(6)話せる相手って悪くない
店を飛び出したまま村の外れまで走っていくと、俺は切れている息にもかまわずに、後ろを追いかけて走ってきた竜を振り返った。そして、出口なのをいいことに叫ぶ。
「竜、すぐに俺をダンジョンに連れていってくれ!」
「いいけどさ」
まだ息が整っていない様子の竜は、荒い呼吸で目を大きく開いている。けれど、驚きながらも自分の姿を大きな紅玉色の竜に変えると、すぐに俺を乗せた。そして、大空へと赤い翼を広げる。
一つ羽ばたくだけで、湖の側の村が足の下で小さくなっていく。
緑の木々が遠くなり、家がすぐに豆粒程度になる。
だけど飛び立ったのが、あまりにも村の近く過ぎて、今になってやっと俺は、見上げている人影がいるのに気がついた。目を大きく開けて、湖の側からこちらを指さしている。その仕草は、明らかに空を舞う大きな影に驚いているようだ。
――竜の姿を見られたか?
それに心がひやりとした。だが、驚いて空を指差している姿さえすぐに蟻ほどの大きさになって、緑の風景の中に消えていく。竜の羽ばたきとともに、急速に小さくなっていく人影にほっとした。
ここまで空高く飛べは、もう弓矢も届かないだろう。
「ふう」
――自分ながら馬鹿か。
頭に血が上りすぎて、この竜までいらない危険に晒すところだった。少し頭を冷やさないと――
俺は、竜の背中の上で足を組むと、目を閉じて、前髪をくしゃっと握った。
空を駆け抜けていく風を体に受けながら、俯いて小さく溜息をつく。すると、その音が聞こえたように竜が声をかけてきた。
「兄さん、どうしたの?」
少し甘えん坊な声が高ぶっていた気持ちを鎮めてくれる。それに、ふと苦笑がこぼれた。
「うん? ちょっとな。悪かったな」
お前まで危険に巻き込みそうになって。
そう思って髪をかきあげながら答えると、竜の背中を安心させるようにぽんぽんと叩いてやる。すると俺の仕草が嬉しかったのか、竜の声が機嫌のいいものに変わった。
「いいんだ。僕、兄さんと一緒に飛ぶのは好きだから」
「そうか?」
「うん。だけどさっきの人たち変なことを言っていたねえ。兄さんの母さんがどうとか」
「ああ」
それに俺は少しだけ落ち着いた頭を、もう一度空の風に晒した。空の風になびく俺の髪は黒髪だが、それは父と同じではない。俺みたいに青みがかかってはいないが、同じ色を持つ母を思い出して、俺はやっと冷静になった頭で呟くように答えた。
「俺の母さんは――昔、奴隷だったんだ」
「え!?」
「小さい頃から踊りを仕込まれて、舞姫としてある貴族の屋敷に売られたらしい。だけど、足をダメにして踊れなくなったから、ほかに売られていくことになってしまったんだ」
今まで誰にも秘密にしていたことだが、人間じゃないこいつになら話しても大丈夫だろう。
驚いて息を呑むことも忘れて聞いているらしいこのお人よしの竜に、俺は言葉を濁しながら、空を見上げて話す。
「まあ、よくある話さ。母は踊りの名人でその館の主人に気に入られていたそうだが、ちょうど飽きてもきていた頃だったんだろうな。体よく厄介払いされることになったんだ。ほかの屋敷に買われればまだいいが、足が悪いのじゃあ二束三文の価値しかない。一生鉱山の重労働か場末の酒場送りか――そんな時に、お屋敷に職人として出入りしていた父が、前から惚れていた母を逃がしてこっそりと匿ったんだ」
舞姫で屋敷内を自由に歩くことを許されていたのが幸いしたらしい。大雨の夜に門番の隙を見て、闇夜の中へ連れ出し、誰にも見つからないようにこっそりと街の城門をくぐらせたのた。
「まあ、あの人のいい父によくそんな大それたことができたよな。奴隷泥棒なんてばれたら重罪。母だって逃亡奴隷と知られたら、間違いなく破滅だっていうのに」
――でも、それだけに、絶対にこのことをほかの誰かに知られるわけにはいかない!
