(4)嫌がらせは正々堂々としやがれ!
あの野郎!
まさかここまで俺を恨んでいるとは思わなかった!
走る演習場の道には、左右から赤く色づいた葉が伸びてきているが、それが頬を打つのさえ気にならない。いくつもの小枝が、俺の頬を叩いて、小さな痛みを与えたが、それ以上に腸のほうが煮えくり返っている。
今もずきずきと痛む左腕よりもだ。
――サリフォン!
思えば、初対面からお互いに印象は最悪だった。
それでも、いけ好かない奴で、いつか顔面ごと靴の裏で踏みつけてやりたいと思うだけで、殺したいと願うほどでは決してなかったのに!
それなのに――あいつ!
俺は痛む足にも構わず一気に演習場の道を駆け抜けると、さっき通りかかった貴族の寮の扉を開けた。
「なんだ、お前!?」
中にいた貴族達の子弟が、突然質素な服で駆け込んできた俺に目を見開いている。
けれど、それにかまわずに、近くにいる同じ学年の一人を見つけると、その襟首を掴みあげた。
「おい、お前」
「ひいっ! リトム・ガゼット!」
おい、なんで俺が誰かわかっていてそんなに怯えた顔をしているんだ? 普通それは不法侵入者にする顔だろう。それなのに、同じ学年で幾度も顔を合わせているそいつは、襟首をつかまれた姿勢のまま俺を硬直して見上げている。
「サリフォンの部屋はどこだ?」
尋ねると、相手は震えるようにして階段の三階を指差した。
「三階か」
さすが将軍家の家系、良い部屋を使っていると見える。
「そ、そこの奥から二番目だ!」
裏返っている声の相手に、俺はもう興味を失くすと、その襟を捨てるように離した。そして俺が片足を引きずりながら緑の絨毯の敷かれた階段へと向かうと、その後ろで糸が切れたようにへたりこんでいる。
「あれがリトム・ガゼットか?」
「あの、目をつけられたら最後人生再起不能伝説を持つ?」
「ああ、一年の時に嫌がらせをした相手は、あいつに肥溜めに突き落とされて、それ以来くそガキというあだ名を冠されたらしい」
「俺が聞いた話では、あいつを罠にかけようとした奴は、二階の窓から吊るされた挙句、上からバケツをかぶせられてがんがんと殴られたから、いまだに鐘の亡者と呼ばれているらしい」
「恐ろしい……」
「この世にあんな冷酷非道な奴がいるなんて……」
おい。なんか勝手に伝説が作られているんだが。
そんな昔のこと――ましてや、記憶にあるようなあったような、ないことはないようなことで、無意味に伝説を作らないでほしい。
「おい、おまえら!」
上りかけた階段で振り返ると、集まっていた連中は一斉に蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
なんなんだ。ちょっと訂正しようと、頭を一発ずつ殴って納得してもらおうと思っただけなのに。
「まあ、いい。それより今はサリフォンだ!」
そう俺は向き直ると、急いで豪華な飾りのついた手すりで体を支えながら階段を上った。
一歩上るたびに、足の小さな傷がずきすぎとしてくる。
それに腕の痛みは、いまだに引くことがなく、どくんと血が流れるたびに頭の中に響くような鋭い痛みを訴えかけてくる。
だけど、そんなことを気にしている暇はない。
とにかく一刻も早く、あの気取った顔を殴ってやりたくて、痛む体さえ宥めて階段を駆け上がった。
正直にいえば、三階まで上るだけでも息が上がってしまう。
それでも、上りきった階段の踊り場の金の車輪で飾られた柵から手を離すと、さっきの生徒に言われた部屋へと急いだ。
目当ての部屋はすぐに見つかる。
――奥から二番目の扉、あれだ!
俺は扉に来客の合図もせずに、代わりにありったけの力でその扉を叩いた。
ばんと音がひびき、扉が内側へと開く。
中では、今まさに包帯を外して、薬を治療師に塗られていたらしいサリフォンが、上半身を晒した姿でベッドの側に立っている。
「リトム」
驚いた顔をしているサリフォンの全身を覆う、みみずの線を描いて引きつっている肌は、ひどい茶色に変色している。それに一瞬俺の目が歪むように寄せられたが、あえて気にせずに部屋の中へと踏み込んだ。
「相変わらず無礼だな。扉を叩くという礼儀作法ぐらい知らないのか」
よし。十分に嫌味で元気だ。それにさっき一瞬だけ浮かんだ迷いがどこかへと消えた。
「叩いたさ。ただお前が鍵も閉めない世間知らずのせいで、その瞬間開いただけだ」
それにサリフォンが忌々しそうに瞳を眇めた。
「無礼な! 坊ちゃまは、私が水を持って出入りしやすいように閉じられなかっただけで!」
側の女の治療師が叫んでいるが、やはりもう一人いた魔術師の姿は見えない。
――やっぱりか。
「それで何の用だ? まさか僕の今の姿を祝いにでも来たのか?」
「生憎だったな。祝いじゃなくて、お悔やみを言いにきたのさ」
それにサリフォンの瞳が細くなった。
「なんのことだ?」
「俺を殺しそこなったことへのお悔やみさ! お前! 陰険で俺と張り合える嫌な奴だと思っていたけれど、なぜ俺を殺したいのなら正々堂々と来ない!」
――こそこそと闇討ちのような真似ばかりしやがって!
