(2)用意は周到に!
「じゃあ、ユリカ。今日は俺達は先輩の卒業式だから、それが終わるまでアーシャルの友達と街でも見学していてくれ」
俺は、朝食を終えたユリカを見つめると、そう笑いかけた。その俺の前で、ユリカは白い手を持ち上げると自分の頭にある臙脂の帽子を整えている。
「うん」
「ここの寮は賑やかだったろう? 昨日はよく眠れたか?」
昨夜寝ていたのは、コルギーがその前日に鍵をつけかえてくれた俺の三つ先の空き部屋だ。卒業生対抗戦の興奮で、昨夜は特に騒がしくて寝にくかっただろうに。それなのに、すっきりと開いたユリカの空色の瞳は微塵もそれを感じさせない。
「ううん。大丈夫よ! むしろお兄ちゃんと同じ屋根の下なんて嬉しすぎて、夢の中でも、お兄ちゃんの部屋を訪ねていたぐらい!」
「あっそう――」
――うーん。これが、昨日婚約した女の子の正常な反応なんだろうか?
俺の理想としては、好きな人と一つ屋根の下なんて――と顔を赤らめて欲しいものだが、どうやら、まだそこにまでは至っていないらしい。
「頼んでいた迎えが来たよ? 彼女は王都の生まれらしいから、女の子好みの店も詳しいし」
だから楽しんでおいでと、昨日までとは違い、アーシャルが穏やかにユリカを見つめている。
「うん!」
それに、振り向いたユリカが元気に頷く。その頬は、心なしか少しだけ赤い。
――うーん。一応、婚約したという自覚はあるみたいだなあ……
だとしたら、俺が心配するほど変な恋愛模様でもないのだろうか?
「あ、でも、知り合いの女性って――」
はっと、ユリカがその顔を曇らせた。
――お、やっぱり婚約者の女性関係は気になるのか?
「その人とお兄ちゃんの親密度は?」
「安心していい。彼女にとって、兄さんは完全に恋愛対象外だから。むしろ近寄りたがっていない」
そう断言する姿に、俺の方がこけてしまう。
「アーシャル!?」
――なんで、そこでそうなるんだよ!?
それなのに、ユリカときたら、がしっとアーシャルの両手を握り締めている。
「さすが私の見込んだ男だわ。私達以外にお兄ちゃんを許さないその姿勢、心から敬服するわ」
「当たり前だよ。どうして僕らが不幸になってまで、ほかの奴らを幸せにしてやらないといけないんだ」
「そうよ、攻撃は最大の防御。常に敵の排除は怠りなくね」
「お前達!」
――なんだ、そのどこかで聞いた騎士道精神のような恋愛関係!
しかも、寮の玄関を開けて迎えに来た姿はミルッヒだった。
――ああ……ここまで、こいつら徹底しているのか……
「じゃあ、お兄ちゃん、アーシャル。行ってきます!」
「ああ。気をつけてね。ミルッヒお願いするよ」
「もちろん。アーシャル君の頼みならまかせて!」
かわいい妹さんねと、完全に関係を誤解しているユリカを笑顔で馬車に乗せていく。どうやらミルッヒはそこそこ金持ちの家らしい。白塗りに薔薇と蔓の華やかな装飾がされた馬車に乗り込むと、その窓から身を乗り出したユリカが見送る俺達に大きく手を振った。
「行ってきまーす!」
そして、馬車と共に王都の広い通りへ消えて行く。
冬の王都の中に小さくなっていくその笑顔を見送りながら、俺は完全に脱力して呟いた。
「アーシャル、お前さ――確かに俺は、お前の信頼できる友達にユリカを預かってもらえるように頼んだが……あの友達は、さすがにちょっと今後交友関係を考え直した方が――」
――どう考えても、色々発想に問題がある気がする。昨日の卒業生対抗戦の解説を聞いていても……
それなのに、アーシャルは心底不思議そうにくりんと目を見開いた。
「どうして? 彼女は大丈夫だよ。だって、兄さんに何の興味もないし」
「いや、だからってな!? そりゃあ、女顔の俺は完全に彼女の範疇外宣言をされたけれど!」
――だけど、あの過激な思考はどうなんだ!? その内、お前本当に側で視姦されるぞ!?
