、寺島くんも。

 幸せだったころの、優しくて柔らかな、最後の思い出。




「ごめん、ごめん、ごめん」


 私の一日は、寺島くんの懺悔から始まる。

 教室よりも大きな部屋の真ん中に置かれた、大人が五人寝転んでもまだ余裕のありそうなベッドの脇で。

 床に跪きベッドの端に肘をついて、項垂れた額に握った両手を押し付けた寺島くんは、壊れたラジオみたいに何度も何度も、ごめんごめんとそればかりを繰り返す。

 いつからそうしているのかは分からない。いつだって寺島くんは、私が目覚めた時にはその格好で懺悔をしているから。


「おはよう、寺島くん」


 ゆっくりと体を起こし、なるべく柔らかい声で朝の挨拶を告げる。声をかけた途端ぴたり懺悔を中断した寺島くんは、のろのろと顔をあげる。

 光のない瞳は虚ろで、ぞっとするほど生気が抜け落ちているけれど、私の顔を見つめると、ちょっとだけ目に力が戻ってくる。そして泣きそうに顔をくしゃりと歪めた寺島くんは、歪に笑ってみせる。


「今日のご飯は、なあに?」


 ごめん、の内容には一切触れることなく、何も気づいてないかのように朝の食事について尋ねれば、弾かれたように立ち上がった寺島くんが、急にいきいきとした晴れやかな笑顔を浮かべた。ちょっと待ってて、と弾んだ声で告げると同時に、あっという間に部屋から出ていってしまう。

 そんな寺島くんの突然の豹変っぷりに驚くことは、もう、なくなってしまった。

 ばたんと大きな音を立てて扉が閉まり、ぱたぱたと駆けてゆく足音が遠くなってからようやく、私はふっと胸に溜まった息を吐き出し、ベッドから降りて窓際へと行きカーテンを開ける。

 まだ陽は低い。朝露に濡れた庭の草が白い光できらきらと光って、目に眩しかった。

 今日は一日、良い天気だろう。

 どこまでも澄んだ青空を見上げ、なんとなしに思う。

 たとえ晴れだろうと、嵐が来ようと、この家から出ることのない私には関係のないことなのだけれど。毎朝、起きれば必ず、カーテンを開けて空を見るのが日課となっている。

 どれくらいそうしていだろうか。

 ぱたぱたと近づいてくる足音を耳にして、音をたてないようにそっと、窓際から離れてベッドの横に置かれたソファーに腰を下ろす。

 たまにならいいけれど、あまり頻繁に外を眺めていると、寺島くんが動揺してしまう。それは好ましくない。


「おまたせ。今日は、オニオングラタンスープ風にしてみたんだ。玉ねぎじゃなくって、カリュの実だけど」

「ありがと。わ、おいしそう」


 両手に深めの木皿を二つ持って現れた寺島くんは、テーブルにそれを置くと、私の正面に座り、ぱんと手を合わせていただきます、と呟く。私も続いて手を合わせ、木のスプーンを手にして、ゆっくりと口に運ぶ。

 穏やかな、朝の時間だ。寺島くんは一口食べる毎に私を見て、私がこくりと嚥下すると、心の底から嬉しそうに笑って、また自分の食事に戻る。

 傍からみればあるいは、どこにでもある幸せな夫婦の食事風景に見えるかもしれない。三年前の冬の日の、続きにあったかもしれない、幸せな未来のような。

 けれど、現実は。

 似ているようで、決定的に違っている。

 少し足を動かすたびに、しゃらりと鳴る金属の音。肌との間に噛まされた柔らかな布に隔てられ、その冷たさに煩わされることはないけれど、けして外れない程度には強く右足に巻き付けられた鎖は、幸せな家庭には存在しないはずのもの。

