(3)そういえばそうだった!
その夜、俺は寮に帰って着替えをしてから机に向かっていても、いらいらした気持ちが収まらなかった。
――夕方のあれはなんだったんだろう?
俺は脳裏に今日の夕方に出会った不審者を思い浮かべ、小さく唸った。
濃い灰色のマントを全身にかぶっていたせいで、顔も年もわからなかった。強いて言うのならば、俺より少し背が高い――。だが、それさえも靴の分厚さがわからないのでは、実際どれぐらい違うのかもわからない。
確かなのは、俺たちを見て逃げ出したこと。それだけで怪しさは満点だ。
――あんな何もないところに出るなんて、教授たちのしまっている物にでも用があるのか?
あんなところに金目のものがあるとは思えないが、教授達が使っている資料などには意外と古い物や曰くつきの品もある。
――お化けと言われるほどだから、そういうものの収集家とか?
それともただ売り払うことを目的にした強盗かもしれない。
――どっちにしろ。
俺は椅子にもたれて、その背を軋ませた。
――絶対に捕まえてやる! 俺の必殺十倍恨み返しを喰らいやがれ!
そうにやりと笑うと、後ろでアーシャルが小さく溜息をついているのが聞こえた。
「うん? どうした?」
何かわからないことでもあったのか?
なにしろ人間の生活は初めてだ。帰ってきたら、コルギーが下級生に頼んで探しておいてくれた古い二段ベッドが届いていたお蔭で、どうにか寝場所は確保できたが、やはり慣れない人間の生活には戸惑うことも多いのだろう。
けれど振り返った先で、アーシャルは二段ベットの下のマットに座ったまま、じっと手の中に浮かべた炎を見つめている。
「うん――父さんと母さんに炎の中に文字を書いて送ったんだけど、返事がないなあと思って……」
ああ。火竜の使う火手紙か。炎の玉で来るけれど、その中に文字が白く燃えているから、あれすごく眩しいんだよな。
「母さんは温泉に行っているんだろう? どっちも留守なだけじゃないか?」
「うん――でも、兄さんがいなくなってからは、留守がちでも大抵どっちかが一緒にいてくれたんだけど……」
おかしいなと、返ってこない返事に首を傾げている。
そうか。火竜同士なら、相手の持っている火に言葉だけを浮かべることも上級者ならできるんだったな。って、いつの間にこいつそんな術までできるようになったんだ?
「お前が大きくなったから安心しているんだろう? それともお前まで家出したと思って大騒ぎしているのかもな」
「うーん。あの無口な父さんが、そんな面白おかしいことになっているのなら絶対に見てみたいけれど」
「それ母さんに言うなよ? 絶対に喜んで企むから?」
今度こそ父さんの鱗が剥げるぞ?
そう言うと、アーシャルがくすっと笑った。
「そうだね。きっと気がつくのが遅れているだけだと思う」
そして手の中の炎を、両手を合わせてぱんと閉める。
「それにほかからはいっぱい返事が来たし!」
「ほか? ――って、誰に……」
爺さん竜達に到っては、あまりに竜の寿命が長すぎて顔を合わせたこともない。
各竜族の長老かなんかだろうか?
「えーとね、もうすぐ来ると思うよ!」
そのアーシャルの声と共に、俺の横の窓が突然激しい音をたてて開くと、凄まじい勢いで夜風が入り込んできた。
「なんだ!?」
それが部屋の中を渦巻き、机の上のランプを点滅させながら、周り中の本や紙を巻き上げていく。俺の手に、紙が怜悧な切っ先を向けて跳ね上がっていくが、肌が切れなかったのはひとえに長袖を着ていたからだろう。そうでなければ、今頃顔を庇った腕は両方ともずたずたになって、鮮血にまみれていたのに違いない。
その中でも、アーシャルは涼しい顔で立っている。
そのアーシャルの周囲をつむじ風は、ごうっと音をあげて、三回ほど紙を天井まで巻き上げて不意に収まった。
「やあ、お久しぶり。皆さんお元気そうで」
にっこりと薄く笑うアーシャルの声に、俺がやっと収まった風に腕の中から顔を上げると、目の前に四体の異形の姿が立っていた。
一体は鮮やかな美しい女の頭に、大きな翼を持った鳥の胴体。ハーピーだ。その横には多頭の蛇であるヒドラが鎌首をもたげてこちらを見下ろし、その横ではドワーフと人喰い鬼のオーガがこちらを見つめている。
なんなんだ! なんで、こんなに魔物関係が一斉に俺の部屋に集合するんだ!?
