(5)え、知っていた?
その夜は、凄まじい風雨が体に叩きつけるように吹き荒れていた。
闇の中に照らしたランプの明かり一つでは覚束ない。横殴りに降る雨が、全ての視界を闇の中に隠していく。
けれど、その闇の中をセニシェは黒いマントを身にまとうと、必死に走り回っていた。
暗い。
そして、雨には明らかに水竜の俺の魔力が混じっている。
ただごとではないと、マントをぎゅっと押さえた。そして、ガラスに囲まれたランプの中でも隙間から入る風に揺れる炎をかざして、山の中を必死に俺の体を探す。
魂だけになっていたのなら、必ず体がどこかにあるはず――
だから、さっきまで抱えていた俺の魂とまだ微かに繋がっている気配を辿って、闇の中を走り回る。
そして、見つけたのだ。
目を見開いたセニシェの前で、俺の竜の体は、漆黒の闇の中で切り立った崖の側に隠すように横たわっていた。
闇の中でもわかるその光景に、思わずセニシェが息を飲む。倒れた俺の竜の体は、荒れ狂う雨でさえ隠せないほど夥しい血の匂いに包まれていた。
「水竜!? いやよ、どうしてこんなことに――!」
駆け寄ろうとしたセニシェの足元で血だまりが跳ねた。雨の中でもはっきりとわかるほどの鮮血が、俺の胸から流れ続け、横たわった青い鱗を浸しながら周囲の草に広がっている。
「しっかりして!」
その胸は竜の鱗さえ砕いて、大きく抉られている。
それを見つめて、セニシェは一度頭を振った。
「ああ――違う。魂は私が人間の体に入れたんだから……」
だけどこのままでは死んでしまう。
「血を……血を止めないと……」
必死で、傷口を自分の着ているマントを脱いで押さえようとした。けれども、深く抉られた傷は、とてもマントで足りる大きさではない。押さえても、その奥から次々と赤い血が流れ落ちてくる。
「だめだわ、これじゃあ……」
そして呪文を唱えた。
それなのに、血は止まらず、足ががくがくとしてくる。
「――しっかりしなきゃあ……」
それなのに、血は勢いは弱まってもまだ出てくる。それは人間ならば、確実に致死量になるほど。
そして、虫の息になっていた俺の呼吸は、更に細くなり間もなく止まろうとしている。
それにセニシェの瞳が泣きそうにぐしゃっと歪んだ。
「でも、どうしたらいいの? こんなの――」
呪文も効かない。あまりにも血が流れすぎた。もう、当てたマントさえ真っ赤に染まって、降る雨に吸い込んだはずの血が地面に流れていくほど――
このままだと間もなく死んでしまう。
「死なないで……お願い……」
泣きながら、俺の体に取りすがった時だった。
それまで激しく吹きつけていた風雨が急にセニシェの体にかからなくなったのは。
頬にかからなくなった雨を不審に思い見上げると、夜の中でもはっきりと赤銅色に輝く火竜が金に近い赤い瞳で、闇の中から俺達を見下ろしているではないか。
「私の息子に縋り、泣いているお前は誰?」
響いた言葉に、セニシェは泣き腫らした目でぽつり呟いた。
「息子――水竜のお母さん?」
「そうだ。お前は、この子がよく話していた妖精の血を持つ魔女か?」
「お願い! 水竜を助けて!」
返事をするより先に叫んでいた。
セニシェの必死の叫びに火竜の瞳から殺気が消えた。そして視線をセニシェから外した。赤銅色の首をぐっと下げ、闇の中に横たわっている俺の顔に泣くようにその鼻先を寄せる。
「どうして――こんなことに――」
囁くようにこぼれるその声は、悲痛な色を湛えている。
下げられた首が俺の死にかけた体を抱きしめるように、そっと長い首で俺の姿を包んだ。
「この子の魔力が降らせた雨に胸騒ぎを感じて探しに来たら――まさか、こんなことに……」
閉じた瞼が泣くように震えた。
けれど、ふと首を寄せた俺の体の異変に気づいたようにその顔を持ち上げる。
「この子の魂は――?」
「私が人間の体に入れました。水竜に頼まれて――」
「そう」
セニシェの言葉に頷くと、母さん竜は雨の中で濡れるのもかまわずに見上げ続ける魔女に視線を落とした。
「貴方は何があったか知っているの? この子の身に何が起こったのか――」
けれど、それにセニシェは首を横に振る。
「いいえ。ただ、突然私の枕元に立って頼まれて――魂だけになっているなんておかしいと思って探しに来たら、こんなことに……」
「そう」
それに母さんは体を起こした。
闇の中に、黒い山にも近い巨大な赤銅色のシルエットが浮かび上がる。
「この子の魂を助けてくれたことに礼を言います。でも、このことは他言無用です。自分から魂を隠せなど尋常ではない」
雨の中の赤い影にセニシェは頷く。
「それにこのことをアーシャルが知ったら、どれだけ取り乱すか――絶対に誰にも言わないでおくれ。そうでないと、私はこの子だけでなく、あの子まで失いかねない」
「はい」
「この子の体は私が預かります。大丈夫――決して死なせたりしない。だから、お前も念のため姿を隠しなさい。この子を襲った相手は、竜でさえ殺せる者です」
今のセニシェの話を聞き、俺は瞳を大きく見開いていた。
「母さんが?」
――俺の体が死にかけたのを知っていた?
けれどセニシェはまだ斜め下を見つめながら、ぽつりぽつりと言葉を呟いている。
「だから、心配で……人間に隠れていても、また突然あんなことにならないかって思って……だから、ずっと側で見続けていたのよ……」
だから――と、手の中に、鎖のついた一つの水晶を取り出す。
「もし危険が迫ったらわかるようにこれに術をかけていたの」
話しながら差し出された水晶には、死導屍に襲われている俺の姿が映っている。さっきまで、ここで戦っていた姿だ。それが地面に足を吸い込まれて苦戦している。
しかし、それだと辻褄が合わない。
「待て! じゃあ、なぜ俺を池に突き飛ばしたんだ!? それに西校舎のことも――なんで、あんなところをうろついていた?」
――あれが俺を襲う以外の目的だというのなら、一体なんだ!?
「え? 池? 西校舎? なに、それ。私が来たのは、死導屍に襲われていた時だけで、ほかのは知らないわよ?」
――どういうことだ?
もし、セニシェの話を信じるのなら、それはあの灰色のマントの奴が二人いたことになる。
俺を助けようとしていたセニシェと俺を池に突き落とした奴――
その瞬間後ろから凄まじい放電の音が聞こえた。
「本当か?」
振り返ると、アーシャルが凄まじい目つきでセニシェを睨んでいる。その手には昇焔球が輝き、今にも放たれそうだ。アーシャルの今すぐにも殺しかねない眼差しに、セニシェが必死に叫ぶ。
「本当よ! なんでそんな自殺願望みたいなことをしないといけないの!?」
――だとしたら、やっぱり灰色のマントの相手は二人いることになる!
「アーシャル」
俺は、全身で恐怖を示しているセニシェを助けるように、その前に腕を伸ばして止めた。
そして、まだ震えているセニシェを見つめる。
「じゃあ、お前は死導屍の時、俺を助けに来ていたのか?」
それに、セニシェが震えながらこくんと頷く。
「そうか」
――わからない。
一体俺の過去に何があったのか。
――それでも。
今はただセニシェが俺を憎んでいなかったのが嬉しい。
――そして、ずっと俺を守っていてくれたことも。
ただ、それが唇の端で優しい笑みとなって俺の前にいるセニシェを見つめさせた。