 足から伸びた一端は壁に埋め込まれていて、どれほど強く引っ張ったとしても、ぴくりともしない。

 部屋の中を歩き回るのに不自由はしないし、ベッド脇に設置された扉から繋がるトイレやバスルームを利用するのにも何の問題もないくらいの、十分な長さは確保されている。

 ただ、外へつながる部屋の扉にはけして手が届かない。窓に近づくことは出来ても、嵌め込み式のそれには元々、開くための機能が備わってはいない。


「おいしい?」

「うん、おいしい」


 優しげに笑って、寺島くんはいつも私を気にかける。

 いつだって、私の事を一番に。

 けれど同時に、寺島くんは。

 広い広い部屋に私を閉じ込めて、鎖でつないだ、張本人でもある。



 三年前のあの日。

 私は寺島くんの言葉を、最後まで聞くことが出来なかった。

「高田さんのことが」と寺島くんが口にした瞬間、突然、何の前触れもなく、ぐにゃりと寺島くんの姿が歪んで。

 驚いて近づいた私を目を丸くした寺島くんが咄嗟に、まるで危険から遠ざけるように柔らかく突き飛ばして。

 だけどそれは、悪あがきにしかならなかったらしい。

 ぱちんと、最初からそこには誰もいなかったかのように寺島くんの姿が消えてしまったあと、一人残された私も、さほど時間を置かずして。ぐにゃぐにゃと揺れる空間に取り込まれて、気づいた時にはぼうぼうと草の生えた深い森の中に放り出されていた。

 一番に目に入った木々の葉の色は比喩でなく青い色をして、まるでこの世のものとは思えない風体を晒していた。

 果たしてその印象は正しかったらしい。

 私が落ちた森まさしくこの世のもの――私が生きてきた世界のものではなかったのだから。


 私達みたいな存在は、ごくごく稀に現れるらしい。

 知ったのは違う世界に落ちてきて、こちらの世界での一年が過ぎた頃だった。

 来訪者、と呼ばれる存在は、青と緑、そして赤い髪が主流であるこの世界では珍しい金や黒の髪をしていて、見た目だけでも非常に目立つけれど異質なのはそれだけではない。

 普通、来訪者には何かしら特別な祝福が授けられていて、魔物や魔法、ギルドにダンジョンなんてものまで存在するこの世界において、めきめきと頭角を現すものなのだという。

 一節によればダンジョンが来訪者を呼び寄せているのだと言われている。あるいは来訪者こそが、ダンジョンを作ったのだとも。事実、来訪者に宿った祝福は、ダンジョンを進むのに大いに役立つものばかりみたいで、その中でだけは魔物が特別なアイテムを落とすなんて仕組みは、まるきり私のよく知るダンジョンそのままだったから、おそらくその見立ては真実に近いのだろうと思う。


 らしい、だとか、普通は、だとか言ったのは、それを私が実感することは無かったからだ。

 本来ならば来訪者は言葉に困ることもなく、何の心得もなくても弱い魔物なら力押しでどうにか出来てしまうくらいの、飛び抜けた身体能力を備えているものらしいけれど、私はどちらも持ち合わせていなかった。

 だから最初、森の中で出くわしたいかつい顔をした集団に囲まれ剣をつきつけられ何事か語りかけられても、さっぱりと理解する事が出来なかったし。掴まれた腕を振り払うことも、縛られた縄を引きちぎる事も出来なかったし。

 何も分からないまま連れて行かれた街の中、引き渡され放り込まれた大きな館が何なのかもちっとも分からなくって。

 ようやくぼんやりと、自分の身に降り掛かった現実を理解したのは、綺麗に着飾られ、やけに派手に飾り付けられた部屋の中で。言葉の通じない大きな男に組み敷かれ、乱暴に服を剥かれ、必死の抵抗も虚しく、痛みと共に異物を体の中に受け入れてから、なあんて。

 あまりにも遅すぎたタイミングで、だった。


 来訪者の見た目をしているくせに、来訪者の特徴である言語能力も飛び抜けた身体能力も持たない私は、珍しい拾い物として件のいかつい集団に娼館に売りつけられたようだった。

 不幸中の幸いだったのは、その見た目の稀少さからそれなりに大事にされていたこと。

 何にも分からないまま毎日客を取らされてはいたものの、食事と睡眠時間はきちんと与えられ、時折休みを挟むこともあった。乱暴な扱いをする客に当たることはなく、比較的穏やかな気質の客を優先的に回されていた。

