(7)誰か助けてくれ!
ふわっと瞼が開いた。
目の前に映る景色は、見慣れた寮の部屋で、陽が落ち始めたのか、室内全体が淡い赤色に染まっている。
――夢を見ていたのか……
忘れていた記憶の一こまが、思いがけず魂から飛びだしてきたらしい。
それに俺はくすっと笑った。
――そうか。あの時に、俺はアーシャルに人間の街に近づかないように言ったんだっけ……
あんな昔のことをよく覚えていたな。
まったく。俺のことについては、本当に物覚えの良い弟に脱帽してしまう。
――それにしても、あの時警戒したドラゴンスレイヤーを今俺が目指しているなんて、なんて皮肉。
そして知り合いだった筈のセニシェを、なぜアーシャルが恋人と誤解していたのかもわかった。
――うん。多分、わざとだな。
俺の場合。
そうくすくすと笑ってしまう。
誰も部屋にいないのに、それがつい疚しくて、ベッドに寝転んだまま左腕でその笑顔を隠そうとした。
「いたいっ!」
けれど、その持上げた瞬間凄まじい痛みが左腕を貫いた。
――なんだ!?
さっきまでも痛かったけれど、ここまでひどくはなかったぞ?
ほんの少し動かしただけなのに、まるで腕がその付け根からもぎ取られるような激痛が走り、息さえできないほど収まらない。
俺は体を起こすと、急いで左腕に巻いている包帯を右手だけで乱暴に解いた。
俺が眇めた目で見る前で、血の滲んだ包帯が乱暴に腕から外れ、その下から皮膚が出てくるのに従い、生臭い匂いが漂ってくる。まるで野ざらしになった動物の異臭のような――台所で捨てるのを忘れていた腐った肉のような、なんともいえない臭気が俺の鼻を掠める。
「なんだ、よ……これ――」
だけど、包帯を外した瞬間、俺の眼差しは完全に固まってしまった。
俺の左腕が!
死導屍の歯でつけられた傷の周囲が、黒くどろどろに爛れて少しでも触ったら、肉が崩れてきそうになっているじゃないか! しかも、最初傷口だけにあった黄色い膿は更にその外の日焼けした肌へ広がり、伝染病が広がるように健康だったところを侵食していっている!
「なんだこれ!」
俺がつけられたのは、左の肘の下に少し血が滲むほどの軽い傷だったはずだ!
それなのに、いつの間にか、左腕の付け根にまで広がっている!
「馬鹿な!」
――まさか壊死した!?
いや、そんなのを起こすほど傷口を強く縛った覚えはないし、噛まれた後、すぐに寮に帰って基本的な応急処置は施したはずだ!
――それなら、何か知らない病気を移されたか、魔物の特性ということになるが……!
それならわからない。
どうしよう。
どうしよう!?
その時、はっと物知りの友人の顔が浮かんだ。
「そうだ、ラセレトなら――!」
何か良い薬を持っているかもしれない! それに死導屍について最初に知っていたのもラセレトだった。それなら、この怪我のこともわかるかもしれない!
そう思い立つと、俺は急いでベッドから下りた。
けれど、床に右足を着いた途端、凄まじい痛みが全身を走りぬけた。
「まさか……」
嫌な予感に、怖々寝巻きのズボンを捲ってみると、死導屍の歯が掠っただけだった右足のふくらはぎが真紫になっている!
それどころか、その傷口のところから今までなかった黄色い膿が肉を食うように浮かび上がり、紫に染まった肌をその周囲からゆっくりと溶かし出しているではないか!
俺は声にならない叫びをあげた。
「アーシャル!」
何かに縋らないと、怖くてたまらなくて、いつも自分の側にいる弟の名前を呼ぶ。
けれど、どこからも返事はない。
「アーシャル・――っ!」
我を忘れてアーシャルの本名を呼びそうになり、俺はやっと正気を取り戻した。
「ああ、待て。落ち着け」
こんなひどい状態をアーシャルに見せて、もっと心配させてどうするんだよ!?
――そうだ。俺が寝てしまっていたから、多分コルギーが連れ出したか、もしくはラセレトの所に頼んでいた薬を受け取りに行ったのだろう。
違うかもしれない。
だけど、俺は必死で床を見つめて落ち着けと自分に唱え続けた。
――これ以上アーシャルに心配をかけるのは駄目だ!
ましてや、これが何か性質の悪いものな可能性がある以上、今これ以上アーシャルに不安だけを与えたくない!
――そうでなくても、一度俺が勝手にいなくなって、すごく怖がっているのに!
そう決意すると、俺は急いで着替えた。
片手と片足がうまく使えないから、普段よりも時間がかかるが、着慣れた黒ずくめの装束を纏うと、足を引きずりながら寮の部屋を出る。
――とにかく! アーシャルよりも先にラセレトに会いに行かないと!
