(1)出口を探す壁
それから暫く、俺はサリフォンを避け続けた。
それなのに、今日も教室を出る扉の前で待ち伏せている。
「おい、リトム」
「うるさい。あの話なら、あれで終わりだ」
後ろから追いすがろうとして来る声に、素早く逃げる。ここ数日、ずっとこんな感じだ。だから正直、アーシャルがいつも側にいて、話す隙を与えないでいてくれるのがありがたい。
今もサリフォンが、こちらを教室の扉の側から眺めているが、俺はそれに背を向けると、急いで次の練習場へと歩いた。
――今は、何も考えたくない。
俺の体が、本当は誰の子供なのか。
この十六年、父さんと母さんは俺のことをどう見ていたのか――
それを考えるだけで、心の底に霜がついたように冷えてしまう。
「兄さん……」
練習場に到着して、準備をしながら無意識に溜息をついていた俺を、横からアーシャルが、心配そうに赤い髪を揺らして覗き込んでくる。
――ああ、心配をかけてしまっているな……
それなのに、どうしたらいいのかわからない。
「あのユリカって子への返事書いたの?」
それが、この間の新年の帰省のことだとすぐにわかった。
「ああ――やっぱり帰れないと返しておいたよ」
こんな気持ちでどんな顔をして、人間の両親と向かい合えばいいのかわからない。
――本当は、俺のことをどう思っていたのかなんて。
そんなことを尋ねても、きっと相手だって答えに困るだろうに。それなのに、心がちょっとしたことで蓋を外して、叫び出しそうになってしまう。
――そんなことをしたって、綺麗ごとの返事しか返ってこないとわかっているのに……
でも、それさえ返ってこなかった時には、どうしたらいいのか想像もつかない。
悩んでも答えなんか出ない。
そう思ったら、また無意識に溜め息が出ていた。
俯くと、コルギーが俺の横で、とんと剣を自分の肩に担いだ。
「よし、じゃあ今からリトムを励ます為に、溜息一つにつき罰ゲーム一回な」
「は?」
言われたことがわからない。慌てて視線をやれば、コルギーの隣りにいたラセレトも、その言葉に顔を嬉々と輝かせている。
「うむ、それは名案だ!」
「え?」
「取りあえず、俺はお前の今日の夕飯でいいわー」
「じゃあ、私はリトムに徹底復習耐久一夜漬けコースで」
「じゃあ、僕は撫でなでー!」
ちょっと待て! 思わず俺は全力で振り返った。
「ふざけるな! なんで落ち込んでいる俺が慰められるんじゃなくて罰ゲームなんだよ!?」
――それにアーシャル! 俺に撫でられるのは罰ゲームなのか!? お前取りあえず便乗したいだけだろう!?
「何を言っているんだ。いつも殺そうと思っても死なないお前が、溜息をつくなんて。天変地異の前触れかと心配させるのが悪いんだ」
「なんで俺が溜息をついただけで天変地異になるんだ!?」
――俺だって、人並みにぐらい悩むわ!
それなのに、コルギーはしれっとしている。
「怖いなー。俺もそんな人間は、初めて見た」
「怖いのは、お前の頭だ!」
だが、俺がコルギーの襟首に手を伸ばした横で、ラセレトが真面目な顔で俺を見つめている。
「なにを言う。私は真面目にリトムを心配しているぞ。だから完徹をさせて、悩むことなく爆睡させてやろうという友情じゃないか」
「そうそう俺も友情ー。腹が減ったら悩みごとどころじゃなくなるだろう? これから毎日頭の悩みをパンに変えてやるから」
「それは絶対に友情じゃない! というか、悩みが一かけらも解決しとらんわ!?」
「えー、じゃあ抱っこは!? 頬ずりは?」
「アーシャル、――うん、俺に対する罰ゲームなのはわかった」
確かに自分の欲望だけ満たそうとしてやがる。――アーシャルも含めて全員。
「いいから、練習を始めるぞ!」
これ以上話していたら、本当に飲まず食わずで、夜通し勉強させられる!
――冗談じゃない!
そう判断すると、俺は急いで練習場の指定された位置に行った。
今日は、今度ある附属校卒業生対抗試合用も兼ねた、魔術攻撃への訓練だ。
合同授業の魔法騎士科の生徒が練習場の両端にずらりと並び、その手前に騎士科の生徒が二手に分かれて剣を構えている。
相手が繰り出す魔術を避けながら、どれだけ向こう側にいる騎士科の生徒と戦えるかという訓練だ。
「後ろからの攻撃は、今回は初級でもできる火炎球に限定してもらった。それをくぐり、またどれだけ援護できるかの合同授業だ」
ティーラー先生の言葉に、周りを見回すと、確かに魔法騎士科の生徒の背の高さはまちまちだ。多分、一年生から三年生までの合同なのだろう。
――だから、アーシャルが一緒だったのか。
そんなことさえ、気づかなかった。
自分でも、おかしいのはわかっている。それなのに、どうすれば、この心にできた迷路を抜け出せるのかがわからない。
「始め!」
ティーラー先生の声に従い、剣を持って走り出す。
後ろからは、魔法騎士科の三年生の名前も知らない生徒が援護をしてくれている。
だけど、走り出した瞬間、斜め向かいにいたサリフォンの顔が目に入った。その顔が俺を見ている。
その瞬間、頭の中に、あの雪の夜といかめしい屋敷の光景が甦った。一瞬で、思い出した記憶が脳の中の全てを鷲掴む。
「リトム! 危ない!」
はっと、反応が遅れた。
隣りのコルギーの叫びに、前を見ると、その瞬間眩しい炎の塊が俺の腹に向かって直撃してくる。
――しまった!