 言葉の分からないうちは毎日ただ恐怖に怯えるばかりだったけれど、半年もすれば日常会話程度なら問題なく理解出来て喋れるようにもなり、それなりに自分の立場を理解出来るようになった。

 ここが異世界であることも、来訪者と呼ばれる存在のことも、自分が周りからどう見えるかも。そして、売れっ子の娼婦ならまだしも新人としては破格の扱いをされていたことも。


 それが分かったとして、自分の置かれた状況を歓迎することなんて出来なかったけど、いつまでもめそめそ泣いて我が身の不幸を嘆いてもいられなかった。

 多少の自由は許されていたけれど、知らぬうちに負わされた借金を返さないうちは娼館の置かれた花街の外へ出る事は叶わない。

 言葉を理解して来訪者という存在を知っても、祝福らしきものは何も見つけられず、魔法さえ使える素地は持ち合わせていなかった私が、帰る方法を探すにしてもこの世界で生きてゆくにしても、選べる方法は僅かしか存在していなかった。

 死んで楽になるか、無理を承知で逃げ出すか、嫌々客をとって誰かが何とかしてくれるのを待つか、それとも。扱いがいいうちに必死で働いてさっさと借金を返して、自分で身の振り方を選べるだけの金を貯めるか。

 前の三つに比べれば、最後の選択肢が一番、建設的で希望があるように思えたから。葛藤を抱えつつも、積極的に娼婦として生きる道を選ぶことにした。


 私の売られた娼館は、花街の中でも上等な部類に入るかなり良心的な店だった。客を取れなければペナルティーを負わされるし、反抗的であれば扱いも悪くなり最悪店を追い出されるけれど、真面目に働いていればきちんと面倒をみてくれるし、体調にも気をつかって大事にしてくれる。稼ぐ額が大きくなればなるほど、限られた中で融通もきかせてくれるようになる。定期的にお抱えの治癒師が健康診断だってしてくれるし、病気にかかったとしても魔法と薬で治してもらえる。当然その代金は借金に上乗せされるのだけれど、それを稼ぐだけの見込みさえあれば希少な薬も癒し手も惜しみなく与えてくれるのだから、ある意味ではこの上なく恵まれた環境にあった。支払う対価は少なくないとはいえ、何も分からないまま外に放り出されるよりはよほど、安全な場所で暮らせているとも言える。

 それに言葉が喋れないうちから私を贔屓にしてくれていた客は、事情が分からないなりに私の身の上に同情してくれていた人が多く、手荒く扱われる事は滅多になかった。言葉が喋れるようになってからもいつか故郷に帰りたいのだとそっと胸の内を囁いてお願いすれば、ますます哀れんで外で生きるための知識を恵んでくれた。


 帰還を諦めてこちらで生きてゆこうと心を決めたのは、来訪者のほとんどがこちらの世界で生を終えたと寝物語に聞かされてから。

 歴史の中、数多存在したという来訪者のうち、帰還が叶ったのかもと思える逸話を持つのは飛び抜けて強力な祝福を持った数人だけ。しかもその数人でさえも、はっきりと帰ったと言われている訳ではなく、最古と呼ばれるダンジョンの奥底で消息を絶ち、その亡骸を誰も発見していないというだけのもの。賭けるにはあまりにもリスクが大きすぎたし、そもそも掛けられるだけの力が私には備わっていない。

 娼婦にしては恵まれた環境にあったけれど、夢物語を信じて生きられるほど甘く優しい生活ではけしてなかった。物憂げに目を伏せて故郷を憂う裏で、いかに効率的に金を引き出すかを考えて、甘えていい境目を模索する。一度で金を使わせるより長く贔屓にしてもらった方が良さそうだと判断すれば、差し出される飴に飛びついて噛み砕く代わりに、やんわり固辞して次に繋げる言葉を考える。

