(3)信じられない!
陽暮れが遅くなるのを、こんなに願ったことがあるだろうか。
小さい頃、陽が暮れるまでカルムの街の噴水で遊んで、帰るのが残念だったことはあるが、嫌だと感じたことはない。
「リトム」
いつもそう笑顔で、噴水の側で遊ぶ俺を迎えに来る父さんがいたからだ。
「あ、とうさんー」
「もう帰ろう。母さんが、料理を作って待っているぞ?」
「うん」
五つ違いのユリカの育児のため、小さい頃はよく父さんが俺を迎えに来てくれた。
俺に向けられる優しい笑顔を見ながら、橙色に染まった石畳の上を歩いて帰るのが好きだった。差し出された広い手は、温かくて。握り返した時に見た太陽の色は、今俺の目の前で空を染めていくものと同じはずなのに――
どうしてこんなにも心が寂しいのか。
「兄さん」
寮の入り口に立ち、窓の外に暮れていく太陽を見上げている俺にアーシャルが近づくと、硬くなっている体にそっと手を添えてくれる。
「僕もついていくよ」
「アーシャル」
かけられた言葉に、俺は心配そうに見上げてくるルビー色の瞳を見つめた。瞳孔の中心は黒く、人に近いが、これだけ至近距離で見つめると、それが赤が深くなりすぎて暗く見えるのだとわかる。
そこに俺の姿を映して、心配そうに揺らめいている。
「そして、僕が兄さんの心を悩ましている存在を、全てこの地上から焼き尽くしていくから」
――うん?
「アーシャル? なんでいきなり抹殺宣言をしているんだ!?」
「当たり前だろう!? なんで、僕以外で兄さんの弟を名乗る不埒者を生かしておく必要があるのさ!? その一族ごと全滅させてやる!」
「ちょっと待ったー! 一族ごとって、そんなことをしたらお前のほうがお尋ね者になるじゃないか!?」
「大丈夫、僕がやったとわからないようにこの王都ごと完膚なきまでに燃やし尽くすから! 兄さんは僕との生活に必要なものだけ心配しておいてくれたら」
なんでそこで新婚さんみたいな文句になるんだ!? しかも、確実に無差別大量殺戮の宣言じゃないか!
「やめろ! 確実にお前が全土のドラゴンスレイヤーの狙いの的になるわ!」
「ふん。ドラゴンスレイヤーが怖くて竜ができるか。僕から兄さんを取るつもりなら、躊躇うことなくその場で丸焼きにしてやる」
「いや、躊躇ってくれ! お願いだから!」
「心配しなくても、今度は生焼けにはしないよ」
「誰が食中毒の心配をしている!? というか、お前それを俺に食べさせるつもりなのか!? 共食いさせて人類とさよなら計画か!?」
「うーん。兄さんを永久に人間から別れさせるいい手だと思ったんだけど」
やめてくれ! どこまでこいつの思考は過激派なんだ!?
「じゃあ、仕方がないから焼くのはやめて、建物ごと外から溶かすで」
「いや、それ側にいる人間の俺も一緒に熱で溶けるからな!?」
「えー」
ひどく不満そうに呟いているが、本気だったのか、こいつ! 本当に昔から容赦のない性格だな。
呆れたが、一呼吸をして、俺は側にいるアーシャルの肩にぽんと手を置いた。
「ありがとう。お前が俺を心配してくれているのはわかるんだ」
でも、だからこそ逃げるわけにはいかない。これは俺の問題だ。
「だけど、心配なんだ。僕も行くよ」
そう言ってくれるアーシャルの気持ちは嬉しい。心配そうな赤い瞳を見つめれば、本当は、何かに縋りつきたかった俺の心が、ぐらぐらと揺れているのもわかる。
それでも、俺はぐっとそのアーシャルの肩に置いた手に力をこめた。
「心配するな。なんで相手がそう思っているのか、ちょっと話を聞いてくるだけだから――」
俺の人間の体のことで、これ以上アーシャルを傷つけるわけにはいかない。
もし話の内容が、俺が思っているようなことなら――きっと俺は、アーシャルに縋りついてしまうだろう。
俺の人間の家族のことで、これまでも嫌な思いをさせてきたアーシャルに――きっと抑えることさえできなくなるほど。
それだけは避けたい。
心の中で呟くと、俺は返事の代わりに見上げてくるアーシャルの頭を、ぽんぽんと撫でた。
「兄さん」
宥める仕草に、困ったようにアーシャルが俺の瞳を覗きこんだ時、立派な四頭だての馬車がこの寮の前に近づいてきた。車輪が止まり、その白く塗られた車体からは、おつきの男性に扉を開けられたサリフォンが降りてくる。
