(2)変わっていく未来
振り返った先で、セニシェは灰色のマントを纏い、暗い通りの奥から俺を見つめていた。立ち尽くしているその顔は、今までに見たことがないほど色を失っている。
俺を見つめたまま立っている白い右手の中には、この間教えられた俺の危険通報ペンダントが、小刻みに震えながら握られている。
「セニシェ……」
だけど、俺が振り返った途端、見上げていた紫水晶の瞳はぼろぼろと泣き出した。
「えっ!?」
「ばかっ! 心配したんだから!」
その言葉とともに駆け寄ってくると、細い両腕で思い切り胸を叩かれる。
――えーっと。
思わず、俺の方が頭がついていかない。完全に思考停止だ。
悲しかったのも、辛かったのも、何もかもが胸の中の柔らかい白い腕に飛んでいってしまう。
そりゃあそうだろう。突然自分の好きな子が現われて、大好きな紫水晶の瞳でぼろ泣きされて、平常心でいられるはずがない。
ましてや、俺の胸の中で。
「――悪かった」
だけど、内心すごく焦っていた俺は、やっと叩いてくる手が、すっかり冷え切ってしまっていることに、気がついて謝った。
一体、どれだけの時間を探し回っていてくれたんだろう。
――きっと、コルギーやラセレトと同じくらい。
「えっ!? 水竜がそんなに素直に!?」
それなのに、セニシェと来たら、全然違うことで驚いている。
「どうしよう。やっぱり大怪我をしたの? それともただでさえ曲がった根性が、真っ直ぐになるぐらい曲がってしまったとか」
「おい。お前の中で俺の認識はどうなっている?」
だけど、と俺は一つ軽い息をついた。
「そんなに心配なら、ずっと側で、俺を見ているしかないよな?」
「え?」
俺の急な言葉に、セニシェがびっくりしている。だけど、どうやら意味がわかったらしい。しばらくすると、急速に赤くなっていく。
それに俺はやっと余裕の笑みを浮かべた。
「だって、今まで俺と離れるチャンスが二回もあったのに、全部自分でふいにしたんだろう? だったら、もう諦めるしかないんじゃないか?」
「う、ううっ……」
しかしセニシェは呻くと周りを見回している。
いつの間にか、コルギーとラセレトはにやにやと笑いながら、一方後ろに下がって見ていた。
「それに、多分お前のことだからこれからも心配するんだろう? だったら諦めて、ずっと俺の側にいろ」
「でも……」
だけどまだ不安なように、暗闇の中に姿を探している。
――やっぱりアーシャルが怖いのか、こいつ。
まあ、仕方がないか。じゃあ、俺も一つ妥協してやろう。ここでいきなり俺の恋を終わらせたくないしな。
だから、俺はぐいっと細い体を引き寄せると、セニシェの白い耳に囁きかけた。
「アーシャルには内緒にしておいてやる。だから、今度からは水竜じゃなくて、名前で呼んでくれ」
――ニッシェおばばの時に優しく呼んでくれたように。でも、今度は違う意味で俺の名前を。
そう小声で囁くと、セニシェの顔は更にまっ赤になった。まるでリンゴか茹でた蛸だ。そして、だいぶためらっていたが、小さくこくんと頷く。
それがたまらなくかわいい。
「兄さん」
だけど、抱きしめたくなった腕を彼女に回す前に、アーシャルの声がした。その後ろには、ユリカとサリフォンの姿も続いている。
それにセニシェがすごい勢いで俺から飛びのいた。両手で自分の肩を抱きしめると、大急ぎで俺から距離を取っている。
――うん。これからの課題はこれか。
だけど、今は続けて聞こえてきた声の方が優先だ。
「お兄ちゃん!」
無事、地中から連れ出して来てくれたのだろう。
声と同時に、愛らしい茶色の柔らかい巻き毛が俺の腕の中に飛び込んできた。けれど、腕の中の髪は、さっきの戦いで切られて、肩より少し下ぐらいでばさばさだ。
痛々しい姿に、俺は飛び込んできたユリカを強く抱きしめた。
「大丈夫か、ユリカ!? どこか怪我はしていないか!?」
「うん。骸骨みたいな化け物に襲われた時はびっくりしたけれど! あのお兄ちゃんのお友達がずっと守ってくれたし」
話しながら振り返るユリカと一緒に、俺も後ろの暗闇に立つサリフォンを見つめた。
その横で、アーシャルがひどく半眼になってサリフォンを睨んでいる。
