(1)なんでこうなるんだ!?
ラセレトとコルギーが部屋から出て行くのに、俺は封筒を持ったままの手を振って見送り、扉が閉まるのと同時に、その手紙に目を落とした。
――ユリカ。
故郷で、最後に別れた日の寂しそうな顔が甦る。
母さんが逃亡奴隷とばれたと聞いて、もう二度と俺と一緒に暮らせないのじゃないかと本気で怯えていた。
その心細そうな茶色の巻き毛に彩られた顔を思い出しながら、俺はアーシャルに頭を抱かれたままなのもかまわずに、その封筒を開いた。
『お兄ちゃん。元気ですか』
その書き出しに、目を細める。随分と字が上手になった。
――昔、学校に入ったばかりの頃は、俺が毎日字の形を教えてやっていたのにな……
靴屋で忙しい両親に代わり、店の奥の台所のテーブルに座って、蝋燭の光で毎日教えてやっていた昔を思い出す。
小さな白い手が、慣れない大きな羽根ペンに苦労しながら、必死で俺が書いた字の形をなぞっていた。
その思い出に、自然と口元が綻ぶのを感じながら、俺は目を進めた。
『お母さんのこと、お兄ちゃんのお蔭で口止めができたと聞いて、ほっとしました。
さすがお兄ちゃん!
人の弱みを握る攻め方で、有無を言わさず敵を黙らせる手腕は、お兄ちゃんならではと尊敬しちゃいます。私もお兄ちゃんのように、人の弱みを攻めて明るい光に満ちた人生を歩んでいこうと心に刻みました!』
思わず綻んでいた顔が、頭ごとぐらりと傾いてしまう。
「おい、ユリカ」
お前、どんな方法で人生を歩いていく気だ?
――というか、それは本当に光に満ちた明るい世界なのか?
俺は、ひょっとして大事な愛しい妹に、暗黒世界への扉を開けてしまったんじゃないだろうかと危惧しながら、手紙の続きに目を落とした。
『もちろん、この方法を極めるためには、直接お兄ちゃんから教えてもらわなければなりません。
だって、そうでしょう? 初心者が真似しても恐喝の真似事で、暗黒魔王の極意は得られませんから!
私が今まで見た中で、一番陰険で極悪な笑みのできるお兄ちゃんに、その容赦のない戦術を教えてほしいんです!』
「ユリカぁ!」
――お前の中で、俺の認識はどうなっているんだ!?
『私もお兄ちゃんの妹にふさわしく、カラムの街の大魔女、いえ! カラムの暗黒女王と呼ばれるように頑張ります!』
「がんばらんでいい!」
なんでよりによって将来の夢が、暗黒女王なんだ!
頼むから、学校の作文に将来の夢は暗黒女王なんて書くなよ!? 兄ちゃんも、父さんも学校に呼びだれて、間違いなく家族ごと教師の説教の対象にされるからな!?
いや、そりゃあちょっとカッコいいとは今思ってしまったけれど! でも、できたらお姫様とか花嫁さんとか言ってくれたら、俺は相手の男を半殺しにしても泣きながら力を尽くしてやれるのに!
『でも――そのためには、やっぱりお兄ちゃんに教えてもらわないと』
その言葉に、やっと俺は手紙にもう一度身を屈めた。
『お兄ちゃん。会いたいの。
今度の冬休み、帰って来れないと手紙が来たけれど、本当に大丈夫たったの? お兄ちゃんのことだから、きっと相手に反撃の隙もなく踏みつけたんだと思うけれど、本当にどこも怪我とかしていない?
本当に、無事に元気に暮らしているの?