「リトム」
その声に俺は振り返った。
「用意はできたか?」
「ああ」
短く答えると、俺はいつもの外套を纏った姿から、もう一度アーシャルの頭に手を伸ばした。
「行ってくるな」
「兄さん」
優しく撫でてやる。いつもより、少しだけゆっくりと。
そして、手を離すと、俺はサリフォンの待つ馬車へと向かった。
サリフォンのおつきの男性が開ける扉に向かい、白い馬車に乗り込むと、中の座席には深い紫色のビロードが敷き詰められていた。
座席以外には、四角いキルト地の布が張られ、天井の白い板には蔦模様が灰金色で描かれている。さすが将軍家の持ち物だ。庶民の俺では、見たことさえない内装に、わずかに俺は眉を寄せると、中に悠然と座ったサリフォンの隣へと腰を下ろした。
俺が座ったことを、馬車の外からサリフォンのおつきの男が確認すると、扉を閉める音がする。
男が御者と話す言葉がいくつか聞こえたかと思うと、すぐに車輪が動き出した。
窓の外では、寮の玄関で、心配そうにアーシャルが俺を見つめているのが見えたが、それもすぐに動き出した風景の中に消えていく。
がらがらと車輪が回り、俺達が乗った馬車は、王都のよく整備された石畳の道の上を走り出した。
「さて。お前はどこまで知っているんだ?」
突然、横を振り返りもせずに尋ねてきたサリフォンに驚いたが、俺が慌ててその顔を見つめても、視線を前から動かそうともしない。
「知っているもなにも。今でもなんのことを言われているのかさっぱりだ」
吐き捨てるように呟く。
「ふん」
だろうなと鼻で笑われる。
「そうだろうな。今まで三年間見てきた僕の結論とも合う」
その余裕が妙に癪に障る。なんだか悔しくて、俺は膝の上で手を組んだまま睨み続けた。
「どういうことだ……?」
「従者のウルックが話した通りのことだ」
あの従者、ウルックというのかと思ったが、今はそんなことに意識を留めている余裕がない。
「確かに俺の母さんは昔奴隷だった! だからって、それがお前の父親が言う奴隷の娘と一緒とは限らないじゃないか!」
「父が言うには――」
だが、サリフォンは腕組みをした姿勢すら崩さない。
「昔、家に買われた奴隷の舞手に恋をしたそうだ。だが家の者がそれを許さなかった。母の話とも合わせて考えると、家名のために結婚した後も奴隷の娘に執着をし続ける父に、母がかなり怒ったらしいな。よくわからないが、辛く当たる内に奴隷の娘はある夜姿をくらましたということだ。出入りの靴職人の男と共に」
――舞い手の奴隷。母を買った貴族の家。そしてある日靴職人と共にいなくなった娘。怖いほど、自分の母の話そのものだ。
一致する話に、俺は強く眉を寄せてしまう。
「だけど! それだけじゃあ俺がお前の兄という証明にはならない!」
叫ぶとサリフォンが怪訝げに視線を俺に向ける。その顔に、俺は必死で続けた。
「俺の誕生日は九月の十一日だ! そして母が父と逃げたのが十二月の二十二日! 俺が二人の間の子供でも何もおかしくはない!」
昨日の夜、聞きかじっていた知識で、必死に自分の誕生日から計算したのだが、俺が二人の子供ではないという事実は見出せなかった! いや、むしろぎりぎりで、二人の子供と言ってもおかしくはなかった。
「それは僕もお前の誕生日で悩んだ。だが、父には何か確信があるんだろう」
確信?
――そんな筈はない!
もしそうなら、母さんは父さんと逃げる寸前まで、こいつの父の想い人だったということになるじゃないか! 父さんと逃げる約束をしながら――
俺は頭の中で浮かんだその考えに、唇を強く噛んだ。
目を逸らしたが、窓の外の風景では、馬車が王都でも来たことさえない広い立派な道を進み始めている。
今までとは違う大きな屋敷が広い庭の奥に並び、個々の壮麗さを冬枯れの木立の奥に競っている。その一つ一つが、俺からすれば宮殿か大聖堂かと思えるような佇まいだ。
立派な屋敷が並ぶ通りを曲がり、更に王宮へと近づいた一角で、歩みをゆっくりとに変えていた馬車は止まった。
「着いたぞ」
告げられたサリフォンの言葉に、俺は息を呑みながら、窓の外に広がる白味を帯びた灰色の石で造られた三階建ての荘厳な館を見上げた。