(9)乗り越えてみせる!
寮に帰ると、扉を開けた途端アーシャルがコルギーと一緒に青い顔で飛び出してきた。
「兄さん!」
――あ、まずい。
そう思ったが、もうこのびしょ濡れの姿を隠すことはできない。
「どこに行っていたの!?」
「えーと……ラセレトに薬を受け取りに……」
――まずい。アーシャルに傷口を見られて心配をかけたくなかったのに、最悪の事態じゃないか。
どうしようと目が泳ぐが、周りは騒ぎをききつけて来た寮生だらけで、逃げ場がない。
「自分で!? そんなにひどい怪我なのに!」
まずい。どころじゃない。完全に怒りに達しているじゃないか。
「僕がナディリオンを探している間に勝手にいなくなって! コルギーさんから聞いて、どれだけ心配したと思っているの!?」
――助かった! 俺の危機回避能力!
うっかりここであのまま寝ていて、あの変態医者に腕や脚を触られるぐらいなら死に物狂いで歩いてよかった。しかし、さすがに今のアーシャル対して口には出せない。
――なんて、言い訳をしよう。
この上、あの傷口を見られたら。
いや、この分では間違いなく見て炎に油を注いだように怒鳴りつけられるだろう。
どうしようと、俺はちらりとさっき治療という言葉を口に出したラセレトに助けを求めるように視線を動かした。
それを澄んだ茶色の瞳で頷いている。
「すまない、アーシャル。リトムを問い詰めるのは、後にお願いできるだろうか? とにかく今は怪我の治療が先だ。それにいくらリトムでも、冬に全身びしょ濡れでは風邪の可能性を考慮しなければならないかもしれない」
おい。いくらリトムでもとか、ならないかもしれないってなんなんだ?
それだと俺が、普段は全く風邪に縁のない何とかに聞こえるんだが。
――だけど、今の言葉なら治療法があるんだ。
その単語に心の底からほっとした。
今は、体が冷え切ってしまったせいか、さっき程は痛まないが、またあんな全身に鳴り響くような痛みが戻ってくる前になんとかしてしまいたい。
「そういうことなら――」
さすがラセレト。見事にアーシャルの弱点を攻略して、部屋までの道を突破した!
まだ納得していないようだが、渋々頷くアーシャルに頷いて、二階への階段を俺の肩を担いで上がっていく。
「大丈夫か?」
けれど、ラセレトに支えてもらっても階段を上るのに苦労している俺を見たアーシャルが、すかさず反対側から体を支えてくれる。
「冷え切っているじゃないか」
「あははは、水が苦手なお前まで濡らしてすまん」
「そんなのはかまわないけれど」
そんな俺たちの姿を下から興味深々で見上げている後輩たちに、コルギーが指示をして、バケツとモップを持ってこさせている。そして、俺の歩いた後の水を拭いてくれるのを感謝しながら部屋に辿り着くと、俺は二段ベッドの横にどさっと体を投げ出した。
その下のベッドのシーツに、アーシャルが額にかけてくれていた布を落としたままにしていたことに、今頃気がついた。まったく、我ながらどれだけ焦っていたんだ。
「取りあえず、アーシャル君。リトムの濡れた服を脱がして毛布をかけてやってくれ。それと僕にも替えの上着を貸してくれ」
「あ、はい」
戸棚から急いでアーシャルが取り出す間にラセレトは濡れた上着を脱ぐと、シャツだけになって腕をまくる。
その手が、アーシャルに手伝われてどうにか濡れた服を脱いで、毛布を素肌に巻きつけた俺の左腕を持つと、その包帯を短刀で丁寧に切る。
「つっ」
崩れた肌の上を滑る刃物の切っ先に、俺が僅かに目を閉じると、傷口に空気の触れる感触がした。
「これは、ひどいな」
その言葉に、瞳を開くと、毛布から覗く俺のどす黒くなって、腐り落ちようとしている腕を見つめているラセレトが目に入る。
その後ろで、俺の傷口の膿み爛れた腐臭を放つ様子に、アーシャルとコルギーが息を呑んでいる。
――あれ?
