(4)破滅への足音
次の日、俺は普段住んでいる洞窟より南の方にある湖へと向かっていた。
ここなら、人間はまず来ない。
なにしろ、年老いた強力な魔女が出ると恐れられている湖だ。まあ、正体はたいそう可愛らしい魔女だったが。
俺は、事前に聞いていた噂と実物との差に驚いた昔を思い出して、思わず苦笑をしてしまった。そして改めて、目の前で大きな日よけ帽子を押さえているセニシェを見つめた。妖精の血が入っているとかで、確かに噂どおり年をとった強力な魔女なのだが、どう見ても十七、八ぐらいの人間の娘にしか見えない。
しかも、よく泣く。
最初に会った時は、あまりの噂との違いに軽い頭痛を覚えたものだ。
「セニシェ」
俺は、後ろでアーシャルが湖に来る水鳥達と楽しそうに話しているのを確かめて視線を戻した。
竜の俺から見れば、セニシェは本当に小さい。さらに小さい顔の中で、大きな瞳がくるんと俺を見つめていた。
「前に頼んでいたアーシャルの目を治す方法なんだが――どうだ? 何かわかっただろうか」
訪ねれば、セニシェは軽く首を横に振った。
「詳しい人にも訊いて、色々治療薬も探してみたけれど――だめね。やっぱり生まれつき少ない視神経を増やす方法なんて、見つからなかったわ」
「そうか……」
予想はしていた。今までに何度も聞いた答えだったからだ。
それにセニシェは僅かに悲しそうに瞳を寄せている。
「後は、余程強力な術者の魔法治療しかないけれど……竜の魔力を上回って作用できるほどの術者なんて知らないし……」
静かに首を振る。
「ごめんなさい。私にわかるのはこれぐらいね。ひょっとしたら、例のダンジョンのマームなら何か知っているかも知れないけれど。彼女は回復の術については有数の練達者だし」
「マーム――あの変態か」
その名前に、俺は苦虫を噛み潰した。そして、脳裏に浮かんだ様々な罠に薄く笑いながらセニシェを見つめる。
「取りあえず、現在その迷宮でアーシャルを遊ばせるついでに、永久破壊活動中なんだが。快く教えてくれるだろうか」
「そんなわけないでしょ!? なに常識も考えずに、人様の住居に迷惑行為をしているのよ!」
「そうか。セニシェは、取りあえず火の燃え盛る上で棒渡りをさせられたり、時間制限内に解かないと、玉に踏み潰されるおちょくり算数問題を体験しても、常識的でいられると。今度アーシャルを遊ばせる時は、迷宮じゃなくてお前でやってやろう」
「ごめんなさい! 絶対に体験したくないから申し訳ありませんでした!!」
まあ、この素早い反応が面白いんだけどな。俺は、もう涙目になっているセニシェを見つめながら、心の中でくすっと笑った。
「兄さん」
すると、俺とセニシェの様子が気になったらしい。後ろからアーシャルが大きな赤い体を揺らしながら近づいてくる。
――ああ。俺が、セニシェと仲が良さそうだったから、怒っているな。
わかりやすいぐらい表情に出ている。
だから、俺はセニシェに竜の大きな手を伸ばした。
「セニシェ。何か菓子をもっていないか?」
ここで、アーシャルが暴走すれば、間違いなくセニシェはこの場で人型の蒸し焼きになるだろう。軽くすんでも、腕や足に二度と消えない傷は残るかもしれない。
「お菓子? 飴ならあるけれど」
急いで、セニシェが自分の鞄を漁っている。
「それでいい」
「じゃあ、お菓子の代わりに! 私と水竜はお友達どころか仲良くさえない完全な赤の他人って、くれぐれも火竜に言っておいてね!」
――こいつ、地味に傷つく。
いっそ、恋人だとありもしない事実をでっちあげてやろうか。
そうすれば、どれだけ驚くか見ものだ。
けれど、俺の意識が一瞬セニシェの方を向いていた間にアーシャルが転んだ。
「大丈夫か?」
急いで駆け寄ってやる。
「痛いよー痛いよー」
見えない目から涙をこぼして泣くアーシャルの足をよく見ると、固い竜の鱗が割れて、赤い血が下から噴出している。
「なんで、こけたぐらいで竜の鱗が……」
――鉄や岩さえ砕くのに。
だけど、アーシャルが転んだところを見回すと、幾枚もの大きな鱗が落ちている。日に輝いて翡翠色に澄んでいるのは、間違いなく風竜の鱗だろう。
「なんで、こんなところに風竜の鱗が……」
けれど、眉を寄せた俺の前で、アーシャルは鼻をすすり上げながら俺を見つめた。
「それね。さっき鳥と話して聞いていたら、人間のドラゴンスレイヤーとかいうのが来て、風竜と死闘を繰り広げたんだって」
「ドラゴンスレイヤー?」
――なんだ、それ。人間にそんな竜を倒せる存在がいるなんて初めて聞いたぞ?