もし、アーシャルがラセレトからこの傷について詳しい話を聞こうものなら、絶対に心配して腕をみようとするのに違いない!
それで治療法があるのならいい。
だけど、もし場当たり的な対処法しかなかった場合、確実にアーシャルの笑顔が減る。
――これ以上泣かせてたまるか!
あいつを理不尽に泣かせていいのは、後にも先にも俺だけだと思いながら、俺は足を引きずりながら、寮を出た。そして寮から学校への近道へと急いで回る。
普段は表の正門を使うが、遅刻しそうな時や、急ぎの時に寮生たちが使う抜け道だ。
普通に表の通りを行くよりも、少しだけ斜めに学校の敷地を突っ切れるからこっちの方が距離が短くてすむ。ただ人けの少ない演習場の端をわずかに掠める形になるのに、この間のことを思い出して一瞬足を止めてしまう。
だけど、この間襲われた場所は通らなくても行ける筈だ。俺は一瞬迷った後、引きずっている足に、体をそちらの方向に向けた。
歩くだけで、足がひどく痛む。
――この間までのこの左腕と同じだ。
ということは、後二・三日でこの足も左腕と同じように腐り落ちようとするのだろう。
「冗談じゃないぞ!」
そう呟くと、俺は必死に道を歩いた。
そんななんでもないことなのに、息がもう上がってくる。
枯れ草に包まれた土の道を一歩歩くたびに、右足が針山を踏むように痛くなり、左腕はまるで太鼓の撥で乱打されているように脈打つ。
――痛い。
あまりの痛さに、目の前が霞んでくる。
――だけど、歩かないと……
これ以上アーシャルを心配させたくない。
それに、あの変態医者を紹介されるのも御免だ。
痛くないふりをして、絶対にアーシャルを悲しませないように治さないと――
だけど、額に汗が滲んできた。
もう冬なのに――
いや、冬だから、急速に日が暮れていく。
さっきまで赤かった空が薄い紺に染まり、それが紫の帳を空中から下ろしてくるのを見つめながら、俺は額に張り付いた髪を払った。
今歩いている道の側にある池の更にもう一つ奥に、昨日襲われた演習場の池が見える。その対岸の今は木立に隠れている場所で、昨日死導屍達に襲われたと俺は軽く唇を噛んだ。
なんで、こんなところに出たんだろう?
今まで学校で、突然強化訓練と言って、わけのわからない猛獣達との白兵戦はやらされたことはあるが、少なくとも化け物の奇襲攻撃はなかったはずだ。
――うん。昼飯を食べようとしたら、なぜか数が足りなくて、先輩との生死をかけた実戦をさせられたり、井戸に入れられる毒に警戒しろと抜き打ちで飲み水のすり替えをされた程度だからな。この学校もまだ常識は捨てていない。
わからない。
だとしたら、何故――浮かんでくるその疑問を頭を振って打ち消しながら、俺は今はとにかくラセレトのいる貴族寮へと急ごうともう一度歩き始めた。
それのに、すぐに息が上がってくる。
――痛い。
体中が痛みで共鳴しているみたいだ。全身に轟く凄まじい痛みに、視界も意識も朦朧としてくる。
――でも、早く行かないと……
もうすぐ暗くなる。
そしたら、きっと部屋に俺がいないのに気がついて、アーシャルが心配してしまうだろうから。
そう俯いて、足元だけを見て歩いていたせいだろうか。
目の前に、一つの人影があるのに気がつくのが遅れた。
――あ、道が狭いのに、真ん中を歩いていたから。
邪魔だったかなと、詫びようと顔をあげて息を飲んだ。
「お前!」
そこには、西校舎で追いつめたお化けが、あの日と同じ灰色のマントに全身を包んで俺を見下ろすように立っているではないか。
――こいつ!
まさか昨日死導屍を操っていたのも、こいつか!?
けれど、こちらが屈めていた体を持上げて反撃の体勢をとるより、相手の動くほうが早かった。
まばたきさえ許さない時間で、滑るように俺の前に立つと、突然その体を突き飛ばしたのだ!
――落ちる!
後ろは、演習用の深い池だ。
そこにお化けの手の動きのままに背中から水面に落とされた俺は、突然口の中に溢れた水に必死に呼吸を求めた。
けれど、自由に動かせない手足はどんどんと冷たい水の中に沈んでいく。
――何だっていうんだ!?
なんで、こいつが俺を襲う?
やっぱり昨日見た姿はこいつだっのかと、俺は暗い水の中で酸素を求めて首をかきながら、口から大きな泡を吐き出し続けた。