だけど、その表情とは逆に、俺はまばたきをした。
――さっきより、膿が少なくなっている?
いや、相変わらずどす黒く変色して、とても見られた肌ではない。
だけど、ほかの健康な肌にまで浸食しようとしていた黄色い膿の粒が少なくなっているような気がするのだ。それに崩れそうなほど爛れていた部分に赤い肉が見える。
――水に落とされたことで表面のが流れたのか?
だとしたら、怪我の功名だ。俺は見つめながら、俺の腕を腐らせるように広がっていたその侵略者の足並みが明らかに減ったことに、小さく安堵の息をついた。
「まだ実家に頼んだ死導屍が載っている本が届かないので絶対的な治療法とは言えないんだが」
そう言いながら、持ってきていた鞄からラセレトが幾つもの薬と短い刀を取り出している。
「取りあえず、魔物の毒は浄化の炎に近い高温の炎で焼けば、その侵食を止められる筈だ。アーシャル君、出せる限り高温の炎を作れるか?」
「あ、じゃあ僕が兄さんの傷を焼けばいいの?」
「ちょっと待て! お前、俺の腕ごと焼く気か!?」
冗談じゃない! それは魔物の毒は止められても、確実に焼死コースだろう!
それなのに、アーシャルときたらにこにこと笑っている。
「大丈夫。僕が二度と兄さんの腕で、ほかの魔物の力が悪さをできないように、こんがりと丁寧に焼いてあげるから」
「おう、完全なローストハンドの出来上がりだな。せめてそれは何かの必殺技の名前にしておいてくれ」
「いやいや、アーシャル君。それは僕が楽しみにしてきたんだから、君はこの小刀を溶ける寸前にまで加熱してくれたまえ」
「――うん、ラセレト。俺はお前に切り刻まれるような恨みを何か買っただろうか」
「まさか。単に貴重な生きた人体を切れる機会に喜んでいるだけだ。さあ、遠慮なくずばっと傷口を任せたまえ」
「誰がすばっと任せられるか!?」
――こいつ! 軍略オタクかと思っていたのに、まさか人体実験マニアか!?
「安心しろ。これはあくまで純粋に魔物戦での人体の影響を知るためだ、損害を計算できなければ、戦いは動かせんからな」
「……そうかい。取りあえず、お前のオタクが常識を外れて深いことがわかってよかったよ」
取りあえず自分の趣味からぶれてはいないようだ。良かったのか、悪かったのか――
「安心しろ。さすがに生きたまま切るのでは痛いと思って麻酔も用意してきた」
「待て。そのハンマーでどうやって痛みを止める気だ?」
俺は引き攣りながら、ラセレトが鞄から出して構えた手のひら大の木槌を眺めた。
「そりゃあ、これで思い切り頭を殴って――」
「やっぱりか!? それで意識を失くして痛みを感じなくなるから麻酔と言い切る気か!? いくらなんでも乱暴すぎるだろう!?」
「そうか。じゃあ、怪しげな薬で超ハイテンションになって、痛みも快楽に変えるという方法もあるが」
「人間やめますか、それとも人生やめますか、みたいな選択はやめてくれ!」
すると、ふうとラセレトは息をついた。
「仕方ないな。じゃあ後は、リトムに我慢してもらうしかないが、かなり痛いぞ?」
「おう。それこそ望むところだ」
少なくとも、脳に後遺症を負いかねない前二つの選択肢よりは、ずっとましだ。
けれども、ラセレトは持ってきていた黒い鞄の口を開けると、中から紐と布を取り出す。
「そうか。まさか君がコルギーが言う通り、そういうのを望む人種とは知らなかった。そこまで期待されているのなら、ざくっと楽しんでもらうしかあるまい」
「おい――」
絶対に今色々意味が変わっただろう!?
