(2)せめて話を聞いてくれ……
ふと、目を覚ますと、二段ベッドの下に寝かせられていた。
おかしいな。確か、ユリカの手紙の炎を消して、握り締めたところまでは覚えているんだが。
そう思いながら、部屋を見回すと、暗くなった部屋で暖炉の炎が影を揺らめかせながら、室内に置かれた物の輪郭を赤く彩っている。
その前に立って、炎を眺めている人影を見つけて、俺は口を開いた。
「アーシャル」
だけど、その顔は俺が呼びかけたのに、振り返りもしない。
――やっぱり、まだ怒っているのかな。
小さく溜息をついて、部屋の中を見回すと、机の上に置かれた湯気のたっていない夕食と、丁寧につがれた手紙が見えた。
「アーシャル」
端の黒焦げはどうしようもなかったのだろう、手で引き裂かれたそれをどうやら白い紙に綺麗に並べて貼りつけたらしく、つぎはぎのでこぼこは消せなかったが、読めるようにはどうにか戻っている。
それが嬉しくて、少し微笑んで名前を呼ぶと、大きな溜息が返された。
「馬鹿なの?」
悪かったな。確かに、俺は竜の時からお前ほど頭は回らないよ。
けれど、アーシャルの意図は違ったらしい。
「裸に毛布を巻きつけたままの姿で、床で気を失っているなんて。人間は馬鹿だったら風邪をひかないと言われているみたいだけど、わざわざ実験みたいなことをして証明したがるなんて」
「おい。お前、その言い方コルギーやラセレトに毒されてきているぞ?」
どうしよう。俺の友人の毒が、まさか弟にまで移ってしまっているなんて。
けれど、アーシャルは瞳に暖炉の炎を反射させたまま、くるりと振り返る。
「僕、謝らないからね?」
それが机に置かれた破かれた手紙のことを指すのだとわかった。
「あ、ああ――」
そりゃあ、こいつにしたら、自分達以外の俺の家族なんて認めたくないよな。
ましてや、アーシャルと同じぐらい大切にしている妹なんて――
俺が頷くと、アーシャルは無言のまま机に行き、寮の食堂から分けてもらってきてくれていたのだろう。もうとっくに終わってしまった筈の夕食の平たい皿を、俺の前に抱えて持ってくる。
受け取ると、中味はまだほんのりと温かかった。
湯気は出ていないから、きっとアーシャルが焦がさない程度に、何度か温めなおしてくれていたのだろう。うまく煮込まれている野菜の汁が、冷めかけた味で俺の喉を通っていく。
「手の痛みは大丈夫?」
「ああ。魔物の毒が消えたんだろうな。痛いけれど、昼間よりずっと楽だ」
「そう――」
けれど睫を伏せるようにしたまま、アーシャルはベッドでそれを食べている俺を見つめている。
「じゃあラセレトさんが一応本物の痛み止めを置いていってくれたから。それを飲んで部屋から動き回らないこと」
「おい、アーシャル」
そこまではと言おうとしたら、はっきりと睨みつけられた。
「勝手に出て行こうとしたら、僕は火竜の力で部屋の鍵を溶かすからね!」
そう叫ぶように宣言されると、アーシャルは痛み止めをサイドテーブルに叩きつけるように置いて、そのまま二段ベッドを上っていってしまった。
それから、数日間はずっとそんな調子だった。
話しかければ返事をするのだが、全身から不機嫌が漂っている。
まずいな。
まだ包帯はとれていないが、やっと薄皮が張ってきて、自由に動けるようになりだした体で机に向かいながら、俺は後ろで壁にもたれているアーシャルの顔をそっと窺った。
まさか、あの手紙でここまで怒るなんて。
正直、アーシャルの気持ちもわからないではない。勝手にいなくなって十七年近く散々心配させたと思ったら、本人はほかの家族のところで幸せに暮らしていましたでは怒りたくなるのも無理はないだろう。
――ましてや、思い出したのに、やっぱりその家族のところへ戻りたいなんて言われたら。
でも、心配しているユリカの気持ちもわかるし――
「うーん」
俺は小さく呟きながら、椅子の背をゆっくりと傾けた。
すると部屋の向こう側で、壁に背を預けていたアーシャルと視線があった。
――って、お前いつからこっちを見ていたんだよ!
