(7)何が起こっているんだ!
あれからお化けはいくら待っても現われなかった。
二日続けて張られ、捕まりそうなところまで追いつめられたことで、警戒されてしまったらしい。
――仕方ないか……
そうは思うが、正体がわからないのでは釈然としない。
「兄さん、本当にこっちの道であっているの?」
うっかり考えに没頭してしまっていた。秋の紅葉した葉に彩られた街路樹の横で、人通りの少ない道を見回しているアーシャルを、俺は安心させるように振り返る。
「ああ。うちの寮によく出入りしている業者の店がこっちにあるんだ」
「ふうん。でもなんか家が少ない寂しい所だね」
「その方が場所代が安いらしい。まあ、実際格安が売りの商人だからな。お蔭でこんな辺鄙なところでも、学校関係や色んな店からのまとめ注文で成り立っているんだ」
「ふうん」
頷きながらアーシャルは辺りを見回しているが、そう訝しがるのも無理はない。
なにしろ、王都とはいえ、山に近い周りを林に囲まれたような一角だ。目の前にはこの辺を開発させにくくさせている大きな湿地が広がり、その為に、わざわざ住もうという物好きも少ない。
「でも、本当に安いんだぞ。正直、寮の取引先が前の業者からここに変わってくれて、俺たち町人出身者はみんなで大喜びしたほどだ」
「へえーそんなに安いの?」
「ああ、何しろ市価の半分ほどなんだ。おまけに店主がいれば、更にその半分ぐらいにしてくれることもある。ただ、その場合ちょっと代償が高いんだが……」
「安いのに、高い? なに、その怪しげな商売!?」
「いや、怪しくない。品物自体は。ただ、店主のやり方が怪しいだけで」
「まさか、兄さん!? 安くしてもらう代わりにあんなことやそんなことを!?」
――おい、ちょっと待て。
「俺は、お前のそのあんなことやそんなことが気になるんだが」
「そんなことを僕に言わせる気なの!?」
「普通に考えたら、ここは悪事に手を染めるという発想だが……確認しておくが、お前が考えた内容は、それで間違いないんだよな?」
「あーなんだ、悪事に手を染めただけかあ。なら、竜の力で役所ごと壊せば解決だね。よかったよかった」
――おい! ちょっと待て!
お前、絶対に今いかがわしい方向に想像しただろう!
――そして、あながち間違っていないのも悲しい……
そう心で呟きながら、俺は湿地にかかっている丸太を並べた橋を歩いた。
その先には、湿地に浮かぶ島のような土地に、赤い石を組み合わせた小さな店が建っている。俺が見上げると、その入り口にかけられている木の看板が風に柔らかく揺れていた。
《いらっしゃいませ。本日は開店しております》
その言葉を確かめて、俺は安心して、緑に塗られた扉を押した。
「本日は開店しております? 開店していることを告げるにしては、妙な文言だね?」
「実際休みが多いからな。月の半分は仕入れのため留守だから、そんな時は、扉に張られた紙に注文内容を記入するようになっているんだ」
「そんなのでよく商売が成り立つね」
「まあ、元々俺の住んでいた街にも出入りしていた行商人だからな。行商の方が主体だとみんなわかっているんだよ」
「ふうん、そんなものかな」
そう話しながら、俺は店の扉を押した。
扉を開いた途端、中の暖かな火の気配が頬をくすぐった。店の奥の暖炉には、オレンジの炎が舌をあげて燃え上がり、その前に紐にかけられて吊るされた幾枚もの布たちを湿気から守っている。
深い緑のビロードと紫の絹が炎にオレンジ色に輝き、その下で二人の針子がせわしなく手を動かしていた。
――いるかな?
多分、今回の買い物は高くつく。魔法騎士科の必要品のほとんどは、なんとか学校の援助と寮の卒業生の残した物で揃ったから、後は、アーシャルに寒い思いをさせないために、できるなら店主にいて欲しいところだが……
そう店の中を見回している時だった。
「ぶっ!」
突然迫ってきた巨大な胸に顔を押し付けられたと思うと、その谷間に埋められてしまう!