しかし、アーシャルは俺の顔を覗きこむと、ゆっくりと微笑む。
「だって、もし兄さんを狙っている奴なら、何としても兄さんに近づこうとする筈だろう? それこそ、僕を足がかりにしても兄さんの命を狙うために」
その言葉にはっとした。
――確かにそうだ。
相手が俺の命を狙っているのなら、それこそ何を踏み台にしても、俺に近づこうとするだろう。俺を殺すために。
それなら、いつも一番近くにいるアーシャルは、その手段として最適といえる。
「アーシャル、お前、これを考えて……?」
「いや。彼女はただ僕の裸を見てから、仲良くなりたいと宣言してきてくれたんだ。会話に一度も兄さんのことが出てこないばかりか、話題にするとあからさまに嫌そうだから、あーこれは安全な子だなと安心して話ができただけで」
――だから、やっぱりそっちの発想なのか!?
しかも、とんでもない親しくなった理由を聞かされてしまった。
――むしろお前が狙われているという自覚を持て!
そんな相手に自分の婚約者を預けるってどういう状況だよ……
――頼むから、誰かこいつにまともな恋愛関係というものを教えてやってくれ……
聞いている俺の方が頭を抱え込んでしまう。だけど、その前で、アーシャルは俺に向き直ると、内緒話をするように俺の顔を覗き込んで来た。
「それで? 僕はしばらく離れて兄さんを見守っていたらいいの?」
「あ、ああ」
それにやっと俺は、これからの問題を思い出した。
――そうだ。今からが本番だ。
そう気合を入れなおす。
「うん。じゃあ、お前は離れて、俺の様子を見ていてくれるか?」
「了解」
そう言うと、とんとアーシャルの体が飛び上がった。そのまま寮の屋根の上まで飛び上がり、そこから更にふわりと上空に上がっていく。
気がついた目の前の通りにいた何人かが目を丸くしているが、建物の名前を見て納得してくれたらしい。こういう時、やっぱりアストニア大学附属校という名前は偉大だと思う。魔法騎士科は校内では少数だが、それでも世間的な知名度は抜群だ。
――まあ、魔術学校の方なら、目を丸くさえされないんだろうがな……
そう俺は、一度頷くと、寮の部屋に戻り、鍵をかけた。
そして、その階に住んでいる寮生達に声をかけていく。
「アーシャルを探しているんだが、どこかで見なかったか?」
「あれ? さっきまで玄関で一緒に話していませんでした?」
声をかけた後輩が本を抱えながら、不思議そうに振り返ってくる。
「そうなんだけど、忘れ物を取りに戻った間にいなくなっていたんだ。勘違いして、先に学校に行ったのかな?」
ほかの奴にも見かけたら、先に学校に行ったとアーシャルに伝えるように言っておいてくれと、笑って手を振りながら階段を下りていく。
すると、下で寮の雑務をしているコルギーと出会った。今日は卒業式だから、朝からひっきりなしに卒業生の手伝いに走り回っているようだ。
「おお。珍しいな、今日は一人で登校か?」
「ああ。アーシャルが先に行ってしまったみたいだからな。お前は、卒業生の手伝いか?」
「そう! 今になって、卒業式に着ていく騎士服が昨日ので破れているとか小物をどこかに忘れたとかで朝から大わらわだよ!」
それに思わず笑ってしまった。
「頑張れ、次期寮長!」
「この友達甲斐のない奴めー! 俺が寮長になったら、絶対にこの三倍の苦労を味合わせてやるからな!」
「ははっ。楽しみにしているよ」
「え?」
いつもと違う俺の反応にコルギーが固まっている。そして、大きく目を見開いた。
「遂に、そういう趣味に目覚めたかー。苦労も快楽に変えられるから、あの弟といても禿げないんだなあ」
――なんか、すごく失礼な呟きをされている。
だけど、それでやり返されたらそれは、コルギーは俺の命を狙っている相手じゃないということだ。
正直、今の状態では、どんなのでもいいから信じている相手の確証が欲しい。
そうでないと、俺自身がこの疑心暗鬼でだめになってしまいそうな気がする。
だから、わざとゆっくり街の中も歩いた。
寮から学校へはそんなに離れていない。人通りの多い表通りを歩いて、学校に向かう学生達にできるだけ俺が一人の姿を見せる。
「あれ? 今日は一人か?」
「珍しいな。最近、ずっとあの怖い弟が一緒だったのに」
――おい、アーシャル! お前、俺の目の届かないところで何をやっていたんだ!?
