(8)負けられるか!
自由に手足が動かせない。
水の中に突然背中から落ちたせいもあるが、足に履いたままの靴や身につけた服がひどく重く感じる。
苦しい。
呼吸を溜める暇もなかった。
うっすらと開けた先で、明るい水面はどんどんと遠ざかり、自由に動く右手を伸ばしても、もうそこには届かない。
喉からごぼっと息がもれた。
それが水面から差し込む光に僅かに輝きながら、青い天井へと上っていく。
息ができない……!
だけど、それ以上に、手足にすさまじい冷たさが襲ってきた。当たり前だ。冬の水だ。しかも陽が落ちて、かなり冷えてしまった水は、容赦なく俺の全身をその凍りつくような寒さで包んでくる。
服の繊維の隙間から入り込んで、包帯の下にまで浸み込んでくる。それが俺の開いた傷に浸み込んでいく鋭い感覚を感じて、俺はやっと突然の事態にどこか呆然としていた頭を水の中で振った。
――冗談じゃない!
黒い髪が水の中で揺れる。
なんで、こんなところでおとなしく死んでやらなければならん!
だいたい水竜を溺死させようなんて、馬鹿にするにも程がある!
そう口からこぼれていく泡を見ながら、俺は必死で右手を動かした。
池の水面は、ひどく遠く思える。
さすが、橋のない戦場で川を渡る演習に使われている池だ。見た目よりずっと深いが、俺はその遠くにある青い水面に向かって必死で手を伸ばした。
――絶対にこんなところで死んでたまるか!
そう思う力が原動力になったのだろう。さっきまで、歩くだけでも苦しかったのに、水の中では嘘のように体が動く。
今も布地の隙間から、水が容赦なく傷口に浸み込んで来るが、さっきまでの動くのさえ苦痛な痛みに比べたら、ずっとましな方だと言える。
やはり水なのが大きい。
ごぼっと息を一つ吐き出すと、俺は無事な右手で水をかいた。そして、動く左足で水を蹴る。いつもの泳ぎに比べたら、無様なほどの動きだっだか、それでもどうにか動かせる範囲で左手をも動かして、右手で水をわけるようにすると、池の底近くから水面を目指し出す。
さっきまでより楽に脚が動いてくれる。
やはり、水の中の方が体を動かしやすい。
これは俺が、元水竜だからなのか――
わからないが、ここで死んでしまうことだけはできない!
必死に暗くなっていく水をかく視界の奥で、アーシャルとユリカを思い出した。それに故郷の街にいる懐かしい父さんと母さん。竜の父さんたちにだってまだ家出してから話していないのに、このまま誤解されたまま死ねるか!
それなのに、人間の体はどんどん息が苦しくなってくる。
――くそっ! あともう少し!
全身の力を使い果たすつもりで、思い切り両足で水を蹴った。傷ついている右足がうまく俺の思う通りに動いてくれるかが不安だったが、どうにか深い水を目掛けてうまく前に蹴ってくれたらしい。
水面に浮かんでいる木の葉に手が近づいて、指にそれを張り付かせたまま、ざぶんと水から手が飛び出した。
ついで、頭と肩が空気に晒される。
酸素がおいしい。
水に浮かんだまま、俺は黒い前髪から滴る水にもかまわずに、大きく息を吸った。
――助かった。俺が元水竜で、泳ぎの達人でなかったら絶対に溺れ死んでいた。
こんな冷たい水。余程泳ぎを訓練された人間でなかったら、落ちた瞬間に心臓麻痺を起こして身動くこともできなくなるだろう。
それでも、まだ心臓が殺されかけた恐怖にばくばくと大きな音をあげている。
それを俺は、岸辺に近い丸太にしがみついて、呼吸を整えながら聞いていた。
だけど、その俺の前に、一本の白い手が夕闇の中から差し出される。
薄暗い中に浮かぶ白い指に、俺は思わず身を強張らせた。
――まさか! あのお化けがまだここにいたのか!?
