(1)届いた本
アーシャルがあの後、彼女のペンダントの術を反転させて使い、俺達は学校に戻ってきていた。
さっきまでいた演習場から歩き、学校に戻る道を歩いていく。
「でも、母さんが兄さんのことを知っていたなんて……」
冬枯れの木立の中を歩きながら、アーシャルは肩にかかる小雨も気にせずに爪を噛んだ。
「それで僕にずっと黙っていたなんて、どういうつもりなんだ……」
「うーん、多分なんだが」
俺は、隣りで半分怒った顔のアーシャルを振り向いた。
「もし、お前がその時点で俺のことを知っていたらどうする?」
「そんなの決まっているだろう! 兄さんを殺そうとした奴なんて、地の果てまでも追いつめて、必ず八つ裂きにしてやったさ! どうして兄さんが死んで、僕だけおめおめと平和に暮らしていけるんだ!?」
「うん、だと思った」
母さん、感謝。
――こいつなら、絶対にそうしたよなあ……
目の見えている竜の俺さえ殺そうとした相手に。それは無謀というよりも、最早自殺行為だ。
――うん。俺でもそうしただろう。
そう考えると、母さんがアーシャルの前ではことさら暢気に振舞っていたのは、俺のことを気づかせないためだったのだろう。まあ、生来の性格が陽気だから、そんなに難しいことじゃなかっただろうしな。
「なに、兄さん?」
ほっと緩んだ俺の顔に気がついたのだろう。咎めるようにアーシャルが俺を見つめている。
「いやあ。母さんの判断は的確だったと思っただけだ」
――さすが、お前に似た思考回路。
「そうじゃなくて。さっきから、ひどく機嫌が良さそうじゃない? 自分が殺されそうになっていたというのに」
アーシャルの瞳にどきっとした。まずい、気づかれたか?
けれど、アーシャルは俺の様子を伺うように、小雨の中からじっと俺の顔を見つめている。そんなに見つめたら、さすがに眼光でも穴が開きそうだぞ?
というか、ばれたらまずいからな! セニシェの命と俺の恋模様が一瞬で炎の海に沈んでしまう。
だから、誤魔化すように笑った。
「いや、なんでもないよ?」
「そう? なんか、兄さん。昔からあの魔女と会った後は、やたら機嫌がいいからさ」
うっ、怖い奴。
なんで、俺さえ自覚していなかったこの気持ちに気がついているんだ?
こういう時、この弟の勘と観察力は本当に侮れないと思う。特に俺のことに関しては。
「そんなことはないさ。ただ、一つわかったからすっきりしただけで」
急いで誤魔化した。けれど、本当に、はっきりとしたんだ。
「つまり、相手は俺が竜の時代から、俺の命を狙っていたというわけだ」
――そして、それはセニシェじゃない。
セニシェは大丈夫。
そう思うと、また緩みそうになってしまう頬を慌てて両手で叩いた。
――いかん、いかん。本当に気が緩むと、危険だ。
それにアーシャルが不審そうな目を俺に向けた時だった。
演習場の木立を抜けて、校庭に出ようとしていた俺達の前に、ラセレトが現われたのは。
その手には大きな布包みが抱えられている。
「リトム」
俺を見ると、少し驚いたようだったが、すぐに重そうなそれを脇に抱えたまま近寄ってきた。
「どこに行っていたんだ? もう卒業式は終わったぞ?」
「うん? ああ、もうそんな時間か――」
ずっと緊張していたから気がつかなかった。いつの間にか、時間は昼を回り、本校舎の鐘が一時を告げている。
「これから君の寮に行こうとしていたんだ。ちょうどいい、今時間はあるか?」
「ああ。大丈夫だが――」
「助かった。雨だから、せっかくの本が濡れたらどうしようかと悩んでいたんだ」
「本? ――それなら、今でなくて、別の晴れた日にでも」
また、何か恐怖の教科対策だろうか。ラセレトが持ってくる本で、怖い目には何度もあっているので、つい防御反応が働いてしまう。
もちろん、死導屍とは違う恐怖だが。試験の三日間、眠らずに食事も机に運ばれて特別な教本十冊に縛りつけられた留年対策は忘れられない。
けれど、ラセレトはそんな俺の恐怖の眼差しの前で、厚い布に包んだ大きな本を取り出すと、少しだけその表紙を見せた。
「それでもいいんだが、リトムには一日でも早い方がいいだろう? やっと家から死導屍について記されていた魔物の事典が届いたんだ」
「死導屍の!?」
確かに、以前死導屍に襲われたと話した時に頼んでいた。
そのまま、音沙汰がなかったから、すっかり忘れていたが。
――確かにそれはありがたい。
だから、俺とアーシャルはもう殆どの生徒が帰って、すっかり人が少なくなった校舎へと入った。
そして、人のいない白い教室に入ると、幾つもの席が連なっている長机の上にその布包みを置く。
「遅くなって悪かった。兄が、領地の辺境で出る魔物を掃討するために、そちらの方へ持っていってしまっていたらしいんだ」
「それは、仕方がないが。けれど、かなり大きな本だな?」
これはさすがに重かっただろう。
厚手の布を解いた中からは、黒い表紙に「魔物大全集」と金文字で書かれた巨大な本が出てくる。縦だけで、俺の肩から手首ぐらいの長さだ。それが手を広げてやっと持てるかというほどの分厚さで、どんと磨き上げられた机に置かれた。
「古今東西の魔物の解説書だからな。かなり珍しいものも扱っているいわゆる奇書だ」
――確かに、貴重品ぽい。
表紙が重厚だから、中はそれほど傷んではいないが、めくるページの端が茶色く変わってきていることから、かなりの歳月を感じさせる。