 元々リアリスト寄りではあったけれど、こちらに来てからそれに拍車がかかったように思う。

 届かない夢に手を伸ばすより、思い描ける未来に投資するべきだ。

 家族や友達の事を思い出しては、涙を流す夜は定期的にやってくるけれど。いつか田舎の小さな街で、贅沢をせずにひっそりと生きてゆけるだけの金を貯めてここを出て行こうと、具体的な目標を決めれば、胸を掻き毟るような郷愁に襲われる一方で形ある拠り所を見つけられた気がして、もうこれ以上、ありもしない絶望的な希望に縋って不毛な夢を見る必要はないいのだと、悲しむよりも先に少しだけ、ほっとしてしまった。



 私は、帰れない。

 だから、もう一人はいつか、帰ることが出来ますように。


 私と近い時期に、遠く離れた国に現れたという来訪者の話を聞くようになったのは、こちらに来て二年目に差し掛かってから。

 魔法はあれどその恩恵に預かれるのはさほど多くはなく、インターネットやそれに代わるものの存在しないこの世界で、街や国を越えて噂話が回るには些かの時間がかかるし、人の口を経るうちに全く違う話に変わるなんて事はしょっちゅうある。

 それでも言葉を理解してすぐの頃から、捜しているとは思われないようにさり気なく、他に来訪者の存在がないかと客に話を強請るようになったのは、私より先に消えてしまった寺島くんの事が気になってたから。捜していると思われたくなかったのは、今の状況で寺島くんに会うのは気まずかったから。開き直って現状を嘆くのは終わりにしたけれど、それでも誰に対しても胸を張れるほどにはまだ、私自身について吹っ切れてはいなかったから。

 何人かそれらしい話は聞いたけれど、実際は強い人を来訪者みたいだと称える噂話がいつの間にか来訪者の話に変化しただけで、寺島くんの事だと思える話は聞こえてこない。

 だけど、二年目に聞いたそれは。

 ちょうど私と同じ時期に現れて、あっという間に近くのダンジョンを踏破したというその人は、薄れかけた寺島くんの面影をくっきりと頭の中に描いてくれたから。

 真偽は分からないし、確かめる術もないし、そもそも会う気だってない。

 だけどその、とても強い祝福を宿していて、最古のダンジョンの最奥に到達できるのではと囁かれている彼が、寺島くんだったらいいなと思ったから。一度は縋った伝承にあったように、最古のダンジョンの最奥から元の世界に帰ることが出来ればいいなと思ったから。

 随分と強力な祝福を持つその人は、ダンジョン探索や魔物退治で生計を立てる人々のバックアップをしているギルドからも目をかけられているとの話で、もしも帰ることが出来なかったとしても、こちらで不自由なく生きてゆけると思えたから。

 借金の返済とは別に稼いだ金の一部を、けして出処を明かさないでほしいと念押しして、スポンサー気取りでその人への投資にしてくれるようギルドに預けたのは、もしもその人が帰れる時がきたら、投資した分だけ、私の一部もあちらに連れてかえってもらえる気がしたから。


 だからけして、私には気づかないまま。

 帰れるにしろ、帰れないにしろ、その人が幸せになってくれればいいなと願っていた。

 だって私は、何も持っていなかったから。私自身ですら、私のものではなくなってしまったから。自分を買い戻すために働く毎日の中、私にとっての幸せの形はとうに崩れさり、どんなものだか思い出せなくなってしまっていたから。

 だけどその人が幸せになってくれれば、私の中の何かが救われる気がしたから。そうしたらもう一度、私も幸せ

 の形を見つけられる気がしたから。

 だから私は自分のために、ひっそりとその人を応援し続けた。



 最古のダンジョンは私のいる花街から随分と離れた場所にあって、ここの近くのダンジョンはそれほど深くはなくそれほど力の強くない人たちが集まってくる。だからその人がここにやって来る可能性は限りなく低い、はずだった。