わかってます。お兄ちゃんが強いのは――
でも、貴族に逆らって 、本当に無事なのかすごく不安なの』
「ユリカ――」
じっと俺はその手紙の筆跡を見つめた。随分と流暢に綴っていた女の子らしい文字が、この辺りから少しだけ震えるようになっている。
『こないだの手紙で、剣士称号試験でお金をたくさん使ったから、今回は帰らないと書いてあったけれど、やっぱり無事な姿を見たいの。お父さんとお母さんも同じことを言っています。
お金は送るから、また新年をいつもと同じように家族で迎えましょうって。
学校が大変なのも、お兄ちゃんが家族を心配してくれているのもわかっています。でも、また家族一緒に暮らせるんだと確かめたいの。
だから、帰省して、いつもと同じように一緒に新年を迎えられるのを待っています。
ユリカ・ガゼット』
俺は、その手紙を読み終わると、便箋を出してもまだ重い封筒の中を覗いてみた。
中には、高額紙幣の一万リルが二枚入っている。
確かにこれだけあれば、ここからカルムの街まで乗り合い馬車で往復することができるだろう。
――安くないのに……
その紙幣に俺は、じっと目を落とした。
いくら父さんの靴作りの腕がうまくて、カルムの街では儲かっている方だと言っても、この学校の学費を毎月捻出するだけでも本当はかなり苦しい筈だ。
それなのに、俺がこの学校を受験したいと言った時も、迷っている母さんを父さんは大丈夫と言って、説得してくれた。
「リトムの生きる道は、リトムが決めるのだから――」
そう、ふて腐れているユリカの頭も撫でて、どうにか認めさせてくれた。
――ユリカ。
心細そうなユリカの震えている文字に、胸の奥が締め付けられるようになってしまう。
小さい頃、そうあれはまだ五歳になる直前だった。
朝からずっと近所のおばさんと産婆のおばさんが慌しく出入りしていた二階の母さんの部屋で、布に包まれたユリカを初めて見たのは。
生成りの白い布に包まれた産まれたばかりの体は、信じられないぐらい小さくて、触れるのも怖いほどの手を必死に握って泣いていた。
「お前の妹だよ」
父さんが抱きながら、俺の前に差し出したその小さな生き物に、俺の目は釘付けになって、手を伸ばすのさえ怖かった。
「いもうと?」
けれど、そんな俺の様子に、父さんは赤ん坊の真っ赤な泣き顔をよしよしとあやしながら、俺の前に屈んで見せてくれる。
「ああ。だからリトムに頼みがあるんだ。今まで父さんは、この両手で母さんとリトムを守ってきた。これからは、もちろんこの子も守る。でも、父さんの手は二本しかないから、もし足りなさそうだったらお兄ちゃんのリトムがこの子を守って欲しいんだ」
それに俺は大きく頷いた。
「うん! 何かあったら、俺が父さんの代わりに守るよ!」
父さんに任された――それもこんなに小さくて可愛いものを。
それが嬉しくて、俺はそっと指の先で、生まれたばかりの妹の指の先をつついたのだ。すると、驚いたように泣いていたのが止まって、俺の指をぎゅっと握り返してくる。
「へへへ」
それに俺の顔が綻んだ。
「父さん、この子なんて名前にするの?」
「そうだなあ。リトムなら、どんな名前がいいと思う?」
「じゃあ、ユリの名前! 外にいっぱい咲いていてキレイだから!」
女の子なんだし、やっぱりそんな風に大きく開く美しい存在になってほしい。
「ユリか。いいな、それ」
そう笑う屈んでいる父さんの側で、俺は小さな指を嬉しそうに握り返した。
――ユリカ……
そんなずっと遠い過去の光景を思い出しながら、俺は手紙の文字を見つめた。
――そうだよな。やっぱりすごく不安にさせていたんだよな。
よく考えたら、サリフォンとの件が収まったことを告げた手紙以来、この間の帰れないという手紙まで何も連絡していなかった。
――正直、アーシャルのことで頭がいっぱいで、そこまで回らなかったというのが本音なんだが……
だけど、それでユリカをこんなに不安にさせているなんて思いもしなかった。
――それに気づかずに、帰省費用分をアーシャルの服につぎこんだし……
一度帰って安心させてやるか、うん。
そう俺は決意すると、手紙から顔をあげた。
「なあ、アーシャル」
それなのに、もうアーシャルは俺の頭に手をおいたまま、ひどく不機嫌そうな顔をしている。
――なんだ、なんだ!? 俺、まだ何も言っていないぞ!?
これは少し要注意状態かもしれないと思いながら、俺は一度唾を飲み込んだ。
「あのさ。冬休みの帰省のことなんだけど――」
当たり障りのないように、そっと切り出してみる。
「嫌だよ」
それなのに、一言で弾かれてしまった。
「いや、まだ何も言っていないんだが」
「言わなくてもわかるよ! その手紙に書いてある通り、冬休みに、兄さんの人間の家族のところに行きたいってことだろう!? そんなの絶対に反対だからね!」
こいつ上から覗き見していたのか!
いや、この頭を抱えられた距離で見るなという方が無理かもしれないが。
でもと、説得を試みてみる。
「いや、でもユリカも心配しているし。ちょっと顔を見せるだけだから」
「だから、その間僕とは他人のふりをしろだって!? 僕から十七年近くも兄さんを奪っておいたくせに図々しい!」
「って、まさかお前、俺の実家にまでついてくる気なのか!?」
「当たり前じゃないか!? なんで十七年も離れていたのに、今更数日も離れないといけないんだよ!」
いや、ちょっと待て!
数日さえ駄目なら、長期休みとかこれから全部つきまとうつもりなのか!?
