(8)魂を迎えに
着いたナディリオンの部屋は、今日も柔らかなミントのお茶の香りが漂っていた。
「待っていたよ、今日の練習は激しかったみたいだね」
そう言うと、ナディリオンは俺の顔についた泥を拭う布を差し出してくれた。
柔らかい布だ。それがお茶と一緒に用意されていて、俺がいつ来てもいいように待たれていた。
――居場所がある。
待っていてくれる。何でもないことなのに、それにすごく安心感を得られる。
――アーシャルには、この安心感がない?
俺の側で。こんなにも近くにいるのに。
渡された綿を編んだ布に顔に当てながら、俺は部屋の奥で昇焔球を作り続けているアーシャルの姿を見つめた。
その手に浮かぶ青白い炎の玉は、この間よりは長く持っているが、まだ赤くなったり黄色に明滅を繰り返している。
ぱんとそれが弾けた。
「ああ! だめだ! 二つ目を作ろうとすると、どうしても不安定になる!」
「気分が魔力に影響しているんだろうね。成長すれば、もう少し安定して制御できるようになるから」
「成長してからじゃあ間に合わないんです! 竜の成人なんて何百年後ですか!?」
うん、取りあえず俺は墓の中だろう。
けれども、腕組みをしている俺の前で、ナディリオンは優しくアーシャルの肩を叩いている。
「そんなに慌てなくても――大丈夫。作り出す一番難しいところまではできたんだから、後はそれを三つ作り出す魔力を体から引き出せるようになれば成功するから」
「後五日! それまでにできるようにならないと意味がないのに!」
「五日って――卒業生対抗戦かい? 確かに魔術学校生は人間にしては強敵だけど、竜の君なら十分に戦える相手だからそんなに慌てなくても」
いや。これって絶対に、王都を火の海に沈めるカウントダウンだよな……
――こいつ。やっぱりサリフォンごと、この王都を壊滅させる気でいる。
予想はしていたが、改めてアーシャルの口から聞くと、唾を飲み込んでしまう。
ごくりという音が、からからになった喉を大きな音をあげて下っていった。
だけど、その前でアーシャルは目の前に持上げた手を見ながら、泣きそうな顔になっている。
「だって、これができないと――また兄さんが僕を置いて――!」
いなくなってしまう。
そんな悲痛な叫びが聞こえたような気がした。
「アーシャル」
――もう、血も繋がっていない俺の弟。
ああ、お前は以前、ユリカに血が繋がっているかもしれないぐらいで大きな顔をするなと叫んだ時点で、この可能性に気がついていたんだな。
――俺とは、本当はもう兄弟ではないかもしれないって。
だから、俺が両親について知った時と同じ辛い気持ちを、ずっと自分の中に抱え続けていた。
――それでも、俺を兄と呼んでくれていたのに。
「アーシャル」
俺は、その姿にゆっくりと近づいた。
それにびくっとアーシャルが顔を上げる。その顔は、また俺に魔術の暴走で叱られるんじゃないかという、幼い頃と同じ顔をしている。
「ナディリオン」
俺はアーシャルの側に近寄ると、その側に立っていたナディリオンをゆっくりと振り返った。
「いつもの魔力の導き――今日は、アーシャルと試してみたいんだけど、いいだろうか?」
「兄さん?」
そう不思議そうに見上げてくる頭を、ゆっくりと撫でてやる。
――ごめんな。ずっと不安にさせていたんだな。
「前にアーシャルが負わせたサリフォンの火傷に触れた時に、俺の水竜の力が出てきてそれを消した。だったら、ひょっとしたら双子で生まれたアーシャルの魔力になら、俺の頑なな竜の力も反応するかもしれない」
「僕の火傷で、兄さんの魔力が?」
初耳のそれに、アーシャルがきょとんとしている。
「ああ。俺の竜の魂に一番深く繋がっているのが、お前だからだろうな」
――ごめんな。もっとうまく言ってやりたいのに。
生来口下手だから、どう話せばお前にうまく伝わるのかがわからない。
だけど俺とお前の絆は、今も切れていないから――
照れくさくて、頬を指で掻くと、目の前でアーシャルの顔が明らかに紅潮した。
「本当に? 今も僕の魂が、兄さんの魂と繋がっているの?」
「嘘を言ったって意味がないだろう? お前だけが、俺と一緒にこの世に生まれてきた存在なんだから――」
ああ、もう! 大事だから、俺以外には絶対に傷つけさせたくないんだと、何で言ってやれないんだ!