「うん。でも、空で乱暴ばっかりしていた竜だったから助かったって、鳥さんが言ってた。――同じ、竜の僕としては複雑なんだけど」
――そんな暴れ竜を人間が?
それに、俺はなんとも言えない不気味なものを感じて、警戒するように辺りを見回した。そして、後ろのアーシャルに話しかける。
「アーシャル。お前、絶対に人間の街には近づくなよ」
「えーなんで?」
「なんでも!」
――なんで、今までの話の流れでわからないんだ!
だけど、俺はアーシャルに近づくとその傷に刺さった鱗を抜いてやった。そして昨日教えてもらった傷に効くという薬草を近くに生えていないかと探す。
――まさか、竜よりも強い生き物がいるなんて……
草を見つめながら、牙で唇を噛んだ。今まで竜だから、アーシャルの目が見えなくても、何とかこのまま生きていくことはできるだろうと思っていた気持ちが、根底から揺らいでくる。
だけど、それを隠しながら、俺はアーシャルの傷に見つけた薬草を貼ってやった。
「あーあ、血が出ているじゃないか」
――こんな大きな鱗さえ見えていないんだ。
やっぱり俺が側にいてやらないと、何もすることができない。
――いや、俺がついていてさえ、怪我をさせてしまったじゃないか!
あんなに昨日守りたいと感じた後だったのに。
俺じゃあ、今のアーシャルを守りきることさえできない!
「兄さん?」
けれど、止まってしまった俺の手に、アーシャルが不思議そうに首を傾げている。
「あ、ああ……」
それに気づいて、俺はさっきセニシェから受け取った飴をアーシャルの口元に触れさせてやった。それに、アーシャルが不思議そうに口をあける。
――まったく警戒していないんだから。
これが俺以外なら、どうなるのか――
困ったような悲しい表情で苦笑すると、それまで泣いていたアーシャルが俺の気持ちも知らずに、ぴょんと花が咲くように笑った。
「おいしい! なにこれ兄さん!」
「飴だ。セニシェからもらった」
「セニシェ? 最近、兄さんよくあの魔女と会っているけれど、まさか名前を教えたりしていないだろうね」
「まさか!」
今は手のかかる弟でいっぱいだ。それに、迂闊にそんなことをすれば、またアーシャルがいらない心配をするだろうし。
――大丈夫。置いて、勝手にどこかに行ったりしないよ。
「ふうん。なら、いいけど」
だけど、アーシャルの警戒心は口の中の飴に緩んだようだ。
「おいしいねー兄さん、飴って」
「ああ、そうだな」
泣きたいような気持ちで、俺はアーシャルを見つめた。だけど、いつもと同じ花のような笑顔を返される。それに泣きそうだった俺の心が、やっと陽だまりにいるうように温められるのを感じながら、背に手を添えた。
「さあ、帰ろう。昨日の腕の怪我もまだ治っていないんだし」
「うん!」
そして、俺はいつもと同じように尻尾でアーシャルを先導しながら飛び上がった。