(6)十倍返しが俺の基本!
俺は、まだ細い雨が降る中に蹲って、こちらを怯えながら見つめているセニシェを安心させるように手を差し出した。
「お前が、俺を助けようとしてくれていたのはわかった」
――よく考えたら、確かに灰色のマントが現われたら、死導屍の動きが変わっていたしな……
あれは、俺を攻撃するために動きを変えたのかと思っていたが、今から考えればセニシェの呪文で動きが鈍くなっていたのだろう。
だから、俺は唇に浮かんでくる笑みを隠さずに、戸惑っているセニシェの顔を見つめた。
「誤解してて悪かった。それで、どうやってカルムの街とここを行き来していたんだ?」
アーシャルの羽根でも瞬時の異動は難しいのに――
俺の声が柔らかくなったことに気がついたのだろう。少し微笑んで尋ねると、やっと彼女は俺が納得したことを理解したらしい。
「あ、これよ」
ほっとした顔で、さっきと同じ水晶のペンダントを差し出す。
「さすがに一度に二つも、いつも身につけるのは大変だから、これにカルムの私の家との直通転移呪文を書いておいたの」
話しながら、水晶を嵌めていた木の枠を撫でる。すると、白い指がなぞるのに従い、水晶の周りに書かれていた黒い文字が光り、しゅんと俺達の周囲が変わる。
今までいた演習場の草木が凄まじい速さで縦に流れていく。中にいる俺達の姿勢は変わらないのに、とりまく光景だけが凄まじい勢いで動く。
次の瞬間、今まで水に濡れた落ち葉の匂いがしていた俺の周りは、干からびた草が幾つも混じる薬の匂いに変わった。
たくさんの薬品が並べられた棚。天井から干された薬草。それに怪しげな占い道具が広くもない店内にところ狭しと並べられている。何度も通ったカルムのセニシェの店だ。
小さい頃からよく見知ったその店を見回し、俺は嗅いだ覚えのある薬草の匂いに頷いた。
「なるほどな」
「本当に、ほかには何も隠していないだろうな?」
その言葉に振り返ると、おおっ、どうやら、アーシャルの手の中の昇焔球もそのまま転移してきたらしい。
今もばちばちと凄まじい音を上げながら、セニシェを見つめるアーシャルの冷たい眼差しの下で輝いているではないか。
「本当よ! 本当に、私が知っているのはこれで全部よ!」
「アーシャル。彼女が言っているのはきっと本当だ。確かに死導屍達は、セニシェが現れたら俺を襲うのが弱まっていた」
俺の言葉に、ふんとアーシャルがそっぽを向く。俺が二人の間に入って、彼女を庇ったのが面白くなかったのだろう。けれど、その持っていた昇焔球はアーシャルの手の平に吸い込まれ、代わりにふてくされた面持ちで腕組みをした。
それに、小さく息をつく。
――まあ、納得してくれただけいいか。
ほっとすると、後ろでセニシェがよろめきながら床から立ち上がろうとしているのが見えた。
「うん?」
よく見たら、雨の中の地面に蹲っていたから泥だらけだ。
それに、俺に追いかけられて転んだ時の傷が、あちこちにある。
足を挫いたのか、引きずりながら立ち上がるその姿に後ろから近づくと、俺は言葉をかけながら肩を貸した。
「手当てをした方がいい。部屋まで送っていこう」
「いいわよ、火竜が――」
「アーシャルだって、隣りの部屋ぐらいで何も言わないさ。そうだろう?」
俺の言葉に、睨んでいたアーシャルが忌々しそうに顔を背ける。
「早く戻ってきてよ」
けれど了承してくれる。
「了解」
――どうやら、セニシェへの疑念は消えたみたいだな。
それでもまだ少し口を尖らせているのに笑顔で返しながら、俺はセニシェの細い肩に手を回した。そして、彼女の柔らかい腕を自分の肩に回させて、手足に赤い血の滲んだ華奢な体を支える。
だけど、まだセニシェはアーシャルに怯えているようだ。
びくびくと後ろを振り返るその姿を部屋から連れ出し、暗い廊下を歩きながら、俺は不思議に思ってすぐ横にいるセニシェに声をかけた。
「それにしても、お前、なんでそんなにアーシャルを恐れているんだ?」
いや、そりゃあ確かにかなり過激な弟だけど。でも、根は甘えん坊で素直だし、話せばわからないということはない――はずだ。
――まあ、俺に関することだけは、ちょっと例外っぽいところはあるが。
しかし、肩を抱きながら反対の手で髪を掻いた俺の言葉に、セニシェは信じられないように俺を見上げる。
お、やっとこっちを見た。
「気づいていないの? あの火竜の魔力は、若い竜の中ではトップクラスよ!? もう少し成長して更に増強すれば確実に竜の中で最強クラスになるわ」
「へー、あのアーシャルが――」
そう言われてもぴんと来ない。
あの暢気な奴が、史上最強クラス――なんだか、世も末だという気分になるのは何故だろう?