今の印刷技術ではない。おそらく一枚一枚手刷りで作られていた頃に書かれた本なのだろう。
少し古い文字と茶色くなったインクで描かれた魔物の絵と説明をばらばらと捲ると、ある一ページでラセレトがその手を止めた。
「ここだ」
指でさす箇所をアーシャルと共に覗き込むと、確かに見たことのある骸骨が皮を纏っただけのような姿が描かれている。髑髏の形の顔、骨を紙で包んだような手足。間違いない、俺を襲ってきた死導屍だ。
図の横に書かれた解説を見るが、難しい旧字体でよくわからない。
「なんて、書いてあるんだ?」
「死導屍。地域によってグーリエルとも呼ばれる。魔物や死霊使いの術によって作られる死者の躯を使った魔物。その体には毒があり、牙や爪で僅かでも傷つけられると、生きたまま体が腐り落ち死亡する。倒すには、心臓を砕くか超高温の炎で焼くのが有効。しかし群れで襲ってくるため、一体一体を相手にしていると遅れをとる。確実に有効な手段は浄化の炎。また毒の特効薬は清めの水」
「清めの水?」
――それは余程高位の水系術者しか作れない、人界では教会ぐらいでしかお目にかかれないものではなかっただろうか。
「傷口を炎で焼くことでも、確実ではないが毒の進行を止めることはできると書かれている。リトム、その後体の調子は?」
「いや、まったくなんともないが――」
ラセレトの言葉に、俺は自分の袖をまくって左腕を見た。
死導屍に傷つけられて、腐り落ちそうになっていた傷は、今ではその痕さえ残っていない。皮膚は新しいものに張り代わり、痛みどころかあんな大怪我をしていたことさえ嘘のようだ。
「そうか。それなら早かったから、あの処置でもなんとかなったのだろう」
ほっとラセレトの顔が緩んだ。
――心配してくれていたのか?
この記述を読んで。だから、雨の中重いのに、わざわざこの本を持ってきてくれたのだろうか。
それに、いつも俺に勉強地獄を味合わせる親友の顔をじっと見つめた。
「ありがとう」
「そうか。今日はこの後、吹雪が決定だな」
だから素直に礼を言ったのに、なぜそう返してくる!
「待て。俺が礼を言うのは、天変地異の前触れか?」
「そんな天変地異に失礼な。リトムが素直に礼を言うのは、一年に数えられるほどだが、天変地異は世界中を見れば毎月のように起こっている。ただそれを遂に呼び寄せたかと思っただけだ」
「だからなんでお前たちは俺の言葉をいつも素直に受け取らないんだよ!?」
「うむ。それは間違いなくリトムに感化されたからだ」
さすがにそれには言い返せない。
――まったく!
だけどそう思いながら、俺はありがたくその本を借りて寮へと向かった。ひょっしたら、この本をもっと研究すれば、死導屍とそれを操っている奴のことが何かわかるかもしれない。
「ああ……だけど、文字がわかるかな……」
しょぼつく雨の中、布で固く巻いた本を濡れないように抱えながら、俺は読めなかった文字に思わず溜息をついた。
「大丈夫。僕、ナディリオンのところで古書ばかり読んでいたから、多分それも慣れたらすぐに読めるよ」
「ああ――なるほど」
――そういえば、ナディリオンは生きた化石だった。
いや、恩人にそれは失礼だが。しかしうまく言い換えても、生きた天然記念物のレベルだろう。竜の時点で、間違いなくそれだが。
――まあ、なんとかなるか。
アーシャルもいるし。
そう思いながら、街中にある寮の入り口にまで戻ってきたのに。
小雨の降りしきるその手前で、突然見たことのある姿に呼び止められたのだ。
「リトム」
卒業式で人が少なくなっているため、珍しく昼間でもしめられている鉄門の格子を俺が握り、押そうとした時だった。
声に振り返ると、散々サリフォンの横で見た覚えのある顔が、茶色の厚手の外套を着こんで門の横に立っているではないか。
「ウルック」
俺は、先日やっと覚えたサリフォンのおつきの男の顔を嫌そうに見上げた。
突然現われたサリフォンの関係者の姿に、後ろでアーシャルが警戒の色を顔に浮かべているが、ウルックは躊躇せずに俺に近寄ってくる。
「坊ちゃんを見かけなかったか?」
「あいつとなら、朝教室の前ですれ違っただけだ。一緒にいたお前達の仲間の魔術師の方が余程良く知っているだろう?」
つっけんどんに返すと、そのまま鉄の門を押そうとした。
それにウルックの声が追いすがってくる。
「いや、卒業式が終わってから、坊ちゃんはお前を探しに行かれたんだ。旦那様から伝言が届いて、故郷に帰らないのなら、ぜひこの冬休みお前を館に招きたいと仰られて」
――なっ……!
それに息を呑んだ。
「馬鹿なことを言うな! 俺はあいつの家には行かない! 卒業式対抗戦の賭けでそう約束しただろうが!」
「だが賭けは反故になったと聞いた! それならもう一度話して来ると坊ちゃんはお前を探しに行かれたんだ!」
「冗談じゃない!」
――なんで、俺があんな母を捨てた男の許へ行かなければならない!
「とにかく俺はあんな家に行くつもりはないから! サリフォンにもきちんと諦めるように伝えろ!」
やめてくれ。
どうしていつまでも俺に執着するんだ。
この体の本当の出生など考えたくもないのに――
叫ぶようにそれだけを伝えると、俺はアーシャルの手を引いて、急いで寮の門の中へと駆け込んだ。
「リトム!」
呼ぶ声が聞こえるが、雨の奥に振り切るように走ると、寮の玄関の扉を閉めた。