――きっと面白くないんだろうな。俺に近寄っていることと、ユリカの信頼を得たことが。
わかりやすい奴。隣りに立つ弟の表情を横目で見ながら、俺はじっと見つめてくるサリフォンに向かい合った。
「今回は――――ユリカが世話になった」
俺の言葉に、遠くでコルギーとラセレトが明日の天気予想を始めたが、どういう意味だ。けれど、サリフォンは緑の瞳でじっと俺を見つめ返している。
「別に――僕は、お前に話があったついでだ。だが、今回のことはどういうことだ?」
「――また今度説明するよ」
今は、まだ頭がしっかりと動かない。そのまま話すにしても、誤魔化すにしても、どちらにしても正常に話せる自信はない。
だから、礼を言って背を向けようとした。
それなのに、まだサリフォンはついてくる。
「待て、リトム。まだ話は終わっていないぞ!」
――しつこいな。
「だいたいあの追っかけがお前の前世の弟というのは、どういうことだ!?」
「だから、それも今度――」
「逃げるな! 話はそこじゃない! 前世で弟だったから、アーシャルを認めると言うのなら、何故今生でもっと深い繋がりのある僕を認めない!?」
はっきりと血の繋がりと言わなかったのは、きっと近くにいるユリカに配慮してくれたのだろう。だけど、俺にはそれだけでも十分青くなる発言だ。
「アーシャルはユリカと婚約した! だから、今でも間違いなく俺の弟だ! それに、それはお前の親父の勝手な思い込みで――」
そこまで言いかけて、はっとした。
――そうだ。思い込みじゃなかった……
わかっている。今では、もう――
こいつが、本当は俺の何なのかということも。
けれど、拳を握り締めた俺の前で、サリフォンはいつもの嘲るような笑みを浮かべた。
「ふん。じゃあ、つまり僕がお前の妹を妻にしたら、お前は僕を弟と認めるということだな?」
「なっ――!」
思わず、がっとサリフォンの襟を掴んだ。
――こいつ! 本気か!?
その後ろで、アーシャルがユリカを咄嗟に後ろに回して庇っている。
「お前、ユリカに何かしたら――」
「だが、そうなれば確かに名実共にお前の弟だ。それなら、お前もこれ以上逃げられまい」
「貴様――!」
それに俺は強くサリフォンの緑の瞳を睨み返した。
それなのに、サリフォンはじっと俺の顔を正面から見返している。
視界の奥では、自分の恩人と兄の間に流れる突然の不穏な空気に、ユリカが驚いてアーシャルの服を掴んでいる。
それに気がついて、俺は一度唇を強く噛んだ。
――そうだ。本当はもうわかっている。
俺の父親が誰かなんて――
それなのに、掴みあげられたままサリフォンは俺から目を逸らさない。
それがどこか、さっき兄を亡くしたと話したナディリオンの瞳を思い出させた。
――考えてみれば、こいつもずっと幻の兄弟という存在に振り回されて、出口を失っているのかもしれない……
わかっている。本当は、もう――――ただ認めたくなかっただけなのだ。
――だけど、それがこいつだけでなく、更にアーシャルやユリカにまで災難をもたらすのなら……
だから、俺は更に襟を握ると、サリフォンの顔を俺の前にぐいっと引き寄せた。
「わかった。今回はユリカが世話になった。だから特別に卒業生対抗戦の賭けどおりにお前を俺の弟と認めてやる!」
放った俺の言葉に、サリフォンの瞳が大きく開いた。そして囁いた俺の顔を穴が開きそうなほど見つめている。
それを、俺は更に睨み返した。
「だけど俺が譲るのはここまでだ! 俺の家族は俺が決める!」
それにサリフォンの瞳が驚いているが、言葉は止めない。
「俺は決してお前の家には行かない! そしてお前は永遠に俺のライバル枠だ!」
「ふん――」
俺の叫びに、サリフォンの顔に鮮やかな笑みが広がっていく。
その顔はどこか嬉しそうだ。
「ふん。上等だ。僕の肉親も僕が決める――だから、僕が認めた者が僕の血族だ」
それだけを俺に告げると、白いマントを翻した。そして、上機嫌で夜の通りの中へと歩き去っていく。
歩きだしたサリフォンの後姿を、俺はもう一度、腕の中に飛び込んできたユリカを抱えたまま見送った。その俺の横では、アーシャルとセニシェ、そして友人達がただ白い背中を見つめる俺を、守るように立ち続けてくれていた。