(5)気にしすぎだ
腕が痛い。
そんなにひどい傷じゃなかった筈なのに、微かに動かすだけで痺れたような重い痛みを伝えてくる。その苦しさに、俺は寮のベッドで冷たい汗を流しながら首を動かした。
「兄さん。大丈夫?」
ここまで連れ帰ってくれたアーシャルが心配そうに、横から二段ベッドの下に寝ている俺を覗き込んでいる。
「ああ。悪いな……こっちは、お前のベッドなのに……」
それなのに、昨日連れて帰ってもらってから占領している。
「かまわないよ。汗をかいたシーツぐらい後で洗えばいいし、どうせどっちも僕が洗うんだから」
「いや、俺はそれより、お前が夜中に寝ぼけて二段ベットの上から落ちてきそうで怖い……」
過去にこいつの寝相の悪さは立証済みだ。
けれど、アーシャルは、汗の滲む俺の額に触れると、そこに濡れた布を絞っておいてくれる。
「大丈夫。落ちる時は、絶対に兄さんの上に落ちるから」
「それは計画的犯行にしか聞こえないんだが……」
――やめてくれ。夜中に竜の体重で乗られれば、確実に自分は明日の朝馬車に踏みつけられた蛙の姿で、二度と起き上がることができないだろう。
というか、こいつ、今までの寝相まさかわざとか。
そうつっこんでやりたいのに、火竜なのに珍しく水で冷えたアーシャルの指が俺の髪をかきあげた。
「それに、下で寝てくれていた方が、こうして兄さんの様子が見られるから安心だし――」
――ああ。悪いな。
また心配させてしまっている。
お前の気持ちがわかるのに、左腕がひどく痛くて、目を開け続けているのさえ辛い。
「コルギーさんにもらった寮のお薬をつけたけれど、効かないみたいだね。やっぱり一度きちんとお医者さんに診てもらったほうがいいよ。僕呼んでこようか」
「いや、大丈夫だ」
「でも――」
続きそうな言葉に、俺が嫌な予感を感じて、急いでアーシャルの言葉を遮った時だった。寮の薄い扉を叩く音がしたのは。
「リトム? 具合は大丈夫? 怪我をしたと聞いたので、お部屋に届けに来たわ」
その声に、俺は枕元にいるアーシャルに目をやる。
「服屋の女将だ。注文したお前の冬服を届けてくれたんだ」
「ああ――」
それに、急にアーシャルの目が半眼になると、渋々といった風情で扉を開けにいく。
かちゃりという音と共に、扉を開けると、その向こうにはオレンジにも近い豪華なブロンドの巻き毛を揺らした女将が、胸に大胆な切り込みの入ったドレスに毛皮の上着を着て、こちらを見つめている。その白豹の毛皮に包まれた腕には、俺が頼んだアーシャルの上着なのだろう。数着の厚めの服が受け渡しを待つようにかけられていた。
「女将」
少し熱があるのか、まだくらくらする視界の中に立つその姿を見つけて、俺は寝たまま呼びかけた。
すると、今まで凛としていた女将の様子が突然変わって、つかつかと部屋に入ってくる。入り口の扉を越えたところで、女将が腕に持っていた服をばさっと押し付けられたアーシャルが、そのまま遠慮なく入室して来る女将の姿に目を白黒させているのが見える。
けれど、女将はそのままベッドの側に近寄ると俺の額に手を置いた。濡れた布の端から触れてくる白い指が気持ちいい。
「どうしたの? 具合が悪いと聞いたけれど、顔色が悪すぎるじゃない」
平気だと答えようとしたが、うまく声が出ない。
「兄さんは、怪我をしたんですよ。それで熱が出て、今は休んでいないと駄目なんです」
だから帰れとあからさまにアーシャルの表情が言っている。
「怪我?」
けれど、女将はその言葉に、美しい眉を寄せると、躊躇なく俺の左腕を捲り上げた。そして、そこに巻かれている布をためらいもなくほどく。白い包帯を取られたそこは、死導屍に噛まれた傷が膿んで、裂かれた傷の周囲にたくさんの黄色い粒を宿しながら、まるで死人のような紫色になっていた。
その様子に、女将は明るい茶色の瞳を強く寄せた。
「ひどい状態じゃない。薬は塗ったの?」
「寮のを塗ったけれど効かなくて……」
「だから兄さん、僕が名医のナディリオンを連れてくると言っているのに!」
やっぱりか!?