指を突きつけて糾弾したのに、ますますサリフォンは瞳を寄せている。
「何の話だ?」
「俺を死導屍に襲わせたことだ! 俺を殺したいのなら、お抱えの魔術師にグーリエルなんて召還させないで正面からかかってこい! いつでも返り討ちにしてやる!」
けれどますますサリフォンは俺の指を見つめて、瞳を眇めた。
「ふん。なんのことかわからんな。お前の妄想に付き合う暇はない」
そう言うと、俺の突きつけた指を忌々しそうにぱんとはたく。
それが俺の怒りに火をつけた。
――こいつ! しらばっくれやがって!
そのまま背を向けようとした手を掴むと。無理矢理こっちを向かせる。
「待てよ! お前が家から魔術師を呼び寄せたのはわかっているんだ! 治療師も呼んでいるのに、それなら何のために魔術師まで呼び寄せた!?」
「それは心配した母上が送り込んできただけだ! 治療師だけでは手に負えないから――」
「嘘をつけ!」
そう叫んだ瞬間だった。
俺がサリフォンの腕を持ったところから、眩しく澄んだ青い光が瞬くと、それがぱんという音と共にサリフォンの全身を包んだのだ。
「え――――?」
今何が起こったのかわからない。
それは、突然の光の破裂を受けたサリフォンも同様らしい。
ただ、俺が掴んでいた腕から水色の光が目の前のサリフォンの肌を包むと、その茶色くひきつっていた肌に波のように広がっていく。そしてその波が広がるにつれて、その肌にあったひどい火傷の痕を消していく。
「これは――――」
側にいた治療師も驚きのあまり息を飲んでいる。
俺は驚いて、今さっきサリフォンの腕を掴んでいた自分の右手を見つめた。
今何が起こったのかわからない。
けれど、今目の前にいるサリフォンの肌は、まるで水の加護で冷やされたように急速にその火傷を消して、白い肌を取戻していく。
「これは――まさか……」
水竜の力?
俺は信じられない思いで自分の手の平を見つめた。
――俺がアーシャルの火傷を消した?
まさか。人間の体なのに。
だけど、もしそうなら、俺の魂にはまだ水竜の魔力が残っていることになる。
――そうか!
呆然と自分の手を見つめていた俺の頭の奥で、その瞬間一つの考えが閃いた。
――俺とアーシャルは相反する性質の竜だが、一緒に生まれた兄弟だから、互いの力への親和性が高い!
だから、きっと今も、サリフォンの肌を過剰に苛んでいるアーシャルの力を無意識に宥めたのだろう。今まで寄り添っても、互いの力で傷つけあわずに柔らかく中和して共存したように!
「これは、一体。リトム――」
だが、理由がわからないサリフォンは完全に呆然としてしまっている。
そりゃあそうだろう。
何しろ今まであった火傷がいきなり全部消えたんだ。不思議でなかったら、かえって精神を疑う。
「さあな! あははははははははは!」
まずい! アーシャルが竜云々は極秘事項だし、俺が竜でしたなんて、間違いなく精神を疑われる!
「誤魔化すな!?」
「いやいや、お前の治療師の治療がすごかったんだよ! あははははははははは!」
そうひきつった笑いを残すと、急いで部屋を飛びだした。
――くそっ! 白状させて土下座させてやろうと思っていたのに!
突然出た竜の力に計画がぱあだ。
俺は痛む手足を庇いながら、必死に三階からの階段を駆け下りた。
けれど、さすがにもう限界だったらしい。
階段を一階ずつ下りていくごとに、額から嫌な汗が玉のように落ちていく。
「待て! リトム!」
――しつこいな、サリフォン。
一年の時からのうっとおしいほどのつけ回しは認めてやるから、今だけは帰らせてくれ。
「待て!」
けれど、階段を下りてくる足音が聞こえる。
――まずいな。だんだんと目が霞んできた。
一歩進むたびに、腕に針のような傷みが疼く。
――頼むから、今は帰らせてくれ。
階段を駆け下りてくる音に、俺が左腕を庇い、足を引きずりながら玄関を探したときだった。
「兄さん!?」
突然扉を開いて、飛び込んできた赤黒い髪の弟に、俺の意識はぷっつりと切れた。