(6)むかし、昔
夢の中で、俺は眩しい湖の側にいた。
水面のさざなみに光が眩しく輝き、まるでいくつもの小さな鏡が浮かんでいるかのようだ。
それに今日は青い鱗で頭から潜ることもせずに、俺は竜の手足を曲げて岸辺に座ると、下げた視線の先にいる大きな日よけの帽子を両手で押さえている魔女を見つめた。
明るい光の中で、檸檬色の長い髪を揺らしながら、いつものこぼれそうな紫水晶の瞳で、こちらを見上げている。
「セニシェ」
そう名前を呼ぶと、この湖で顔見知りになった長寿の魔女は、まだ若い娘の姿で俺の顔を見つめた。
――ああ。俺が魂を預けた魔女か。
ぼんやりと残る意識で、俺は夢の中の面影に呟いた。
「どうだ?」
――何を話しているんだ?
けれど、それにセニシェはわずかに瞳を寄せている。
「ごめんなさい。私にわかるのは、これぐらいね。ひょっとしたら、例のダンジョンのマームなら何か知っているかもしれないけれど」
「マーム――あの変態か」
おお、俺の認識は、どうやら竜の頃から変わらなかったらしい。声がものすごく苦虫を噛み潰したものになっている。
「取りあえず、現在その迷宮を永久破壊活動中なんだが、快く教えてくれるだろうか」
「そんなわけないでしょ!? なに常識も考えずに、人様の住居に迷惑行為をしているのよ!」
「そうか。セニシェは、取りあえず火の燃え盛る焚き火の上で棒渡りをさせられたり、時間制限内に解かないと玉に踏み潰されるおちょくり算数問題を体験しても、常識的でいられると。今度アーシャルを遊ばせる時は、迷宮じゃなくてお前でやってやろう」
「ごめんなさい! 絶対に体験したくないから申し訳ありませんでした!!!」
まあ、この素早い反応が面白いんだけどな。
そう見ている前で、セニシェは既に涙目になっている。
「兄さん」
すると、俺が笑ってセニシェを見つめていたのが気に入らなかったのだろう。遠くで今まで待っていたアーシャルが、竜の姿でこちらに口先を尖らせるようにして近づいてくる。
それに、セニシェがびくっと肩を揺らした。
「セニシェ、何か菓子を持っていないか?」
「お菓子? 飴ならあるけど」
「それでいい」
「じゃあ、お菓子代の代わりに! 私と水竜はお友達どころか仲良くさえない完全な赤の他人って、くれぐれも火竜に言っておいてね!」
――こいつ、地味に傷つく。
いっそ、恋人だとありもしない事実をでっちあげてやろうか。
そうしたらどれだけ驚くか見ものだ。
けれど、そう思った時、視界の先でアーシャルが何かに足を引っ掛けてつまずいた。
「アーシャル!」
――馬鹿! なんで、俺の僅かな笑いの気配にさえ気がつくのに、そんなにわかりやすく自分の足元に落ちている物に気がつかないんだよ!
けれど、慌てて駆け寄る前に、アーシャルはその赤黒い鱗を煌かせて、地面にずずんと倒れてしまう。
「大丈夫か!?」
――ああ、しまった。やっぱりよく見えないんだから、側にいてやればよかった。
「痛いよー痛いよー」
「泣くなよ。大丈夫だ、転んだだけだから」
「でも、痛いよー」
泣き止まずによく見えない目をこすり続けるアーシャルのその足を見ると、強靭な筈の竜の鱗が割れて、その下から赤い血が噴き出している。
「なんで、こけたぐらいで竜の鱗が……」
剣や岩さえ砕くのにと、アーシャルが転んだ近くを見回すと、幾枚もの翡翠色の鱗が散乱している。
「なんで、こんなところに風竜の鱗が……」
アーシャルの足に怪我をさせた正体を見つけて、俺は息を呑んだ。
竜の寿命は長い。確かに、堅牢な大人の竜の鱗なら、まだ柔らかい幼体の鱗を貫くことぐらいできるだろうが、この間ここに来た時はなかったはずだ。
けれど、それにアーシャルはくすんくすんと鼻をすすりあげた。
「それね。さっき鳥と話して聞いていたら、人間のドラゴンスレイヤーとかいうのが来て、風竜と死闘を繰り広げたんだって」
「ドラゴンスレイヤー?」
なんだ? 人間にそんな竜を倒せる存在がいるなんて初めて聞いたぞ?
「うん。でも、空で乱暴ばかりしていた竜だったから助かったって、鳥さん言ってたー同じ竜の僕としては複雑なんだけど」
――そんな暴れ竜を人間が?
それに俺はますます瞳を眇めた。
「アーシャル。お前、絶対に人間の街には近づくなよ」
「えーなんで?」
「なんでも!」
なんで今までの話の流れでわからないんだ!?
だけど、俺はアーシャルの足から、刺さった鱗を抜くと、近くに生えていた薬草をその傷口に貼り付けてやった。
「あーあ、血が出ているじゃないか」
こんなに大きな鱗だって見えないんだ。これじゃあもし襲われても、やっぱり小さい人間なんて、アーシャルの目じゃあ気づくことができないよな。
――やっぱり俺が側にいてやらないと。
そう思うと、俺は泣いているアーシャルの口元に手を差し出した。それに不思議そうにアーシャルが口を開ける。
――全く警戒がないんだから。
けれど、苦笑した俺の前で、飴を口に入れると、それまで泣いていたアーシャルの顔が急にぴょこんと跳ね上がった。
「おいしい! なにこれ兄さん!?」
「飴だ。セニシェからもらった」
「セニシェ? 最近、兄さんよくあの魔女と会っているけれど、まさか名前を教えたりしていないだろうね」
「まさか!」
――まあ、教えてもいいんだけどな。それを許すぐらいには信用しているし。
でも、もし教えたら、間違いなくあいつがこいつに八つ裂きにされるよな。
本名を教えて、自分の縄張りに入る許可なんか出したらと、苦笑を浮かべた。特に女性だと、気をつけないといけない意味を孕むし。
「ふうん。ならいいけど」
そう言いながら、アーシャルの顔は、口の中の飴にほにゃと歪んでいる。
「おいしいねー兄さん、飴って」
「ああ、そうだな」
そのあまりに幸せそうなアーシャルの顔に、俺もひどく暖かい陽だまりにいるような気分になった。