何か色々つっこんで訊いてみたい言葉が聞こえてくるが、今は我慢しておく。
そして、正門から校内に入ると、先ず教室に向かった。
「おお、リトム」
するともう登校していたラセレトが、白い教室で俺の姿に少し笑みを浮かべて振り返る。
「早いな。卒業式にはまだ時間があるぞ?」
「どうせ見送りだけだからな」
そう三年来の親友に笑顔で返す。
「そうか。実は、卒業式が終わったら、君に見せたいものがあるんだ。荷物になるから、後で寮にもって行きたいんだがかまわないか?」
「ああ、いいぜ」
それに軽く頷く。
――むしろ来て欲しい。
そうすればラセレトじゃなかったと安心できる。
「ところで、今日はアーシャル君は?」
「それが俺より先に出たんだよ。校内で俺を探していると思うから、俺も今探しているんだが」
「そうか。それは心配だな」
そう、深くラセレトは頷いている。
「ところで、リトム。体は大丈夫か?」
「え?」
その言葉にどきっとした。
このタイミングで訊いてくる、この内容。いや、まさかと慎重に見知ったはずの親友を振り返る。
「なんで?」
「いや、いつも私が寮を訪ねるというと、勉強漬けに盛大に警戒するのにそれがないから。いよいよ、コルギーがいうように、不眠不休の快楽に目覚めたのかと思って」
「だから、お前達は俺のことをどう思っているんだよ!?」
「もちろん。あのアーシャル君の行動を常に許容できるだけの、器の広い男だと思っている」
「あっ、そう――」
「そして強靭な毛根の持ち主だと思っている」
「だから、なんでお前達は、揃って俺が禿げるか観察しているんだ!?」
――まったく!
でも、心ではどこか安心していた。
――ああ。いつも通りのやりとりだ。
きっと、これで違うとわかれば、今までと同じように戻れるのに違いない。
――だから、なんとしてもあの死導屍を操っている灰色のマントの奴を捕まえないと!
そう、俺は少し微笑むと、ラセレトに背を向けた。
「なんだ、やっぱり探しに行くのか?」
「ああ。俺の毛根のために、アーシャルをしっかりと見張っておかないといけないからな」
そう笑顔で手を振ると、教室を飛び出していく。
「リトム」
けれど教室の入り口で、こちらに向かってくるサリフォンの顔を見つけた。
――げっ!
だけど無視して急いで走る。
「待て! リトム!」
――馬鹿やろう。誰が待つか。
ちらりと眼差しだけで振り返ったそのサリフォンの後ろには、例のウルックという男と、以前出会った魔術師が付き従っている。額に汗をかいているから、昨日話していたとおり、学校の校庭を使って火炎攻撃への早朝特訓をしていたのかもしれない。
――うーん。こいつだったら、全てが丸く収まるんだが……
あの魔術師は怪しいがサリフォンはそんなことをするタイプではない。残念なことに、自分の手で俺を切り殺すか、自分の手で俺を嵌めたがるタイプだ。
――そんなところまで、俺と共通点がなくてもいいのに……
いっそ、この魔術師であってくれと思いながら、俺はそのまま駆け出した。
「おい、まだ話を終わっていないぞ! リトム!」
声が急いで追ってくるが、もちろん止まってやるつもりはない。
そのまま朝日に輝く階下に行くと、渡り廊下を越えて本校舎へと逃げ込んだ。
そして、たくさんの先生達が行きかう中を一人で歩いていく。基礎剣術のティーラー先生も、白い騎士服で慌しそうだ。教員室から出てきた姿は、ほかの先生同様正装用の騎士服だが、着慣れた感じを漂わせているのは、やはりそれだけの実戦を積んできたからなのだろう。
あの嫌味で困る教養礼儀学のソンニ教授も忙しそうに、廊下を歩く学長に挨拶をしながら、卒業式が行われる講堂の方へと姿を消していく。
それを見ながら、俺は腰の剣を確かめた。
――大丈夫。これを身につけていれば、いつでもアーシャルと連絡がとれる。
朝、寮で名前を呟いて、アーシャルの剣はもう発動状態にしておいた。俺が鞘から抜いて、一振りすれば、いつでもすぐに上空で待機しているアーシャルにそれが伝わるだろう。
――それに今日は卒業式。
今日を逃せば、生徒は冬休みに入ってしまう。ましてや、寮生は実家に帰ったり、友人の家に招かれたりする。王都で俺を狙うチャンスは、今日を最後に一月近くなくなってしまう。
――だから、狙ってくるとすれば今日の筈。
それを考えて、今日餌をまいてやったんだ! かかってこい! この強力な生餌に!
