(8)ただ今増殖中?
外は少し時雨れた天気のまま、日暮れを迎えようとしていた。
「寒い」
ホールを飛び出してきたから、外套をそこに置いたままにしてしまっていた。
「まあ、でも寮までだから――」
両腕で体を包みながら、俺は寮への道を歩き出す。
教師用の白い建物を離れると、さっき死導屍に襲われた弓の練習場が左手の遠くに見える。
腰の剣を確かめ用心したが、どうやら今は死導屍どころか人一人いないようだ。枯れた林の木立の中に隠れたそこを慎重に確かめながら、俺はさっきよりもかなり軽くなった心を抱えて、自分の寮へと歩き始めた。
もう外は少し薄暗くなり始めている。
ぽつりぽつりと降って来る雨が、頬に冷たい。
寒くても、空を見上げる気持ちはだいぶ明るくなっている。
――さて、アーシャルになんて話そうかな……
多分、まだ怒っているんだろうな。
わかっている。大切な者を守りたいのなら、たまには素直にならないと駄目なことは。
「うん。とりあえずあいつの頭を思いきり床に押さえつけて、俺の顔を見れないようにしてから――」
そして耳元で謝ろう。
だってそうしないと、きっとまた喧嘩をしてしまうし。
――本当に自分ながら、この意地っ張りな性格はなんとかならないかと思うんだが。
これだけはどうしようもない。代わりに、あいつが許してくれるまで、好きなだけ頭を撫でてやる。
「不器用な兄ちゃんでごめんな」
でも、きっと本当の気持ちを言っても、あいつは絶対に口を尖らせるから。
わかっていても、兄さんとしてこうしたくなってしまうんだと、心をこめて謝ろう。
「うん」
俺は、そう決めると、先ずどうやって怒っているアーシャルの頭を押さえつけようかと、楽しい想像をしながら学校への道を戻り始めた。
少し歩くと、暗くなった林の中から剣戟の音がする。
「うん?」
剣術学校で剣の音は珍しいものではないが、それでも冬の冷たい雨が降る暗がりの木立の中でというのは、穏便ではない。
「なんだ? まさか、誰か決闘でもしているのか?」
それにしても、こんな暗がりで――まさか喧嘩の名を借りた一対多数の闇討ちかと、俺が急いで木立の中へと足を向けた時だった。
枯れた木が黒く伸びる暗くなり始めた敷地で、白い金の光のような髪が動いている。そして、その周囲には真っ白に干からびた皮膚を纏った三体の死導屍が、手足を切り落とされた姿で、その金色の髪の持ち主に襲いかかろうとしているではないか。
俺は咄嗟に剣を抜くと、ぬかるんだ林の中へと走り始めた。
「こんなところで何をやっているんだ!?」
「リトム!?」
暗がりで襲われていた相手が振り返ると、その汗だらけの顔は、いつも嫌味ったらしく俺を見つめているものではないか。
――げっ! サリフォンじゃないか!?
このまま見捨ててやればよかったか、という迷いがちらっと脳裏を掠める。しかし、体の方はサリフォンの後ろに走りこんで、後ろから首を伸ばして襲いかかろうとしていた死導屍の牙をその剣で止めていた。
「なんでお前がこいつらに襲われているんだよ!?」
「知らん! お前がホールから飛び出して行くのが見えたから、なにごとかと思ってつけたらこいつらが現われた!」
「あ、そう――」
――いや! そんな堂々とストーカー宣言をされても困るんだが!?
つい苦虫を嚙み潰したが、サリフォンの動きはもう言葉ほど勢いはないらしい。後ろから見ても、ひどく剣を切り返す速さが鈍くなっている。
「くそっ! こいつら、なかなか死なない! 足を切っても頭を落としても襲ってくる!」
「心臓だ! そこを仕留めれば、こいつらは塵に帰る!」
「心臓!?」
叫ぶ間にも、俺はさらに向かってこようとした死導屍の首元に剣を落とすと、渾身の力で骨を砕く勢いのまま、一気に心臓までを切り裂いた。
それで俺の戦っていた相手が塵に変わっていくのを見て、サリフォンも得心したらしい。一気に剣を後ろに引くと、脇腹から左胸へと死導屍の体を切り裂いていく。
その間に、俺は残るもう一体の死導屍の方へ向き直ると、俺の頭を齧りとろうとかかってくるその体の心臓を引いた剣で貫いた。
石のような感覚が、剣の先から伝わるが、その先で死導屍の体は砂に変わっていく。
地面に散って、全てが細かな塵となって消えるのを見届けるのと同時に、まるで張り詰めていた緊張の糸が切れたように、サリフォンの体がその場にぐらりとくずおれた。
「大丈夫か!?」
さすがに泥まみれの地面に倒れるのを見捨てることもできない。咄嗟に、俺は力を失くしたその肩を両手で支えた。
よく見ると、サリフォンの顔も腕も、まだあちこちの肌が新しい張りなおしたばかりの白いものだ。
そう言えば、こいつも火傷が治ったばかりだったんだっけ?
その体で、俺を追いかけてきて、ここで死導屍に襲われた。
――なんでだ!? あの灰色のマントの奴の狙いは俺一人じゃないのか!?
だが、地面にはおそらく今戦った三体よりも多い死導屍の砂が散らばっている。
もし、俺とほぼ同時にここで襲われたのなら、いくら数が少ないとはいえ、今まで死導屍と一人で戦い続けられたのは、俺と同じ腕のサリフォンだったからなのだろう。
辺りに散らばる砂になった死導屍の名残を見つめていると、俺は先ほどの自分の戦いで、絶望すら感じたことを思い出して、受け止めていたサリフォンの体を、ついぎゅっと抱きしめてしまった。
その二人の上に、静かに冷たい冬の雨が降っていく。
暗がりに散らばる死者の名残に包まれた中で、膝に抱えているサリフォンの体温だけが、枯れた冬の景色の中で、確かに生きているように温かい。
それはサリフォンも同じだったのだろう。今の死闘で力を使い果たしてひどく苦しそうなのに、俺の膝の上では薄く笑っている。
「お前――迷宮の時も、僕を助けてくれたな?」
「あ、ああ――」
そういえば、そんなこともあったっけ。後で、騎士道違反とか色々難癖をつけられたことを思い出して、瞼を開けているのさえ辛そうなサリフォンに、複雑な返事を返す。
「本当は礼を言いたかった。おまけに今回も助けてくれて――」
おいおい、お前が何を殊勝なことを言っているんだよ。
「縁起でもない。お前が俺に礼を言うなんて――」
遺言じゃあるまいし。
「本当だ。それにひどい火傷も治してくれた――」
おい、やめてくれ。本当に縁起でもない。
焦るが、俺へと倒れたままのサリフォンの体はもうどうやら限界だったらしい。
「ずっと、そう……思っていたんだ……兄さん――――」
呟いて、俺の膝の上で力をなくすと、そのまま意識を失ってしまう。
――え? あれ?
兄弟って、ある日突然増えるものだったっけ? 突然のことに瞳をまたたかせる俺の前で、冬の雨は暮れていく世界を、灰色から濃い闇へとゆっくりと染め上げていった。