「いや、でも、な。学校には休みの期間というのがあって、生徒はみんな家に帰るものなんだが」
「僕の服を買った時に、希望者は寮に残れるって言っていたじゃないか」
ああ、くそっ! 本当に物覚えがいいな!
さすが教科書を二日で覚えた記憶力と叫びたいが、今はそれを言っている場合じゃない。
「いや、待て。俺と他人のふりをするのが嫌だと言うのはわかる」
それに、俺がほかの家族と過ごしているのを見るのが嫌な気持ちも。
「だから、その間は、お前は竜の父さんと母さんの所へ帰っているのじゃあどうだ? それなら、お前も嫌な思いをしなくてすむし、その間に俺はちょっとだけ寄ってくるから」
けれど、その瞬間、更にアーシャルの瞳が険しくなった。
いつも黒い中にルビーのような光を讃えている目が、完全に真紅に変わって俺を焼き切るように見つめている。
おおっ――まずい、火竜の本性が完全に出てきたな。
こうなると、簡単には鎮火してくれないが――と、俺が目を眇めた瞬間だった。俺の凭れていたベットがばんと殴りつけられる。
お前、頼むから竜の力を抑えないと、ベットの床板ぐらい簡単に割れるからな?
「帰る帰るって――! それなら、十七年もいた人間のところより、ずっと行方不明で心配をかけた竜の父さんと母さんのところに帰って、無事を知らせる方が先だろう! それなのに、いつまでも人間ばっかり!」
それはそうかもしれん! だけど!
「お前、この間、竜の母さんは俺がいないのにかこつけて温泉めぐりしているって言わなかったっけ?」
どう考えても、深刻に息子の家出を悩んでいる素振りがないんだが!
「そんなの空元気に決まっているだろう!? そりゃあ母さんは楽天家で、豪気な気質だけど、一応兄さんが駆け落ちした時に、相手が悪い人でないといいんだけどと心配していたんだし!」
いや! やっぱり深刻度が低い気がするんだが!?
なんだ、その息子の結婚生活を心配する口調!? どうして、息子の身に何かあったのかとか、そういう発想にならないんだよ!
まあ、俺がセニシェに対してアーシャルにいらん誤解をさせたせいだが。
――だけど、アーシャルの言うこともわからないでもない。
こいつにしたら、竜の家族より人間の家族を優先させるのは面白くないよな。
「じゃあ、先に竜の父さんと母さんに挨拶に行って、帰りにカルムの家に寄るというのは」
それなら、帰り道のついでだし、ユリカを安心させることもできる。
けれど、その瞬間、アーシャルの瞳が真紅から灼熱色に変化した。
――まずい!
そう思うと同時に、ばっと手紙を奪われた。
「だから、その間この手紙の主を安心させるためだけに、僕と離れていろだって!? 僕と離れたその僅かの間に、こんな怪我をして、手を腐らせるかもしれない羽目になったのに!?」
「それは――」
それを言われるとぐうの音も出ない。
「僕がナディリオンに診せたらと言っても全然信用してくれないし! それどころか、僕にさえ話さずに勝手に人間になってしまうし!」
「アーシャル!」
違う! お前を信用していないわけじゃないんだ!
それなのに、興奮したアーシャルの両手はユリカの手紙にかかっている。
「こんなもの――」
そう言うと、びりっと中央から引き裂かれた。その端に、アーシャルの手から炎がついて、オレンジの火焔で燃え上がる。
「アーシャル!」
思わず、俺は必死に叫んでいた。
それに、びくっとアーシャルの手が止まり、中の炎が消える。
その手紙が、ちりちりとまだ端に炎を残したまま、アーシャルの手から床へと落ちていく。
「なんだよ、兄さんなんて――いつだって、自分勝手ばかりで――!」
「アーシャル!」
けれど、そう叫ぶと、アーシャルは駆け出して、ばたんと扉を開けて部屋の外へと飛び出していく。
「待て!」
違うんだ。俺はお前も大事なんだ。
――だから、俺が人間の家族と一緒にいて、お前が傷つく姿を見たくないだけで!
でも、ユリカのことも忘れることなんてできない。
竜の記憶を思い出したからと言って、人間として俺を今まで育ててくれた父さんと母さんを忘れるなんてできないように。
「くそっ!」
追いかけたくても、まだ焼いたばかりの手足は自分の思うように動いてくれない。
凭れていたベッドの側から、体を起こそうとして床に転がってしまった姿で、俺は必死に目の前に落ちていた手紙の炎を右手で叩いて消した。
それは大きな四つの破片になって、端が黒い炭に変わってしまっている。
ところどころ焦げてしまった妹からの文字を見ながら、俺は床を拳で殴りつけた。