「それだけはご免蒙る――」
何が悲しゅうて、怪我でただでさえ苦しい時に、変態の毒牙にかからねばならん。
ましてや、体がこんな調子では逃げることさえできやしない!
それなのに、アーシャルは俺のその様子が信じられないようだ。
「えーっ!? 大丈夫だって! ナディリオンは自他共に認める名医だから!」
「うん、それは認めてやる」
確かに二度と触れられたくない名医なんだろう。だから、その二つの名の通り、二度と関わりたくないだけなんだ。なんて称号を素直に認めているんだろうか。
「だったら――!」
叫びかけるアーシャルの横で女将が俺の左手を持つと、そっと手のひらでそれを包んだ。
「でも、これじゃあ今の薬はあまり効いていないみたいね。よかったら、あたしのを持ってきましょうか?」
優しい声に俺は枕の上で急いで首を振った。
「いい。ラセレトに薬を頼んだから――」
今までも、厄介な病気や怪我の時は、ラセレトが実家の貴族の館から持ってきている高価な薬で助かってきた。だけど、それ以上に、この怪我を負わせた死導屍に襲われたのが、この女将を訪ねた時だったことを思い出すと、迂闊に頼りたくない。
――ずっと知っていたはずなのに。
それなのに、アーシャルのこの間の警告で、急にこの女将が得体の知れない存在に思えてきた。
――本当に魔力を隠しているんだろうか。
だとしたら、何のため?
わからない。
俺の前で床に膝をついて、笑っている姿は、昔と変わらず美しい魅力的な姿だ。
それなのに、今俺が本当に安心して信頼できるのは、俺の側で、この女将を近づけまいとしているアーシャルの厳しい表情だけだ。
「そう――」
けれど、そう呟くと、女将は意外なほどあっさりと俺の手を離した。
そして、外した包帯を手馴れた様子で素早く巻いていく。
「でも、無理はしたら駄目よ」
言うと、軽く髪を撫でられた。
――この仕草は、昔と同じだ。
「頼まれたほかの服は、まだ下の玄関に置いてあるのよ。じゃあここまで持って上がるのに、アーシャルを借りてもいいかしら」
「ああ――」
その言葉に、ほっとしてしまう。
「兄さん――」
心配そうに見つめている顔に、ちょっとだけ笑ってやる。
大丈夫、心配しすぎなだけだ。
――気にしすぎなだけで、本当は昔と変わらないじゃないか。
「悪いな、アーシャル。頼めるか」
きっと痛みが引かないから、過敏になっているだけだ。
そう思いながら、俺は心配性な弟を見つめた。
――ああ、俺もこいつの癖がうつったのかもしれないな……
「うん――」
そう頷くと、女将と一緒に部屋を出て行く姿を見送る。
パタンと扉の閉まる音がすると、寮の部屋はほんの一月前とたいした違いはなかった。二段ベッドになって、アーシャルの持ち物が増えて狭くなっただけで、目を閉じれば、いつもと同じように下級生の楽しそうな声が階下から響いてくる。
今日の夕食を言い合ったり、課題の答えをその一品と賭けたりする声が、階段を上ったり下りたりしている。
――いつも通りだ。
そう思うと、大きく息ができた。
――いつも通り、何も変わっていないはずじゃないか。
そう呟きながら、いつの間にか俺の瞼は眠りへと落ちていった。