そう思うのに、ラセレトは素早く自分の袖を捲くると、紐を手に持って右手を体に縛りつける。
「肉を焼くんだ。舌を噛まないように、これを咥えていてくれ」
その言葉に、俺は文句を言おうと開きかけていた口におとなしくその布を咥えた。
その前で、ラセレトは、短刀を差し出すと、アーシャルの手のひらに上がった白い炎で焼いている。
「アーシャル君、悪いが焼く間は、リトムの右腕が動かないように押さえていてくれ。コルギーは脚を」
そう指示をすると、じっと俺の瞳を見つめた。
「いくぞ?」
その言葉に、頷く。
俺の目の前で、赤く焼けた刃が黒く爛れた肉に当てられる。崩れかけた肉を焼いた瞬間、凄まじい痛みが腕から全身に走り抜けた。
「くっ――」
咄嗟に腕を引こうとするが、アーシャルの竜の馬鹿力がそれを許さない。びくともしない腕に、体が傷口を焼かれていくたびに、逃げようと無意識に動いてしまう。
「おっと」
慌てたようにコルギーが毛布の上から、俺の両足を床に押さえつけているが、苦しすぎて離してほしい。
けれど、短刀の刃は、再度アーシャルの手で加熱を受けると、もう一度傷口に当てられる。
素早く傷口を焼いて、更にその周りに散らばっている黄色い膿の上を撫でていっているが、すさまじく熱い。
じゅっと肉を焼いて、膿が蒸発していく嫌な匂いが腕から広がっていく。台所で嗅ぐようなあんな香ばしい匂いではない。なんとも饐えたような、鼻をつまみたくなるような異臭が部屋に広がっていくのに、俺はくぐもった悲鳴をあげた。
「もう少しだから、我慢してくれ」
――本当に容赦ないな! こいつ!
今度から軍略オタクに研究マニアの名前をプラスしてやる!
絶対にいい意味じゃなくだ!
「兄さん、頑張って!」
それでも、気を失いそうな激痛の中で、意識を保てたのは、それがアーシャルの火だからだろう。俺の肉の表面で繁殖していた魔物の毒を焼き尽くしながら、俺自身の深いところまでは決して熱で傷つけようとはしない。
そうでなければ、腕一面腐り果てているような状態だ。
腕ごと焼け崩れておかしくないのに、焼いたところは表面だけを黒い焦げに変えて、魔物の毒だけを炭にして落としていく。
ぱらぱらと俺の腕から炭化したそれが落ちていくに従い、俺は口に詰められた布の奥でどうしても堪えきれない叫びを上げ続けた。
――痛い。熱い。
灼熱の炎が、俺の体を這っていくのが苦しくてたまらない。
体の奥から干からびてしまいそうだ。
逃げようとする腕を、必死にアーシャルが押さえている。その顔は、暑いはずもないのに汗を浮かべて、ひどく心配そうだ。
――ああ、ごめんな。情けない兄さんで。
その瞬間、一瞬何か似たようなことを言った記憶が頭の中で閃いた。
――ごめんな。情けない兄で。
嵐の夜に、竜の姿で雨で霞む視界の中を飛びながら思ったあれは、なんだったのだろう。
けれど、頭の中の朧なそれを掴むよりも早くに、更に足に灼熱の痛みが襲った。
「くうっ!」
限界まで目を歪めた。
「もう終わりだ。ここさえ焼いたら完全に終わるから」
そう言うと刃の先端でゆっくりと足に浮かび始めていた黄色い粒を焼いていく。
けれど、それは腕よりも早くに足から離れた。
「ふう」
ラセレトの大きな息に目を開けて見ると、腕の表面は完全な黒い炭となり、その下から赤い肉が所々覗いている。さっきまで、腕を覆っていた溶けたような肌と崩れた肉はなくなり、黄色い膿は全て焼かれて醜い黒い塊になってしまっている。もちろん、足に浮かび始めていた黄色い膿もだ。