腹に食い込む熱量の勢いで吹き飛ばされながら、俺はくぐもった声と共に叫んだ。
――何をしているんだ、授業の最中だろうが!
しかし、サリフォンの顔を見た途端、心が完全にあの夜のことに囚われてしまった。
そのまま俺の体は、激しく地面に叩きつけられると、砂粒を上げながら後ろへと転がっていく。
体に刺さる砂の小さな棘が痛い。それが体の表面を引っかいて、腹に受けた炎の塊と同じくらい熱い痛みをあげている。
「くっ……」
痛みを堪えて、顔をあげると、俺の向かいの剣を持った騎士科の生徒の奥で、三年の魔法騎士科の生徒が呆然としている。
よく知っている。確か、ジイナンだ。魔法騎士科の三年生で、群を抜いた魔法を使う――だけど、得意なのは防御系だからジイナン相手に、今までこんな失態を犯したことはなかった。
「大丈夫か、リトム!」
「兄さん!」
コルギーやアーシャルが駆け寄ろうとした後ろから、押しのけるような声が響く。
「開けろ!」
その声で、心配そうに駆け寄ってきていた生徒が二つに割れて、奥からティーラー先生が高い背と共に、大またで歩いてくる。
そして、俺の前に立つと、突然鞘に入れたままの剣を俺の顔の前に突きつけられた。
「よう、リトム。最近腑抜けてるな」
「ティーラー先生」
「お前はわかっていると思っていたんだがなあ」
その抜かれていない剣の先から伝わる気魄に、息を呑む。口の中に、無性に唾が湧いて出た。
「春にある魔術学校との恒例対抗戦が普通の学校の運動会だとしたら、今度の卒業生対抗戦は、いわば学校同士の発表会なんだ。招かれる王族や貴族に、どれだけ優秀な生徒を育てられましたかっていうなあ。それで来年の学校の運営費も決まる」
ごくりと俺の喉が嫌な音をたてた。だが、目は、ティーラー先生の一見和やかに見せた灰色の眼差しに宿した鋭さから離すことができない。
「その中で、お前ら在校生枠は、要するに次のスター枠の売り出しだ。それぐらい去年も出たお前なら十分わかっている筈だろう、リトム」
「はい――ティーラー先生」
確かにその通りだ。この試合は、卒業生の送別以上の意味を持つから、学長も教授も必死になっている。ここでの生徒の成績が、そのまま次の生徒達の進路に、そして生活に関わってくる。下手したら、授業料にも。
「だったら、いつまでも腑抜けているんじゃねえ!」
かっと頭から落とされたその大音量に、全身が震えるようだった。
「ここが本物の戦場だったらどうなっていたと思っているんだ!? お前が、内臓を撒き散らして倒れても、誰も助けに来る余裕なんてないぞ!?」
――その通りだ。
大好きな剣だったのに、いつのまにかそれを握っている間さえ、別のことに気を取られていた。
「立て! 一本全力で打ち込んで来てみろ! そしたら、最近腑抜けている理由も聞いてやる!」
つまり、やらなければその瞬間、気を抜いていた制裁決定ということだ。
俺は、ぐっと地面に置いたまま握っていた剣を持ち直した。
そして、砂埃をあげて立ち上がると、そのままの勢いでティーラー先生にむかって振りかぶる。
けれど、その瞬間、先生の鞘から抜かれた刀身が俺の腹を一閃した。
ほんの一瞬。だけど、その刃の峰で打たれていなかったら、確実に絶命していた。
ごほっと腹から息が込みあがってくる。そのまま、そこに蹲ってひどく咳き込み続けた。
「戦いなんてのはなあ」
見上げた先で、ティーラー先生は、太陽の光を背にして、俺に向かって笑いかけている。
「結局魔物相手でも、人間相手でも、汚い命のやり取りなんだ。だからこそ、綺麗ごとじゃなく、早く家に帰ってあの子の胸に顔を埋めてえってぐらい、我が侭な自分の欲望がないと勝てんのよ」
「ティーラー先生……」
「お前が腑抜けてんのが、もし、なんか大切なものを失くしちまったせいなら、残った大切なもんを命の全部をかけて守ってやれ。うん? それが騎士道精神ってものだろう?」
――また、なにか騎士道精神の解釈が自分勝手になっている。
だけど。と、俺は顔を持上げた。
――残った大切なもの。
その視線の先には、アーシャルがいる。そして今も心配そうに俺を見つめている。もう血も繋がっていない俺を、兄として昔と同じ眼差しで――
「はい」
それに、俺は少しだけ温かくなって来る心を感じて、先生の言葉に素直に頷いた。
「よし」
にっと笑われる。
そのおかげか、その後の授業では、三発の攻撃をかわして二撃を対戦相手に与えることができた。
まだ完全に本調子じゃないが、なんだか少し霧の中に光が差し込んできたような気分だ。
――うん。
「兄さん」
授業が終わって、少し心配そうな微笑みで駆け寄ってくるアーシャルを、俺は笑顔で見つめた。
「アーシャル」
「次は、魔法学の特別講義だったね。一緒に行こう」
「ああ」
そう近くに来たアーシャルの笑顔に輝く頭を、軽くぽんぽんと撫でてやる。
「リトム」
だけど、その時だった。
その声に振り返ると、いつの間に側に来たのか、サリフォンがはっきりと怒りを湛えた視線でこちらを見つめているではないか。
またか、しつこいな。
そう思った刹那だった。サリフォンが剣を抜き、陽光に輝く刀身が俺の頭上に煌いたのは。
視界に入った眩しい光に、条件反射で剣を抜くとあわやというところで、その刀身を激しい音と共に受け止める。
「サリフォン!?」
俺は、その剣の先から睨みつけてくる相手の緑の瞳に驚きながら、その怒っている面差しを見つめた。