「いらっしゃーい! リトム! 自分からあたしの店に来てくれるなんて、すごく久しぶりでもう大感激!」
「お、女将! ち、近い! っていうか、窒息する!」
「うん? 女の胸に喜ばないなんて、健全な男の子らしくないぞ? ちょっと前までは、お母さんみたいーって喜んでくれたのに」
「それは俺が七つまでの話だ! 第一それが健全な男の発想かよ!?」
そう言うと、俺は無理矢理埋められた胸から顔をあげた。いくら相手がきちんと服を着ていても、そんな薄い布では意味がない!
それなのに、女将はそのオレンジ色と見まがうブロンドを揺らしてがっかりとしている。
「えー? なんでたった十年でそんなに反応が変わるのう? もっと抱っこしていたいのに」
「絶対にごめんだ! 取りあえず、抱っことおんぶと頬ずりとキスは禁止しておく!」
すると、女将のオレンジに近い茶色の瞳がにやりと形を変えた。
「ふうーん。数年で随分と偉そうな口を利くようになったわね。じゃあ、一人前の男として定価で支払う?」
「うっ、それは……」
――しまった! つい、自己防衛本能が働いて、機嫌を損ねた!
「どうする? あたしは別にそれでもいいけど」
「――――……抱擁は禁止していない!」
「いやーん。やっぱりそうこなくっちゃ!」
そう満面の笑顔になると、次の瞬間全身で抱きつかれた。
そして、もう全身をその巨体ともいえる長身に包まれるように抱きしめられてしまう。
――ああ、やっぱりこうなった……
だけど、いい匂いだから、照れくさいし、子ども扱いが気になるけど、そんなに嫌じゃないんだよな。
――我ながら、どうなんだよ。この感想……
けれど、今日はその瞬間後ろからぐいっと俺の体が引き剥がされた。
「僕の兄さんに変な真似はやめていただけますか? 生憎兄は女性にうぶなので」
「おい、アーシャル!」
――ってか、それだとお前の方が女性遍歴がある表現になっているぞ!?
それだけは兄として許せないんだが!? 何しろ、年齢イコール彼女いない暦以上に彼女いない暦の方が長い俺としては!
けれど、女将はぴくりと眉をあげた。
「アーシャル?」
「俺の弟です。今日はこいつの服を頼みたくて!」
まずい! ここで女将の機嫌を損ねたら、アーシャルの格安冬服計画がだめになる!
「ふうん、弟」
――あ、しまった。そういえば、女将は俺の生家のこと知っていたよな?
嘘がばれたか。いや、弟というのは嘘ではないんだけど。
そう冷や汗が流れた瞬間だった。
けれど、女将の白い腕がばっと開くと、その中に包みこむようにアーシャルを抱きしめたのである。
「やーん! こっちもかわいい! いいわよ、いいわよ、何着でも作ってあげる!」
「ぐえっ!」
ほう、竜のアーシャルを苦悶させるとは、彼女の包容力はなかなかのものらしい。
今度ぜひ極意を教えてもらおう。
「に、兄さん……」
そんなことを冷静に考えていると、女将の胸の合間から、必死にそれを押し返しながらアーシャルが声をあげている。
「助けて……」
「俺は今、俺の財布のためにお前を見殺しにするべきか、お前の冬服のために見殺しにするべきかで悩んでいる」
「どっちにしても見殺しコース!?」
なんでと叫んでいるが、当たり前だ。
「ここで俺が、獅子の如くお前を崖下に突き落とすことによって、お前は冬服を手に入れ、俺の側にいることができる。よって、お前も幸せついでに解放された俺も幸せだ。迷う余地はない」
「そんな! 兄さん!」
「さすがね、リトム。任せておきなさい。必ずアーシャルの服も格安で素晴らしいものを用意してあげるから」