「これで取りあえず毒素は焼けた筈だ」
本当だ。俺は、アーシャルに離された手を動かしてその痛みに、頬を緩めた。
もちろん、まだ痛い。
表面を焼かれた腕はひきつるように痛いし、少し空気に触れただけでずきずきとする。足だって、ひどく打ちつけたように痛みが止まらない。
それなのに、さっきまで感じていた体の内側にまで響いてくるような凄まじい痛みはなくなっている。
俺は口に咥えていた詰め物を右手で取って、緩んでくる唇を我慢できずに、その動く手を見つめた。
握っても、開いても、腕が擦り傷まみれになったような痛みしか感じない。
――生きている痛みだ。
治る痛みに変わったのが、心の底からありがたい。
「ありかとう、ラセレト」
「礼ならコルギーに言ってくれ。君の様子がおかしいとわざわざ貴族寮にまで来て、薬以上の治療法を頼まれたんだ」
「コルギー」
いつもお茶らけてばかりいる友人を俺はじーんと眺めた。
やっぱり持つべきものは、友達だなあ。
「いやあ、よかったぜ!」
そうコルギーは元気になった俺の背中をばんばんと叩いている。
毛布越しとはいえ少し痛い。
けれど、苦笑して礼を言おう。
「コルギー」
「だって今日服屋の女将が来た時に、卒業生の送別会用のお前のドレスを頼んでしまったからな! せっかく予算を奮発して花嫁衣裳にしたのに、これで花束を持って歩けなくなったらどうしようかと思ったぜ!」
前言撤回。
「お前、まだ俺にヒロイン役を押し付けるのを諦めていなかったのか!?」
「現在得票率、全寮生の五分の二に達しているお前を外すなんてできないだろうが? 安心しろ、先輩方には、灰色の学生生活の最後の彩りにしてやるから」
「確実に真っ黒に塗り替えているわ! 何が悲しゅうて、送別会に男の後輩から女の格好をして花束をもらわにゃならん!」
「それが寮の伝統なのですー。灰色をより暗くして、いっそ闇にしてあげれば、後で見る花はどんなに地味なものでも可憐で光輝いて思えるという人生への生きた教訓なのですー」
こいつ、本気か!?
「冗談じゃない!」
立とうとして、俺は足がまだ治療したばかりだったのを思い出した。
「危ない!」
さっと逃げたコルギーに対してこけかけた俺を、アーシャルか素早く横から支えてくれる。
「まだ無理したらだめだよ! 今、治療したばかりなんだから――」
「あ、ああ。すまん」
ひどく心配そうに俺に手を伸ばす姿に、素直に頭を下げた。
それに、ラセレトは持ってきていた道具を鞄に戻すと、窓の外を見て、帰り支度を整えている。
「そろそろ寮の門限になるから戻るが、リトム、くれぐれも無茶はするなよ? アーシャル君よろしく頼んだよ」
「はい、任せてください」
そうにこにことアーシャルは俺の頭を上から抱えている。
おい。重い。だけど、腕と足が駄目だから、こいつなりに配慮した結果がこの甘え方なんだろうな。
それに、一緒に部屋を出ようとしていたコルギーが思い出したように、着ていた上着のポケットを漁った。
「そうだ。ばたばたしていて忘れていたが、お前に手紙が来ていたんだ」
「手紙?」
それに、俺はきょとんと答えてしまう。
「ああ、故郷から来ていたぞ? もうすぐ冬休みだからじゃないか?」
そう差し出すコルギーの手から封筒を受け取り、ひっくり返して差出人を見て驚いた。
「ユリカ……」
綴られていた妹の名前を呟いた瞬間、俺の頭を抱えて一緒に封筒を覗きこんでいたアーシャルの瞳の色がはっきりと変わった。