けれど、急いで振り仰いだ先では、ラセレトが亜麻色の髪を沈んでいく夕闇の中に輝かせて俺に手を差し出していた。
「どうしたんだ。こんなところで寒中水泳でもないだろうに」
その澄んだ茶色の瞳の、いつもと同じ冷静な顔にほっとした。
「ああ――俺も泳ぎたくはなかったんだがな」
そう言うと、差し出された手をとる。それを握って、ぐっと水の中から体を持上げると、池の周辺の泥で体はすっかり汚れ、水面に浮かんだ木の葉まみれになっている。
「泳ぎたくないのに、泳いだ? 君は、水風呂が好きで困るとコルギーがよくこぼしていたが、遂に氷点下まで目指しだしたか?」
「違う! 突き落とされたんだ! 頼むから、コルギーの異常性癖捏造にのるんじゃない!」
――いや、熱い湯より水風呂が好きなのは本当だが。だからってこんなところで、氷点下を目指していたら、それは間違いなく変人だろう!?
「わかっている。面白いから、もし人体実験できる機会ならとちょっと尋ねてみただけだ」
「人体実験――」
なあ。頼むから、お前たち本当に俺の友達だよなあ。
「で、殺されかけたって誰にだ。穏便な話じゃないな」
「ああ、絶対に穏便じゃないよ」
――穏便であってたまるか!
そう、俺は右手で服の裾を絞りながら、声に力をこめた。
殺されかけて、俺死にかけましたー、まあーこわーい、きゃっきゃっうふふなんてしていたら、俺は絶対にそいつの正気を疑ってやる!
そう、軽く握っただけで手の中から流れる水を更に潰すように、俺は服を絞る手に力を込めた。けれど、ラセレトは、そんな俺に冷静に訊いてくる。
「どんな奴だ?」
「わからん! マントで顔も何も見えなかった。ただ、この間の西校舎のお化けということしか――」
「西校舎のお化け?」
そこで、俺はやっと絞っていた服から顔をあげて、ラセレトを見つめた。
「そういえば、ラセレトは何でここに? 近くで誰か不審な人影を見なかったか?」
けれどそれにラセレトは、夕闇の中でいつもと同じ茶色の澄んだ瞳を開いている。
「いや、私が来た時には誰もいなかったよ」
「そうか――」
――まあ、空に浮かんで逃げられる奴だからな。
そう納得する。
「それに、ここに来たのは、いつまで待ってもリトムもアーシャル君も来ないからだ。私に薬を頼んでいただろう?」
それに、やっと俺は最初自分が何故この人通りの少ない道を通っていたのかを思い出した。
「だから、これは、ひょっとして私が思っているより相当悪いんじゃないかと思って、今寮に行こうとしていたんだ」
「あ、ああ。そうか」
そういえば、頼んだのは昼前だった。
ミミズのような文字で書きなぐって、後でもらいに行くとベッドで後輩に託した手紙に記していたのに、すっかり眠ってしまったんだった。
「悪いな、わざわざ」
「かまわない。だが、リトムも泥だらけだし、ここでは治療しにくいから、君の寮に行っても大丈夫か?」
「ああ」
そうラセレトに頷くと、急速に暗くなってくる周囲に俺は体の向きを寮の方へと変えた。ずぶぬれの体に吹きつけてくる風がひどく冷たい。早く寮に帰らないと、怪我でどうこう言う前に、風邪で肺炎を起こしてしまいかねない。
けれど、枯れ草に覆われた道に急いで一歩を踏み出すと、やはり鋭い痛みが全身を走り抜けて行く。
思わずしかめてしまった顔に、けれど、それに気がついたラセレトが、素早く俺の横から肩を貸してくれた。
おい、俺びしょ濡れだぞ?
「大丈夫か?」
心配そうに俺を脇の下から覗き込む顔に、俺はひどく申し訳なくて、困ったように微笑みながら言う。
「お前、服が濡れるぞ」
「かまわん。代わりに、寮についたらリトムの服を貸してくれ」
俺の服は、今ラセレトが着ているような上等の品じゃなくて、綿や麻でできた町民の物ばかりなのに――
だけど、その気持ちが嬉しくて、俺は夕闇の中側の友人の顔に、笑顔で頷いた。
「了解」
そのせいか、歩いても前ほど痛くは感じなかった。さっきまでは、あんなに右足は重くて、左腕は、一歩進むだけでもげ落ちそうだっのに――
二人で肩を並べて歩く夕闇に沈んでいく道は、軽口でひどく明るい気分になれた。