でも、どうやら言いたいことは伝わったらしい。
アーシャルの顔に明らかに赤みがさすと、いそいそと横にいるナディリオンを振り返っている。
「僕がやってみてもいい? もし本当に僕が兄さんの魂と繋がっているのなら――」
「そうだね。君の魔力に乗れば、リトム君の魔力も出てきやすいかもしれない」
笑顔で、そう頷く銀の竜を確認して、俺はアーシャルに手を差し出した。
それをアーシャルが強く握り締める。
白い手だ。火竜なのに、ほとんど日に焼けていない。
それに俺よりも一回り小さい。
それなのに、握った時に得られるこの安心感はなんだろう。手のひらの皮膚を伝わってくる少し高めの体温が、ほかの何よりも気持ちいい。
それが俺の心にまでゆっくりと染みこんでいくかのようだ。
「呼吸を合わせて、ゆっくりと血の巡りにのる生気を辿るようにね」
そうナディリオンが、初めてのアーシャルに教えてくれている。
だけど、少しも不安はない。
「はい。いくよ、兄さん。苦しかったら言ってね」
その言葉と共に、重ね合わせた手のひらから、アーシャルの魔力が、じんわりと体の中に染み込んでくる。
いつもの苛烈な炎じゃない。優しい、まるで重ねた手のひらのような温もり。
――アーシャルだ。
よく知っている。小さい頃から、いつも隣に一緒にいた赤い温もり。
それが魔力と一緒になって、手の皮膚から骨へ、そして血液に入ってくる。
――生まれる前から、この魔力に包まれていた。
それこそ、母の胎内で、卵の殻が形作られるよりも前から。すぐ側に、自分と違う火のような気配があって、熱いのに苦しくはなかった。
その灼熱で俺の水の気配を消そうともしない。
ただ冷え切ったそこを、いつもじんわりと温めてくれる。いつも外を冷たく眺めそうになってしまうのに、それに温もりを教えて、熱ささえも与えてくれる弟。
その温かさが、灼熱の魔力と共に、はっきりと体の中に腕を伸ばしてくる。
「兄さん、きつくない?」
初めて潜るそれに、アーシャルが心配そうに薄目を開けて尋ねてきた。
だけどそれにゆっくりと答える。
「大丈夫だ」
少しの嫌悪感もわかない。むしろ、生まれる前の、卵が二つに分かれる前に戻って、もう一度お前を抱きしめているみたいだ。
まだ打ち出したばかりの心臓同士を重ね合わせていたあの頃のように。
その時に感じたのと同じ存在が、ゆっくりと俺の体の芯にある一番深い部分に手を伸ばしてくる。自分の奥で最も暗く隠している中に、自分の魂を探し出すような別の魔力を感じる。いつもなら、がむしゃらになって暴れるところだ。
それなのに、今日はむしろ幸せな気持ちだ。
――アーシャルだ。
別れてから、ずっと無意識にこの存在を探していた。それが今、手を伸ばして暗がりで蹲っていた俺を迎えに来てくれたように思う。
――本当はずっと前に来てくれていたのに。
ごめんな、待たせ続けて。
すっと体の一番深いところに魔力の手が伸ばされてくる。目も眩むような炎のそれを、まるで心の腕を広げるようにして迎え入れる。
「兄さん――」
はっきりと俺の中の何かをアーシャルが掴んだ感触がした。
その瞬間。
――来る!