 力ある人や名のある存在にギルドを通じて金銭的な支援があるのもさほど珍しいことではないし、そこから足がつく心配もしていなかった。

 唯一の懸念は毛色の変わった娼婦の噂がその人の耳に届いてしまうことだけど、実は来訪者の娼婦だと噂される存在は私だけではない。毛を染めていたり、鬘をかぶっていたり、来訪者の血筋と噂される突然変異だったり。天然の色持ちは非常に稀少ではあるけれど、紛い物もあわせれば各花街に一人や二人は存在する程度の珍しさでしかないらしい。けして私だけではない。

 だからいくつも流れる噂が、うまく目くらましになってくれる筈だった。

 それに万が一その人が寺島くんだったとして、運悪く私の事に気づかれてしまったとしても。

 寺島くんが私を好きだって言おうとしたのは、もう随分前の話。

 あれから私はかなり変わってしまったし、寺島くんだって変わっただろう。娼婦として客に媚を売る私を見れば、あっさり見限るに違いない。

 貧しさで身を売った少女なんて花街には腐るほどいて、必ず迎えにくると約束した故郷の幼なじみの話も耳にタコが出来るほど聞かされたけれど、本当に迎えにきた話なんてそれだけで美談に仕立てあげられるほどには、ほとんど存在していないといっていい。百の約束のうち一つが実現すれば良い方で、そんなめでたしめでたしで終わる話より、自分で借金を返して故郷の男と一緒になるために帰ったものの、既に相手は結婚して子供までいて、居場所なく再び花街に戻ってきたなんて話の方がよっぽど多く存在している。男なんて、往々にしてそんなものだ。

 想いを交わして約束をした間柄だってそんなものなのだから、たかだか告白されそうになった、それだけの関係でしかない寺島くんが、美談の主人公になる可能性なんて欠片も存在しているようには思えなかった。


 そうして。

 冷徹なリアリストを気取って、三年を娼婦として過ごすうち、男という生き物全てを知った気になって。

 寺島くんを心配してるふりをして、客と同じ枠に押し込めて考えていた私は。

 その甘さの代償を、私自身ではなく、他ならぬ寺島くんに、支払わせる事になってしまった。





「あ、れ、久しぶり? だね」


 その日は、唐突に訪れた。

 久々の休み、許可を貰って花街をぶらついている最中だった。

 遠くからでも目立つ異質な黒を纏うその人を、視界に捉えた瞬間、頭が真っ白になって隠れる事すら出来なかった。

 記憶にあるより日に焼けて、一回り体が大きくなった気がする。さらさらの黒髪は少し傷んでいて、身につけた革鎧は制服とは似ても似つかない。

 だけど、寺島くんだった。紛れもなく、寺島くんだった。

 寺島くんは私より先に、私の存在に気づいていたらしい。

 気づいた瞬間、僅かに固まった隙に一気に距離を詰められ、がしりと腕を掴まれる。

 内心では混乱していて、頭は状況についていけていない。

 けれど無意識のうちに、唇はすっかり慣れた客に媚びるための笑みの形を作っていて、へらりと吐き出した言葉はとても軽々しく響いた。いかにも軽薄な、男を誘う娼婦の姿がそこにはあった筈だ。


 だから寺島くんは、そんな女に失望してがっかりして、すぐに去ってゆく筈だったのに。

 心底軽蔑して、見限ってくれる筈だったのに。


 言葉もなくじっと私の顔を見つめていた寺島くんの視線が、少し下に移動する。

 花街には客として男も女もやって来るから、余計なトラブルを避けるためにここで働く娼婦や男娼の腕には、目印として腕輪がつけられている。仮に街から逃げ出そうとしても、けして外れない腕輪がある限り門から外に出ることは出来ない、わかりやすい印。

 寺島くんの視線が、かちりとその腕輪に固定されて。

 そのまま、凍りついたように動かなくなって。

「おい、どうしたんだよ」と、寺島くんの連れらしい男の人が、後ろから追いかけてきて、ぽん、と寺島くんの肩を叩いた瞬間。


「ああああああああああぁぁぁぁあああっ!」


 絶叫と共に、寺島くんが。

 崩れ落ちて、膝をついて、そして。

 激しく慟哭し、緩やかに壊れてゆく彼を、私は、ただ、ただ。

 呆然と見つめることしか、出来なかった。



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