父と母の秘密を暴くものがいるのなら、なんとしてもそれは阻止しないと。サリフォンがどこまでそれを守るかはわからないが、あのがちがちのお坊ちゃん気質なら一度自分から言い出した言葉な以上、俺が勝てば今すぐに吹聴はしないだろう。
だいたい、それで俺を貶めるのが目的ならば、とうに剣術学校で広まっているはずだ。
「だから、父さんと母さんのためにも、絶対に負けるわけにはいかないんだ。今回勝てば、対策を練る時間もできる――だから。ん、どうした?」
なぜかさっきから口数が少なくなった竜の様子に、俺は覗きこむようにして空中にある竜の顔を見つめた。すると、竜は深刻な面持ちで、必死に考えこんでいる。
「兄さんに人間の母さん? え、なんで兄さんに、僕たちの母さん以外の母さんがもう一人いるの?」
「そうか、そうか。お前の頭じゃあ先ずそこが理解できなかったか」
――この野郎! 俺が必死になって今まで隠してきた秘密を初めて告白してやったのにこれかよ!
ああ、今まで深刻に悩んでいたのが馬鹿みたいだよ!
――そうさ。別に奴隷出身じゃなくても、もう生まれを馬鹿にされるのなんて慣れっこになっていた。
剣術学校では、どの身分の者でも入学は可能だが、上手な奴のほとんどは、幼いうちから師匠をつけて学んでいる貴族階級や金持ちばかりだ。それだけに金も身分もない自分が入学試験で首席をとったことに、影でこそこそと言われ続けていたのは知っている。
あんな奴が首席なんて。
はん。卑しい生まれの奴は先生に媚を売るのもうまいらしい。
どうせ親父同様、教師の靴でも磨いて点数を稼いだんだろう。
――言いたいやつには言わせとくしかない。
ふんと小さく息をついて、脳裏に思いだした陰口にそう思いきった。
「そういえば、竜お前の母親は?」
頭を切り替えるようにして、さっきの竜の言葉で気になったことを尋ねる。見たところ子竜だから、どこかにいるのだろうけれど、竜の言葉は歯切れが悪い。
「僕たちの母さん? うん……もう、いないんだ」
「え? あ、すまん――」
しまった。まずいことを訊いただろうか。
だけど、それならこいつがこれだけ兄に執着しているのも理解できる。
「母さん、兄さんがいなくなってすごく悲しかったらしくて――」
「そうか……」
探す無理がたたったのだろうか。それとも、人間の世界に現われてドラゴンスレイヤーに狙われてしまったのかもしれない。
「気分転換に温泉に行ってくるって!」
「そうかよ!」
――真面目に考えた俺が馬鹿だった!
この能天気竜の母親だった。
「でも、兄さん。人間って変なことを気にするねえ」
背中で俺が苦虫を噛み潰していると、今殴りたい衝動を抑えている相手が、空から無邪気な声で話しかけてくる。
「だってさ、貴族でも奴隷でも、僕が手を振り上げたらみんな仲良くぺしゃんこになってしまうのに。なにが違うんだろうねえ」
「ぷっ」
――そりゃあそうだ。
この世で最強の竜の手にかかれば、貴族も奴隷も職人も関係ない。蟻の背比べみたいなもので、全員が仲良くその手の一振りで、ぺしゃんこになるだろう。
なんか、今の竜の一言でずっと悩んでいた生まれの問題が塵ほどの重さしかないような気がしてきた。身分なんて関係ないと言いながらも、母の昔の身分を必死に隠さなければいけないことで、やっぱりそれに気がつかないうちに囚われていたのかもしれない。
それが今の竜の一言で、空に流れていく羽根ほどに軽いものになっていくのを感じる。俺は殴ろうかと振り上げていた拳を広げて、ありがとうという代わりに、優しく竜の鱗を撫でてやった。
それに少しだけ竜が嬉しそうに目を細めるのが見えて、俺も心が温かくなっていく。
「あ、着いたよ」
その言葉に、下を見つめると、そこには古い巨岩をいくつも組み合わせて作られた大きな迷宮が山の谷合いに隠れるようにそのずっしりとした姿を広げている。
「あれが、ダンジョン――」
Sクラスの名に恥じない歳月を感じさせるその堂々たる威容に、俺はただごくりと唾を飲み込んだ。