ついさっきまでは、手元にあった教養礼儀の本を仏頂面で眺めていたくせに。
「あ、勉強終わったのか?」
俺はできるだけアーシャルに普通に話しかけた。
「全然」
だけど、アーシャルはその本をぱんと閉めると、こちらを睨みつける。
「相変わらず意味不明なことばっかり。女の人をエスコートする時は手を持てとか、一緒に歩けとか。そんなに一緒に転ぶのを推奨してどうするんだ」
「いや、転ぶことを念頭においてないから」
というより、これは女性が転ばないようにするためのものじゃないのかな?
そうか。男が転んだら、女性も転ぶのか。階段でちょっと見てみたいエスコート図かもしれない。
だけど、取りあえずいつもと同じような返事が返ってきたのにはほっとした。
――うん。いつまでもこのままってわけにもいかないしな。
やはり、ここは後でアーシャルに何でもしてやるとして、今回だけは納得してもらおう。
「なあ、アーシャル。冬休みのことなんだが――」
「嫌だよ」
けれど、あっさりと返されてしまう。
「でも、ちょっと顔を出すだけだから。お前が嫌なら、日帰りで戻ってくるし」
「日帰りって言っても、ここからカルムまでなら、普通の馬車なら二日はかかる距離じゃないか。往復で四日もかけて、僕から離れている間にまた死導屍とかいう化け物に襲われたらどうするんだよ!?」
おおっ! まだ火竜の真紅の目は収まっていなかったらしい。俺の前で、一瞬で色を変えたその瞳に、俺は少し腰が引けながら必死に言葉を探す。
「で、でもな。あの化け物に襲われたのは全部ここの王都だし、それならむしろ故郷の方が安全かもしれないし」
「しれない!? それでまた僕をおいていなくなる気!? その人間の体が、もし死んだらどうする気なんだよ! ここなら、僕もナディリオンもいるのに!」
そのアーシャルの口から飛び出した名前に、つい口を尖らせてしまう。
「お前は、なんでそんなにあいつを信用するんだよ?」
けれど、アーシャルはばんと教科書を横の棚においた。
「そんなの勝手にいなくなったりした前科がないからさ!」
こいつ、完全に嫌なところをついてくるな。
その人の弱みを攻める手口は、さすが俺の弟と内心舌打ちをする。
けれど、アーシャルはそのまま部屋の扉へと向かうと、まだ赤く染まった瞳で振り返る。
「とにかく! もし兄さんが、無理に人間の家族の所へ帰ろうとするのなら、僕はオーガに頼んで檻を作ってもらって、ドワーフの鎖でそこに閉じ込めるからね!」
そう叫ぶと、ばんと扉を閉められた。
―-ああ、もう!
交換条件を出す暇もない。聞く耳を持たないとはこういうことを言うのだろう。
アーシャルが出て行った廊下からは、突然飛び出してきた相手に驚いているような声が響いていたが、すぐにもうじき開かれる寮の送別会の話を楽しそうにしている。
――まったく! 言い出したら、聞かないんだから!
幼い頃から、あの駄々ごねには俺も父さんもどれだけ苦労してきたかわからない。
ああ、イライラする。
――だけど。
と、俺は髪を掻き毟っていた手を止めて、瞳をあげた。
――アーシャルのことも問題だが、取りあえず今は早急にしないといけないことがある!
そう俺は瞳をあげると、数日使うことのなかった剣を持ち、部屋を出た。
そして、木でできた長い寮の廊下を歩くと、ゆっくりと二階の一番奥の扉を叩く。
「はい?」
不思議そうにその音に出てきたよく知る後輩の首元に、俺は突然剣を突き立てた。
突然の輝く刃に、相手がごくりと息を呑んでいるのが見える。
「頼みがある」
「頼み?」
おう、物騒な頼みごとで悪いな。だけど、後で俺の八つ当たりを喰らうよりは多分百倍もましなはずだと、俺は後輩の首元に突きつけた剣の側で薄く笑った。