(1)嘘だよな?
膝にサリフォンの気を失った体をのせたまま、俺は頭の中に浮かぶ疑問にこめかみをしかめた。
――今、サリフォンが言ったことは何だったんだろう?
確か昔人間の母さんが、台所で一匹見れば三十匹はいると言っていた黒い虫がいたっけ?
俺が箒、ユリカが小さな踏み台を逆さにして持って、棚の後ろに逃げようとするそいつを追いかけ回した記憶がある。確か、あれは気がつかない間に、見えないところでどんどん増えていくと言っていた。
ああ、そう言えばと、俺は膝で倒れているサリフォンを抱えながら考えた。
去年の冬、気がついたらクラスの中で次々と熱を出す奴が増えていったっけ。
あの流行性感冒のように、弟というのも気がついたら増えているものだったかもしれない。うん、咳をしたら空気にのって次々と感染していくように。
「そんなわけあるか!」
――弟が勝手に感染していくものなら、俺の周りは今頃弟だらけだ!
それこそ、周り中弟だらけになって、俺も誰かの弟になっているわ!
そんなことになったら、今度こそアーシャルの火炎が周りに容赦なく襲いかかるのに違いない!
「おい!どういうことだ!?」
そう慌てて倒れたサリフォンの肩を揺すったが、起きる気配はない。
俺は目にかかる黒い髪をかきあげた。
――わけがわからない。
だけど、こいつをここにこのままにしておくわけにもいかない!
辺りを見回すと、日の暮れた学校の敷地は急速に暗くなり、冬枯れの木立が茂る間にはもう不気味な闇が落ち始めている。
それに、頬を打つ雨がさっきより増えてきた。
激しいというほどではないが、絶え間なく降りしきるそれは、まるで白いカーテンのように闇の中に白い糸を広げている。ここにサリフォンをこのまま置いておけば、間違いなく体温低下で死ぬだろう。
「仕方ない!」
さすがにそれは目覚めが悪い。
俺が見ていないところで、勝手に死ぬのならそれもかまわないが、さすがに膝に縋るように倒れている相手を、蹴り飛ばして死なれたのでは、後味が悪くて仕方がない。この上、明日の飯までまずくされてたまるか!
俺は、意識を失ってぐったりとしているサリフォンの腕を背に抱えると、その脇に手を回した。
「う……」
それなのに、サリフォンの奴ときたら、気がつく素振りさえない。
――これは、あれか。
さっき俺が体力の限界まで戦って、意識を失ったように、サリフォンも最後の力を使い切るまで頑張り続けたのだろう。
それなら意識が朦朧として、変なことを口走ってもおかしくはない。
――うん! きっとそうだ!
理由がわかれば、こんな面倒ごとをいつまでも抱えておく必要はない。
今見た限り、サリフォンの体には目立った怪我もないようだし、それならあの毒の心配もないだろうから、さっさと貴族寮に放り込んでしまうに限る。
第一、よく考えたら、そんな朦朧とした意識なら俺のことを本当の兄と間違えた可能性だってある。
――うん、きっとそうだ。
なにしろ、俺に礼を言うほどの精神状態だ。天変地異が起こってもありえなかったことを口にしたのだから、普通の状態だと思うのがおかしい。
――それなら、真に受けるのが可哀想だ。
そう俺は決意すると、サリフォンの腕を抱えたまま、暗く湿った落ち葉の上を歩き始めた。
さすがに、同じくらいの背丈の男を肩に抱えて動くのは辛い。どうしても、サリフォンの足の先を地面に引きずるようになってしまう。
靴の先が地面に散らばった落ち葉を巻き上げて、こいつだって絶対に寝にくいはずなのに、肩の上でぴくりとも動かない。いっそ起きてくれたら、ここに放り出していけるのにと思いながら、俺は人の姿ももうない暗い校内を必死に歩いて貴族寮を目指した。
それなのに、まるで何かいい夢でもみているように、サリフォンは俺の肩にもたれたままその金の髪を揺らしている。
その仕草はまるでアーシャルのようだ。
――いや! 絶対に気のせいだから!
悪い幻覚を見ているのに決まっていると、俺はやっと辿りついた貴族寮の豪華な扉を開けると、驚いている貴族を尻目にそのまま三階への階段を上った。
毛足の長い絨毯が敷かれた階段を上り、金色の車輪の飾りがついた手すりに掴まりながら、サリフォンの体を三階まで抱え上げる。そして奥から二番目の扉をノックもせすにばたんと開けると、中にいたサリフォンのいつもの付き人が驚いた顔で振り返った。
その見慣れた顔を見つけて、俺は安心してサリフォンを背中から床に落とした。ここなら足が沈むような高級な絨毯を使っているから、多少乱暴に投げだしたところで怪我をすることもないだろう。
「坊ちゃん!?」
だが、俺が床に落としたそのサリフォンの意識のない様子に、付き人の男は心の底から焦っているようだ。
「リトム! 何故お前が――」
どさっと投げ出された体に取りすがり、俺を恨みをこめた瞳で見つめているが、生憎そんな目をされる覚えはないぞ?
「校庭で化け物に襲われていたんだ。たいした怪我はしていないようだが、もししていたら火で焼いてくれ。毒があるみたいだから――」
そう伝えると、長い緑の絨毯に埋まる踵を急いで返す。さっさと出て行こう。そう思っていたのに、お付きの男は薄い焦げ茶の頭を持上げると、不審そうに目を寄せている。
「毒?」
「ああ。まあ、傷口がなければ大丈夫だが。俺をサリフォンの兄さんと間違えるほど錯乱しているみたいだし。よかったら、あの治療師に診せておいてくれ」
これだけ伝えれば十分。
そう俺は判断すると、さっさとここをお暇しようと扉へ足を向けた。
「兄? 坊ちゃんがそうお前を呼んだのか?」
それなのに、不穏な響きに足を止めてしまう。
「あ、ああ――誰かと間違えたんだと思うが――」
そう誤魔化すように笑って振り返る。それなのに、お付きの男の厳しい表情が、扉に向かいかけていた俺の足を止めた。
「坊ちゃんは一番上の長子で、兄と呼ぶ相手は誰もいない」
「そ、そうか……。じゃあ、兄と慕うほかの誰かのことかもしれないな」
「坊ちゃんは、お前にどこまで話された?」
――おい、やめてくれ。
それじゃあ、まるで何かあるみたいじゃないか。
嘘だと言ってくれ――
それなのに、口からはまったく予想外の言葉がこぼれ出る。
「どういう……ことだ、よ……」
――おい、聞くな。
絶対に嫌な予感しかしない。それなのに、無意識に動いてしまった俺の唇に、相手の男は更に眉を寄せている。
「両親から何も聞いていないのか? だから町人なのに、騎士になる学校を目指したのだと思っていたのだが」
「どういうことだよ!?」
耐えられなくなって、俺は両手を握り締めたまま叫んだ。
「私はよくは知らん。ただ、旦那様が初恋の奴隷の娘に産ませた男の子に跡を継がせようかと悩んでいるという話を、坊ちゃまから聞いただけだ」
それに俺の顔から血の気が引いていくような気がした。
――奴隷。
その単語が、頭の中で繰り返し流れる。
――まさか!
手の先が震えてくる。それを俺は握りこむこともできずに、目を開いたままただ小刻みに震わせ続けた。