「なんだ、こいつら!」
俺は自然に腰に下げていた剣に手を伸ばした。
けれど、その前でアーシャルが鮮やかに微笑む。
「皆さん、ようこそ」
え? 知り合い?
そのアーシャルの言葉に、剣にかかった俺の手が止まったのと同時に、目の前の魔物たちの顔が一斉に涙に緩んだ。
――なんなんだ! その生温かい眼差し!?
それなのに、俺の前でそいつらは突然目頭を熱くすると、拍手しながら俺を見つめているではないか。
誰か、頼むからこの状況を説明してくれ!
「おめでとう、火竜」
すると、中で一番怖そうな顔をしたヒドラの頭の一体が声を発した。
「お兄さん、見つかったんだって?」
「ええ! 先日無事に見つかりました!」
「おおおおっー!!」
それにどよめくような拍手が歓声と共にあげられる。
おい。頼むから、少しだけ俺に事態を説明してくれ。
それなのに、突然来た魔物たちは互いの頭を寄せ合うようにして、うんうんと頷いている。
「よかった……! これでもう火竜の襲撃から逃れられる……!」
「おおっ。オーガ殿のところも。うちも黄色い髪の魔女を見かけなかったかと、どれだけの仲間が襲われたか」
そう感極まっているのはハービーだ。
「は?」
けれど、疑問の声がもれた俺を無視して、ドワーフはさめざめと泣いている。
「うちは、魔女が泊まったというだけで火竜に村ごと焼き払われそうになって……」
「そうそう。隠しているのなら、今すぐ巣ごと焼き払うと。うちも水を好む蛇だからと、何度水竜を見かけなかったかと襲撃されたか」
「アーシャル!!!!」
俺は凄まじい速度で、斜め横を見ている弟を振り返った。
「お前! 何、人様に大迷惑なことをしていたんだ!?」
いや、人じゃないのか。他魔物様というべきなのかもしれないが、今はそれどころじゃない!
けれど、うーんとアーシャルは首を捻ると、すぐににこっと笑う。
おい、お前何故この状況で笑える。時々、本気で怖いぞ?
「あ、その時は悪かったね」
――絶対に少しも反省していない!!
そう俺が直感できるほど、満面の笑みで謝罪をすると、そのまま俺の方に左手を伸ばす。
うん?
「でも、ほら。これが探していた僕の兄さん。ね? 話したとおりすごくかっこいいでしょ?」
――お前自慢したかっただけかー!!!
すると、ぽろぽろとドワーフが涙をこぼしてアーシャルに手を差し伸べた。
「本当だ。今度こそ末永く二人で暮らすんだよ」
それにハービーが飛びながら、美しい声で頷いている。
「そうそう。二度とお兄さんをほかの者に奪われず温かい家庭を築くのよ」
「うんうん。未来は二人のためだ」
「ちょっと待て! 何で俺とアーシャルが夫婦みたいなノリになっているんだよ!?」
さすがにオーガにまでダメ押しをされたら、つっこまないわけにはいかない。
それなのに、なぜか訪ねてきた四体の魔物は生温かい瞳で見守っている。
――その瞳はやめろ!
けれど、焦る俺にヒドラがひどく優しい瞳を向けてきた。
やめてくれ。九つの頭の目全てでされると、なんか精神への圧迫が凄まじいんだが。せめて、戦う眼差しならいいのに、こう慈愛をこめながら魔物に見つめられると、正直背筋がざわざわと落ち着かない。
「いやいや、水竜。ぜひ兄弟で仲良く暮らしてくれたまえ」
「火竜、なんなら二度とお兄さんを逃がさない呪縛の方法を教えてやろうか?」
「え? 本当?」
おい、このヒドラの別の頭何を言い出してくれている。それなのに、アーシャルの瞳が輝いたのを、それは心底嬉しそうに見つめている。
「ああ、本当だとも。何しろ水竜さえ捧げておけば、ほかの人柱は必要ないし」
「そうよ。二度とほかの女なんかにとられるじゃないわよ?」
おい、ハーピー。この場で焼き鳥にしてやろうか?
「必要なら、わしが兄さんを捕まえるドワーフ特製の鎖を作ってやるから」
「いや、オーガの経験で檻を作ってやろう。それなら、簡単に女と駆け落ちはできまい」
「うーん」
――おい。まさか、ここにいる連中全員、俺に恋人ができるのを反対なのか?
そして、まさかと思うけれど、その原因中心人物は――
俺は初めて、自分の弟の無邪気な笑顔を怖いと思った。
「うん! 必要になったら教えてね!」
――やっぱりお前のせいかー!!!!!
俺はやっとアーシャルが、竜の中で一番凶暴な火竜なのだという事実を肝に刻んだ。