「頼む」
「待って! 兄さん」
アーシャルが女将の胸の中で蠢いているが、たまには兄離れもいいだろう。そう決意すると、後ろに下がった。
「採寸には時間がかかるわよ。よかったら、外でも散歩して待ってて」
「ああ」
「なんなら、私が今リトムの服も、抱きしめて採寸して作ってあげるけれど」
「いや、今回は遠慮しておく」
このままここにいても、間違いなくアーシャル同様女将の餌食になるだけだ。
それぐらいならアーシャルだけに代金分の覚悟を決めさせようと、俺は外への緑の扉を引いた。
――それに、少しは俺以外の相手への免疫もつけた方がいいからな。
あんな変態に引っかからないためにも。そして、いちいち気になってしまう俺のためにも。
そう決意すると、扉を閉じて、外へと歩みを進めた。
外は、少し時雨始めていた。
秋の晴れていた空には、雲がかかり、まるで泣くように湿地の上に波紋を描いて、いくつもの雨粒を落とし始めている。
――まあ、これでアーシャルの学校生活用の服はどうにかなったな。
いくら竜でも、全て魔術でごまかすわけにもいかない。それはあまりにもアーシャルに負担がかかりすぎる。
それに、やっぱり火竜だから、寒いのは苦手なはずだ。
そう冷えている外気に体を一瞬震わせると、俺は丸太の橋へと歩き始めた。
水に落ちる雨を静かに体に受けて橋を渡り、それが鮮やかな黄色に変わった葉に落ちていく林の中へと入っていく。
整備されているとはいえ、山の側だ。葉が色とりどりに色づき、その影で赤い実がかわいらしくなっている。
それを見つめて、思わず笑みがこぼれた。
――アーシャルの目みたいな赤い実だな。
なんて名前なんだろう。
そう思ってちょっと足を止めた時だった。
突然、足元の地面がぼこっと盛り上がると、そこから白い皮だらけの指が飛び出したのは。
「なっ……!」
咄嗟に避けようとした。それなのに、それは更に盛り上がると、あろうことか、逃げた俺の足を掴もうと、茶色く乾いた手を伸ばしてくる。
骨に白く乾いた皮だけを纏ったような姿だ。
その目も内臓もこそぎおとされた姿で、骸骨の骨格だけを浮かび上がらせながら、俺めがけて襲いかかってくる!
咄嗟に、俺は剣を抜いてその頭を切り落とした。
けれど、まだ白い皮に包まれた骨だけの胴体が、こちらに手を伸ばしてくる。
「くっ……!」
その瞬間、後ろから白い皮の骸骨に左腕を噛まれた。
腕の皮膚を食い破って、その生臭い牙が俺の肉を齧りとろうとしている!
――もう一体いやがったのか!?
反射的に剣を翻すと、俺はその骸骨の心臓を切り裂いた。
体を包む白い皮ごとその胸を断たれた骸骨は、俺の目の前で呻きながら砂になって崩れていく。
けれど、その合間に、さっき頭を落としたもう一体が、俺へと飛びかかってきた。
「舐めるなよ!」
振り返りざまに、さっき頭を落とした骸骨の胸を一閃で切り裂いた。アーシャルの力が宿った剣だ。一振りで狙い違わず、その心臓部を切り裂くと、その体はダンジョンで出会ったゾンビ同様壊れた粘土細工のようにぼろぼろと崩れていく。
「なんだ、今の……!?」
――なんで、ダンジョンでもないこんな普通の場所で、ゾンビが俺を襲ってくるんだ!?
噛まれた左腕の痛みが、これが夢ではないと告げてくる。そこに残る突き立てられた牙の感触が、今でも痛みと共に生々しい。
「くそっ!!」
――わけがわからない!
何がどうなっているのか。
俺は噛まれた腕から滲む血を押さえながら、強く唇を噛んだ。