その俺の前を、たくさんの先生が歩きすぎていく。対抗戦で審判を勤めたリード先生。それに魔法騎士科のエレヴィ教授が通り過ぎていく。
その姿に自分が一人で歩いているのを見せ付けるように歩いた。きっとこの本校舎の外にたくさん集まっている卒業生にも、俺が一人の姿は窓から丸見えだろう。それを計算しながら歩いていると、廊下の曲がった先から現われたナディリオンが俺を見つけて、柔らかい笑顔を投げかけてくる。
「昨日の対抗戦はすごかったね。おめでとう、無事竜の力を使えたみたいだね」
「ナディリオン――」
――そういえば、昨日は、サリフォンから逃げることでいっぱいで、きちんと挨拶もしていなかったな……
「あ、いえ、教えてもらったおかげです。それより、ユリカを預かっていただいたのに、お礼も言っていなくて――」
そう慌てて頭を下げると、ナディリオンが苦笑した。
「何を今更。でも、どうしたんだい? 狙われて危ないからと、最近はずっとアーシャル君が一緒だったのに――」
それに話すべきかと一瞬迷う。
だけど、近づいて来た生徒の一団に俺は慌てて言葉を濁した。
「いえ! ちょっとはぐれただけなんです!」
――あれは、サリフォンの取り巻きのケイラとオリエンじゃないか!
正直言って、最近忘れていたが、俺の中の怪しい奴ランキングでは十分に上位だ。
――あいつら本人に魔力はないが、あいつらの家の財力ならいつでも魔術師ぐらい雇えるからな!
だからここで囮を悟られるわけには行かない。
「すみません。それで今探しているんです! じゃあまた後で」
「あ、ちよっとリトム――」
そう引きとめようとしたナディリオンの声を振り切ると、俺はあいつらの前をわざと走りすぎた。そして校庭へと飛び出す。
そしてできるだけたくさんの人の前を歩いていく。
――さすがに、これだけ歩き回れば、俺が一人のことも知れただろう。
本校舎の前の校庭には、たくさんの卒業生が集まっていた。そして、昨日の対抗戦から来ていたその保護者たちと、卒業生を見送るたくさんの生徒達で、校庭はまっすぐ歩くこともできないほど混み合っている。
――もうすぐ講堂で、卒業式が始まるから。
そうなれば、人けは格段に落ちる。
それを計算しながら、俺は自分が一人の姿を見せ付けながら、ゆっくりと体の向きを演習場の方向へと変えた。
「アーシャル、どこに行ったのかな? まさかすれ違ったか?」
わざとらしく呟いてみたりもする。
そして、たくさんの人たちから離れると、ゆっくりと人の少ない方へと向かった。
校庭こそ人は多いが、自然の野山を模した演習場に好んで来る人はさすがにいない。
いくら、王都の隠れた逢引名所になっていようと、寒いこの時期に、冬枯れの木立で愛を囁こうなんて物好きもいないからだ。ましてや卒業式には関係ない。
すっかり葉が落ちて、寂しい枝を空に向ける木立の中を通りながら、俺は前を睨みすえた。
――さあ、来い!
来れば、必ずその正体を暴いてやる。
腰に下げた剣は、彼方の上空から見守っていることを告げるように、ほのかにアーシャルの熱を伝えてくる。それが俺に勇気を与えて、闘志に火をつけてくれる。
――来い!
ここまで何度も俺の命を狙ってくれていたんだ。その相手が一人で、誰もいない演習場を歩いている。これ以上ないご馳走だろう?
そのまま人けのない道を進み、この間、死導屍に襲われた演習場の奥の池にまで辿りついた。
俺の前で、茶色く枯れた葦の葉が寂しげに水面の側で揺れている。もう、風にさえ擦り切れそうなほど、枯れて乾いた姿だ。
それをじっと見つめた。
いつの間にか、空は曇り、雨が落ちてきそうな空模様になっている。
それに、ふと空を見上げた。
――折角の卒業式なのに……
いや、それよりも、上空にいるアーシャルは大丈夫だろうか? 雨は本来好きじゃないし、それに何よりも火竜だから寒いのが苦手だ。
――あまり、ひどくなるようなら、考えてやらないと。
風邪をひいたら大変だ。
思わず自分の命のことも忘れて、そう空に向かって手を伸ばした時だった。
突然、足元の土が盛り上がると、そこから足首を掴む感触がしたのは。
――来た!
俺は、自分の足首を握るその乾いた白い肌の手を見つめ、薄く笑った。
間違いない、死導屍だ!
――やっと、かかってくれたな? これまでのお返しをたっぷりとさせてもらうぜ?
そう俺は、にっと笑うと、腰に収めていた剣を思い切り鞘から引き抜いた。