(3)思い出の向こうから
あれは、秋の風が山々の峰を爽やかに渡っていく頃だった。
「いい風だねー兄さん」
小さい頃から何度も来ていた山に今年もアーシャルを連れてきた俺は、色づき始めた木々を眺めた。青い空の下、赤や黄色に染まってきた梢が華やかに周囲を彩り始めている。
「ああ。今年も豊作だといいんだが」
言いながら見回すと、毎年来ている森は、今年もたくさんの栗を落としていた。それを鼻の先を使って、器用にアーシャルの前へと集めてやる。
「ほら。ちょっと待て。栗のイガをとってやるからな?」
また、前みたいにイガごと食べて泣かれては堪らない。何より、痛いだろう。
――見えないのなら、俺が気をつけてやらないとな。
けれど、アーシャルは目を閉じてにっこりと笑っている。
「うん。僕もさすがに栗の棘は嫌いだなー。兄さんの偏食を笑えないよね?」
「え!? これを偏食と同レベルにするのか!?」
いや、ちょっと待て。どう考えても、食べたら危険な食品リストな気がしてならないんだが。
「うん。だって食べたくないのは、同じだもん。僕も兄さんが砂漠蟻地獄をどうしても食べたくない気持ちがわかったよー」
「待て! 頼むから、あれを偏食と同レベルにするな!」
――いや、食べたら危険リストでは合っているが!
「だって食べたくないのは一緒じゃない?」
「その前に命の危険度が違うわ! 偏食は食べたくないだけだが、あれは確実に命が縮むからな!」
「ああ、つまり好き嫌いでは同じってことだねー。どちらも食べたくないって」
「いや、そう……なのか?」
――何かが、根本的に違う気がする。体の栄養とか健康とか、そんな的に。
だけど、俺がぐらついた竜の頭をふった時だった。
突然、今まで誰も来なかった茂みが揺れると、そこから大きな籠を背負った人間が姿を現したのは。
「ひっ!」
茂みの向こうにいた俺達に気がつくのが遅れたのだろう。
人間の男も、突然いた俺達に目を見開くと、慌てて腰に下げていた弓をとり矢をつがえている。そして、その鏃を俺達に向けた。
「アーシャル!」
けれど、アーシャルはまだ気がついていない。目の前に置かれた栗の匂いに引かれて、そこに鼻を寄せている。
――しまった! いつもなら、耳で気づいているのに!
今日は周りにこいつの気をひくものが多すぎた。だから、まだ人間に気づいていないアーシャルを守るために、急いで駆け出す。
慌てても、間に合わない。
「え?」
長い首をあげると、アーシャルが俺の声にきょとんとしている。
けれど、俺の切羽詰った声が伝わったのだろう。驚いて振り向いた顔を人間の放った鏃がかすめ、そのまま矢はアーシャルの胴体に当たった。
「アーシャル!」
「わっ!」
竜の鱗のおかげで、胴体に当たった鏃は跳ね返される。だが、驚いた拍子に、アーシャルの体が側にあった大岩にぶつかり大きく倒れてしまった。
「アーシャル!」
――この……!
俺は怯えている男を見つめると、思い切り尻尾を振り上げた。
ぶんと一なぎで、側にあった木ごと男を払う。それに人間の男は必死に頭を抱えて蹲った。
「ひいいいいいっ!」
男の頭を薙いだ尻尾が、周りの木々の幹に当たり、尻尾の勢いのまま二つに折っていく。それをどうにか紙一重で男はかわすと、這うように山の中へ逃げていく。
――運のいい奴。
アーシャルを傷つけようとして、まさか無傷ですむとは。いや、男の頭の上は、俺の逆立てた鱗で剃られて、ほとんど髪がなくなっていたが。
だけど、今は逃げた男を追うより、アーシャルの方が先だ。
「アーシャル!」
「痛いよーいたいよー」
見ると、アーシャルは大岩で転んだ拍子に、手を挟んだのだろう。赤い鱗に覆われた手首が更に真っ赤になり、ぷくっと盛り上がって腫れている。
「ああ……挫いたんだな……すぐに、冷やしてやるから」
だけど、俺の魔力ではそこまでしかできない。アーシャルの腕を握り、じっと冷やしてやったが、まだ目には涙を浮かべている。
「うん。ごめんね、兄さん……」
「何を言っているんだ。怪我をしたのは、お前のせいじゃないだろう?」
――むしろ、見えている俺がもっと気をつけてやらないといけなかったんだ。
だけど、アーシャルは閉じた瞼から、はらはらと涙をこぼしている。
「うん。でも、折角連れて来てくれたのに――」
「ばかっ! そんなのは、どうでもいいから!」
だから、今日は帰ろうと手を差し出すと、うんとアーシャルが怪我をしていない方の手で握り返す。
だけどその夜。
俺は、帰った洞窟でアーシャルの寝顔をじっと見つめていた。
側では、寒くなってきた夜風に寒がりのアーシャルが冷えないように、母さんがつけてくれた小さな焚き火が灯っている。そのオレンジ色の光が、アーシャルの赤い鱗をちらちらと照らすのを見ながら、俺はじっと側に座り続けていた。
アーシャルは、母さんがたくさん作ってくれたクッションの中に埋もれるようにして眠っている。
――今日は、本当に肝が冷えた……
静かな寝息を聞きながら、俺はじっと眠るアーシャルの顔を見つめた。
その腕は、俺が冷やした布で巻かれて薬草で手当てがされている。だけど、やはり痛いのだろう。ここから見てもわかるぐらい、布の下の腕は腫れあがっている。
――腕ぐらいですんでよかった。
人間の男が射た矢がアーシャルの目を掠めた時、息が止まるかと思った。
――あまり、見えていない目だけれど……
それでも、光やおぼろな輪郭ぐらいはわかるらしい。額が触れ合うぐらい近づけば、どうにか俺の顔も見えているようだ。
――だけど、目を潰されたら、それさえ見えなくなる!
アーシャルの目は父さんも母さんも、ずっと治す方法を探している。でも、方々へ聞いて回っても治療法が見つからない!
「なにか……ないのだろうか……!」
このままでは、アーシャルは一生目が見えない。大好きな花や食べ物の形を見ることもできないし、この世界を彩っている様々な色を見ることもできない。
それどころか、竜にとって最大の喜びである大空を自由に駆け回ることさえ、俺なしにはできない。
俺がいる間はいい! だけど、アーシャルだって、いつかは成竜になるだろう!
好きな竜ができて、一緒に広い大空を駆け回ることだってしたいはずだ。それなのに、アーシャルは自分だけでは、空を飛ぶことさえできない!
――それは、竜にとっては、翼をもがれたのに等しい苦痛だ。
なにか、ないのか!? アーシャルの目を治す方法が!
それさえ、わかればどんなことをしても探し出してやるのに!
「アーシャル……」
俺は、暗い洞窟の中で、ただ穏やかに眠り続ける双子の弟の顔を見続けた。