「まあ、確かに幼い頃から見えない目の代わりに魔力を使っていたからな……普通よりは強いと思ってはいたが」
「それが魔力を育てたんでしょうね。人間でも、体のどこかの器官がうまく動かないと別の場所が補うために発達するし」
――うーん。あの常識知らずが、いつか史上最強竜。
なんだろう、竜にとって暗い未来しか見えない。
――でも、言われてみたら、迷宮のマームもほかの魔物たちも異様にアーシャルを恐れていたな……
今まで、あの常識知らずの行動に悩まされているんだとばかり思っていた。だから、むしろこの話の方がびっくりだ。
――だけど……
ふと、俺はまだ俺に支えられながら足を引きずっているセニシェを見つめた。
その泥だらけになった服から覗く白い手は、擦り傷で血が滲み、転んだ時に打った膝からも、泥がこびりついた傷口から赤い血が出ている。大きな怪我ではないが、やはり苦しいのだろう。いつも大きな紫水晶の瞳は今は半分閉じられて痛みに堪えている。
そんなにアーシャルが怖いのに、こんな思いをしてまで俺を助けに来てくれたんだな……
――そういえば、あの時も傷だらけだった。
ゆっくりと歩く白い足と手のひらに滲んだ血を見ながら、俺はこの間急にこの店を訪ねた時のことを思い出していた。
あの雪の夜。死導屍に襲われた翌日、俺が人間の父親のことを尋ねたくて急に訪れた夜にも、彼女の指にはたくさんの絆創膏が巻かれていた。
「お前、俺が生まれ変わってからずっと見ていたの?」
だから暗い廊下で肩を抱きながら尋ねた。
「そりゃあ、あんなことがあった後だから、心配だったし――」
戸惑いながら答えるセニシェの白い腕は、それでもしっかりと俺の肩に回されている。それは、さっきまで殺そうとした相手にする態度では絶対にない。
「ふうん。俺は家族以外の女に心配されたのは初めてだ。竜の時も女には縁がなかったしな」
隣りの部屋の扉を開けて、セニシェが普段暮らしているのだろう居間の椅子に座らせようとした。
けれど、それをセニシェは片手で制すると、奥の棚へと近づいていく。そして、棚の奥に置かれている薬瓶を探している。
「水竜は、顔がいいのに自分から惚れないから彼女ができないのよ」
「そんなものか?」
「そうよ。火竜のこともあるからいつも女性には一線を引いているというか――私なんて、付き合いが長いのに、まだ通り名だって呼ぶのを許してくれないし」
そう呟くセニシェの頬は、少しだけ拗ねている。
「いいけどね。どうせお友達以下のお知り合いなんだし」
――こいつ。自分から、それに立候補しておいたくせに。
けれど、俺が名前を呼ぶことを許していなかったせいで、本当は少しだけ、自分にそう言い聞かせていたのかもしれない。
だから、俺は拗ねたように棚の薬瓶を取り出しているセニシェの横顔を見て、思わず笑みを浮かべてしまった。
「リシャールだ」
「え?」
セニシェの手が止まる。
「リシャール・ウォーレイス・アクアル。これが俺の竜の本名だ」
「え? それって確か――」
驚いて、振り返ったセニシェに近づく。そして、その檸檬色の髪を一房持ち上げると、それに唇を落とした。
「えええええええー!?」
やっとわかったセニシェが、全力で叫んでいる。
「いやあああああああ! 火竜に殺される!!!!!」
「いきなり、それか!?」
――どれだけアーシャルが怖いんだ、こいつ!
「とにかく! これは絶対にお前が悪い! 諦めて責任をとれ!」
「ええええ!? いくらなんでも、そんな命がけの恋はしたくないーっ!」
「俺のことが嫌いか?」
「嫌いじゃないけど……」
「だったら諦めろ! 諦めて、俺のことを考えてみろ!」
セニシェに叫ぶ俺自身恥ずかしい気持ちがいっぱいで、捨て台詞のように告げると部屋の外へと飛び出した。
そして、勢いよく扉をばんと閉める。
「えーっ! そんな、水竜!?」
後ろでセニシェが叫んでいるが、扉を閉めた俺の顔も真っ赤だ。
――何をやっているんだー! 俺!?
自分でもわかるぐらい顔が真っ赤だ。熱くて、息も苦しい。
――っていうか、俺ってセニシェに対してそうだったの!?
今まで気がつかなかったから、突然の自分の行動に自分でも驚きだ。
でもよく考えてみたら、やたらと思い当たる節はある。確かに竜の時代から、何か困ることがあると頼るのは彼女だった。
アーシャルに次いで信頼していたといってもいい。
「ああ、つまりそういうこと――」
やっと気がついた。自分が彼女をそう思っていたなんて。
でも、まだ顔の火照りはとれない。
頬を手のひらで一度こすって、自分を落ち着かせた。
そして、人けのない廊下を見つめる。
――まあ、いいや。責任をとらせよう。
何しろ、俺の主義は十倍返し。
それなら、恨みだけじゃなく、恩だって十倍にして返していいはずだよな?
うん。俺の主義を全うさせる。そのためにも、これからどうやって口説くか考えよう。
――見てろ! 真っ赤になって困るぐらい慌てさせてやるからな!
そして焦る可愛い顔を、もっともっと俺の前で見せればいい。
そう思いながら、俺は頬を一度叩いて、何もなかったような顔でアーシャルの元へと戻った。