(1)しまった、やられた!
寮の俺達の部屋に帰ってきた頃には、外はもうすっかりと薄暗くなっていた。
「さすがに腹がへったなー」
よく考えたら、昼も食べていなかった。帰り道で鳴った俺の腹に、母さんが持っていたキャンディーの包みを俺達二人に渡してくれたが、それだけではさすがに膨らまない。
だけど、それさえあまり気にならないほど、今までの時間が幸せだった。
――竜の父さんと母さんがいる。
俺を忘れていなかった。それどころか、ずっと側で、今も息子だと思って見守っていてくれたのが、嬉しくて仕方がない。
「だから母さんを焼肉にしてやったのに」
それなのに、まだアーシャルの腹立ちは収まらないらしい。腕を組んでしかめている顔に、俺は呆れたように手を伸ばした。そして、頭をぽんぽんと撫でてやる。
「そんなことをしたら、お前も大やけどだぞ?」
いくらアーシャルの魔力が強くても、小さい頃からの動きや癖を全て知っている母さんに勝てるとは思えない。
「平気だよ、兄さんさえ人質に取られなければ」
「いや、そんな昔のことを持ち出さなくても――」
「くそっ。あの時だって、母さんが兄さんにすりすりして怒った不意をつかれなければ、もっといいところまでいったのに……」
「いや、頼むから母さんが俺を可愛がるのにまで焼きもちを妬かないでくれ」
――むしろ、そこは俺に対して妬いて欲しい。
なんで母親の取り合いじゃなくて、俺の取り合いになっているんだよ。ちょっとだけ俺の家庭変わっていないか?
だげと、まだアーシャルはいらいらが収まらないみたいだ。
――まあ、そりゃあそうだよな……
なにしろ、十七年間知らなかったのは、俺のことを一番心配したていたこいつだけだったんだ。
しかも心配して暴走するから教えないなんて言われたら、怒らない筈がない。
だから、俺は一つ小さな息をつくと、アーシャルの頭をぽんぽんと撫でてやった。
「ありがとう」
俺の言葉に、アーシャルがぱちりと赤い瞳を開いている。
「俺を探し出してくれて――」
もし、こいつさえいない状態で、この人間の体の出生と向き合うことになっていれば、俺の心は間違いなく壊れていただろう。
――こいつがいてくれて、よかった。
アーシャルがいてくれたお蔭で、俺は誰が敵か味方かさえわからない地獄の中で、誰も信じられなくならずにすんだ。
それどころか、俺が見失いかけていた家族の絆さえ取り戻させてくれた。
「ありがとう。――お前が見つけてくれて本当によかった」
「兄さん……」
すると、急にアーシャルの顔がまっ赤になった。お、そういえば正面からちゃんと礼を言ったのは珍しいか。
「うん。僕これで明日学校が大雪で埋まっても、最高に幸せだよ」
「――待て。なんで、俺が礼を言うと、雪が降るんだ?」
「じゃあ、僕の喜びでこの地面が今噴火しても本望だから!」
「だから、なんで俺が天災発生装置みたいな扱いになっているんだよ!?」
実は、こいつかなりラセレトやコルギーに毒されてきていないか!?
そう思ったが、俺の前でアーシャルはいつもの花が咲くような笑顔で笑っている。
「ああ――でも、さすがにお腹がすいたなあ」
「もうじき夕飯だからな。そうしたら、ユリカと一緒に食べよう」
言いながら、俺はふと机に置かれている紙包みに気がついた。なんだろう。中を開けてみると、寮のまかないのおばさんが作ってくれていたらしいサンドイッチが入っている。
きっと俺達が昼食の時間になっても帰ってこないことを不思議に思ったコルギーが、残り物で作るのを頼んでくれていたのだろう。
こういう心配りは、さすがコルギーだ。俺にはできない。
二つ入っているサンドイッチの片方をアーシャルに渡すと、嬉しそうに口に頬張っている。
――こいつも、成長期だもんな……
竜と人間で成長の早さが違うとはいえ、うかうかしていると背を抜かれてしまうかもしれない。
それだけは嫌だから、しっかり食べないと。口に大きくサンドイッチを頬張ったが、食べ終わってもまだユリカが帰ってくる気配はない。
「遅いな」
思わず時計を見た。
時計の針が指しているのは、六時。後一時間で門限だ。
――おかしいな。
窓の外を見た。冬の夕暮れは早く、外はもう真暗だ。薄い闇が窓の外を覆い、闇色になった梢を風が渡る音だけが聞こえてくる。
さすがに、もう通りを歩いている人も少ない。それに、俺は首をかしげた。
「アーシャル。あの、ミルッヒって子は、今日どこに行くって言っていた?」
初めて見る都の賑やかさに、楽しくて遅くなっているのならいい。だけど、そろそろ帰ってきてもいい時間じゃないだろうか。なにしろ、学校が始まるほど早くに寮を出たのだ。
さすがに少し遅い気がする。
「うーんと、確か流行の服を売っている店に連れて行くといっていたよ? あと、今一般公開されている離宮の庭とか、珍しい動物のいる公園とか」
「そうか」
――だったら、尚更暗くなったら帰ってきてもよさそうなところばかりだ。
まさか、何かあったのだろうかと眉を顰めた時だった。
突然、寮の一階の扉が大きな音で開くと共に、よく知った女性の声が響いてきたのは。
「リトム・ガゼットとアーシャル君はどこ!?」
寮中に響くような叫びに、俺は急いで階段へと駆け寄る。そして下を覗くと、今話していたミルッヒが真っ青な顔で飛び込んできているではないか。
その声に、一階の奥にいたコルギーも顔を出している。
けれど、ミルッヒは階上にいる俺達を見かけると必死に叫んだ。
「大変よ! ユリカちゃんが行方不明なの!」
「なにっ!?」
言われた言葉に、俺の顔色が変わった。
「どういうことだ!?」
アーシャルも俺の後ろから身を乗り出すようにして、目を見開いてるミルッヒを見つめている。その顔は僅かに歯を食いしばっている。
「わからないわ! 途中の店で、ユリカちゃんに似合いそうなリボンを選んであげていたのよ! そうしたら、突然サリフォン・パブルックが現れて――」
「サリフォン!?」
――あいつ、ユリカに何をした!?
俺の目が限界まで見開く。
「お兄さんのことで少し話があるって言うから、店から出たのよ!」
――あいつ! ユリカに何を言うつもりだった!
だけど、ぎりっと唇を噛んだ俺の前で、ミルッヒは半狂乱のように叫んでいる。
「そうしたら、横の通りに入った途端、白い髑髏みたいな集団に襲われて――!」
拳を握って叫ばれる言葉に、俺の顔から一斉に血の気がひいていく。
――死導屍!
「戦っている中で、ユリカちゃんもサリフォンも行方不明になってしまったの! ごめんなさい、ごめんなさい!」
なんだって?
なんで、あいつらがユリカを襲うんだ!?
――狙いは、俺じゃなかったのか!?
「兄さん……」
俺は隣りで怒りを湛えているアーシャルの赤い瞳を見つめた。その俺の瞳は、これ以上ないぐらいきつく寄せられ、怪談の手すりを持った手が震えてくる。
――ふざけるな! 襲うのなら、俺を狙え!