はっきりと感じた。
アーシャルの魔力が大きく震えている。その脈動と共に、俺の魔力が外に導き出される。
かっと目を開いた。
するとその視界に、たくさんの火が浮かび、それが俺に向かって降り注いでくるではないか。それに気がつけば、手を振っていた。
その先端から、夥しい水の玉がざんと空中に扇のように広がり、その俺に飛来しようとしていた炎のつぶてめがけて注いでいく。殴るように水を浴びせられたつぶてが、空中で次々とじゅっと鈍い音をあげて煙だけになっていった。
「やった!」
目の前で、七色のプリズムを描きながら炎を消したそれを見つめて、思わず俺は拳を握った。
「やったね! 兄さん!」
「ああ、お前のお蔭だ!」
だけど、拳から顔を上げてアーシャルを見て、俺はげっと呻いた。
今ので全部消えたつぶてよりはるか上に、巨大な青白い昇焔球が二つ浮かんでいるではないか。
しかも、今までのと比較にならないぐらい大きい。どう見ても俺の頭なんて軽く越えている。
「お前――それ――」
「ああ。僕も兄さんの魔力に触れた時に、なんだかできそうな気がして。試してみたら、この通り」
――この通りって……
ますます殺傷能力が上がっているじゃないか!
「やっぱり僕の心の支えになるのは、兄さんってことだね」
うんうんと頷いているが、なんでそうなる!?
――やっぱりこれだけじゃあダメってことか!?
なんとしても、サリフォンとの賭けをどうにかしないと。俺は額に落ちてくる汗を感じながら、乾いた笑いを浮かべた。
それでも、その日は二人とも術に成功したということで、寮に戻る途中で、普段は我慢している果実ジュースを買って祝杯をあげることにした。
「これで兄さんも竜の力を取戻したんだね?」
「ああ。まだ昔通りとは行かないけれどな」
だけど、それはこれから練習を積めば、きっと昔と同じように使えるようになるだろう。
「嬉しいな。また兄さんと一緒に色んな魔境巡りができるね!」
「うん。でも、できたら魔境じゃなくて、普通の楽しい場所優先にしような?」
「もちろん、僕は兄さんと一緒ならどこでもいいよ!」
ああ、そういや昔はアーシャルと色んなダンジョンや魔物のところを訪ねていたっけ。すっかり忘れていたけれど、言われて思い出したそれを懐かしく思いながら、俺は二本の瓶を持って寮の扉を開けた。
もうすっかり暗くなった外から入ると、寮の小さな机と椅子を置かれた一階はひどく明るい。
そこで窓の戸締りを確認していたコルギーが扉の音に気づいて、俺たちを振り返った。
「おお、お帰りー」
その笑顔に、思わず一瞬だけ固まってしまう。
だけど、すぐにいつも通りの顔を浮かべた。
「悪い、遅くなった。もうじき夕飯か?」
「んーさすがに遅れなかったか。二人分浮くならと、そろそろくじ引きをしようと思っていたんだが」
「勝手に絶食させるな! 第一、その当たりくじはお前が知っているんだろうが!?」
「んー正解、ばれたか」
ふふんと笑っているコルギーと軽くやりあいながら、ほっとしてしまう。
――ほら、やっぱり気のせいだ。
「ああ、今日お前に手紙が来ていたぞ」
けれど、コルギーはそんな俺の様子には気づかずに、側のテーブルに置いてあった封筒の束を手にとっている。これから寮生に配りに行くところだったのだろう。宛名を確認してその中の一通を取り出した。
「ほら、お前にこれ」
「俺に手紙?」
まさかと思いながら、見慣れた筆跡で綴られた差出人の名前に一瞬瞳を開いた。
「ユリカ――」
「え?」
それにアーシャルが眉を寄せている。その前で、俺は躊躇いながら封を開いた。
そして白い紙を取り出し文字を目で辿る。だけど綴られていた言葉に、思わずそれを強く握り締めた。
「ユリカが――卒業生対抗戦に来る」
「え!?」
側でアーシャルが息を呑んでいる。
だけど、俺を見つめるアーシャルとコルギーの視線にさえ振り返ることができず、俺は何も事情を知らない筈の妹からの手紙を食い入るように見つめた。