(6)待て! お化け!
外はまだ陽が少し翳ってきたくらいだ。明かりのないこの建物の中でも、十分に肉眼で見えるほど明るい。
――ふん。お化けのくせに明るいうちに出るなんて、いい度胸をしているじゃないか。
俺が、座っていた窓の側の壁から顔だけを覗かせると、通路の途中の曲がり角にいたコルギーがやはり顔を半分だけ覗かせて頷いている。
この校舎はT字型になっており、それに更に左右の端に二本の棟を取り付けた形だ。階段はそれぞれ左右の棟の端に一つずつ。その左側のは踏み石が外れて壊れているが、そこから昨日あのお化は逃げたらしい。
――やっぱりそっちから来やがったか。
あの階段の下には、念の為寮の下級生と一緒にアーシャルをいかせてある。
登って来るのは隠れて無視して、万が一逃げられた時だけ全力で火炎を出せと言っておいたから、怖いけれどどうにか我慢したのだろう。
――うん、後で撫でてやろう。
アーシャルの火炎なら、あのお化けを倒せないということはないだろう。でも、できるなら怖い思いはこれ以上させたくない。
――まあ、火事になっても困るしな。
その時は、全力でお化けのせいにする!
よし!
そうぎゅっと手を握り締めると、俺は低い音を床石に響かせて歩いてくる灰色の人影を見つめた。
格好は昨日と同じだ。
長い足まで隠れる灰色のマントで全身を覆い、フードを頭からかぶっている。だからその素顔は一切わからない。
わかるのは、間違いなく不審者だということだ。
こんなにたくさんの学生が集まる所で、そんなに厳重に姿を隠して、人気のない所をうろつくこと自体が胡散臭いことこの上ない。
壁の影に隠れながら、俺は息を殺した。
お化けは、こつこつと歩くと、その横に並んでいるたくさんの教授の保管庫には一瞥もせずに、窓の外の歓声が響く校舎の方を眺めている。
――物取りじゃないのか?
ふと足を止めて外を眺めているお化けの先を見つめると、そこには普段自分達が使っている教室があった。そして、その先には、学長室のある本校舎があり、アルスト二アス国立大学の庭を横切ってきた風が、その窓から柔らかく吹き込んでいる。
――何を見ている?
マントのせいで、視線がどこに定まっているのかわからない。けれど、僅かに覗く薄い唇が動いたのが見えた。
よくわからないが、少しだけ驚いたように言葉を呟いたように見えた。
その瞬間、俺はコルギーに目配せをするとばっと飛び出したのだ。
それと同時に、今不審者が歩いてきた方向から、隠れていたラセレトが飛び出す。
「待て!」
一瞬、マントのお化けが驚いたような素振りをした。
けれど、その次の瞬間、俺の走って来る姿を見つけると、急いで後ろを振り返っている。
――生憎だな! そっちには逃げられないぞ!
「逃がすか!」
さすが座学はトップだ。そのラセレトが、事前に全ての部屋に鍵をかけて作った罠だ。
逃げ場は一つしかない!
自分の前と後ろから剣を持った生徒が迫ってくるのにマントのお化けが、薄く唇を噛んだ。
そして、横に伸びた通路へと走って行くが、そここそが最大の罠だ。
「待て、逃がすと思っているのか!」
剣を抜いたコルギーがその奥に待ち構え、こちらへと走ってくるのに、さすがのお化けも足を止めた。
そして後ろから追いかけてくる俺達を振り返っている。
――今だ!
そう判断すると、俺は剣を抜いて大きく振りかぶった。
それに、顔は見えないが、不審者が息をつめたのがわかる。
「これでどうだ!」
そう叫ぶと、俺は側にあった大きな綱を一太刀で切り落とした。
細かい綱の繊維が剣の刃先に千切れ飛び、ぶちぶちと嫌な感触がそこから伝わってくる。
けれど、その全てを渾身の力で断ち切った時、天井からは巨大な網が落ちてきた。
それが端についた錘ごとお化けの上に容赦なく襲い掛かる。
「やった!?」
ざんと派手な音をたてて落ちた投げ網に、俺が思わず手を握り締めた時だった。
それなのに、その網についた錘が石の床に響いて転がった先には、誰の姿もない。
「いない!?」
「どうして!?」
俺だけじゃない、隣りにいるラセレトも信じられないように目の前の光景を眺めている。
それなのに、急いで駆け寄ってみても、網の底にあるのは固い石の床だけだ。
「どうして……」
――逃げられるはずがないのに……
「コルギー!」
俺はこの通路の行き止まりで待ち構えていた親友の名前を呼んだ。
「お化けはそっちに行ったか、どこかの部屋に逃げたか!?」
「いや! 部屋は全部鍵をかけてある!」
そうだ。それにたとえコルギーをすり抜けたとしても、その奥は行き止まりで逃げ場などあるはずがない。
「まさか消えたのか……?」
ごくりとコルギーが唾を飲み込んでいる。
「馬鹿な! そんな筈があるか!」
それなら正真正銘のお化けになってしまう!
だが、辺りを見回したラセレトが突然目を大きく見開いて、指を指した。
「おい、リトム。あれ――!」
「うん?」
その指の方向を急いで振り向いて、俺は驚愕に固まった。
さっきまで追いかけていたお化けが、長いマントを風に翻して翳っていく窓の向こうに立っているではないか。四階の何もない虚空に!
「なっ……!」
「まさか本当のお化け!?」
けれど、窓辺に急いで駆け寄った俺達の前で、そのお化けは手だけをマントから出すと挨拶をするように胸にあてた。
そしてふっと姿が消える。
「なっ……そんな馬鹿な!?」
慌てて窓辺に駆け寄ったが、まだ明るい空の向こうには誰の姿もない。急いで周りを見回して、階下の地面に似た姿がないか探したが同じことだ。
「正真正銘のお化け……?」
「そんな筈あるか!」
肩を両手で怖そうに抱くコルギーにたまらずに叫んだが、ますますわけがわからない。
「兄さん?」
振り向くと、階下で待機していたはずのアーシャルが走って来る。
「音がしたけど、まさか出たの?」
その言葉に俺は眉を寄せた。
「見なかったのか?」
階段を上って来るのを――
「何が? 僕は待っていたら、突然音がしたから慌てて上ってきたんだけど!」
じゃあ、やはりあいつは忽然と、この階に現われて、空中に消えていったことになる。
――なんだ!?
幽霊でないなら、相手は化け物か魔物か?
どうしてそんなものがこの学校をうろついている!?
ただの人間の学校に――俺は歯噛みしたいような悔しさに、手をきつく握り締めた。