(2)お化けだからって許さないぞ!
陽が暮れ始めた西の校舎で、俺は箒を持って広い石畳の通路を掃いていた。
さすが、普段使われていない区域だ。三階までは生徒の出入りもあるが、この四階は教授達が授業に必要な物品をしまっているだけの区域だから、大きく開いた石造りの窓から黄色い光にのって生徒たちの声が微かに響いてくる以外に、音らしい音もしない。
「しかし、使われていない割には埃が多いなー」
後ろで手伝ってくれているコルギーが、バケツにモップを浸しながら額の汗を拭った。
「窓が昔ながらのせいで開けっ放しだからな。木の葉や砂が入ってくるせいだろう」
「まあ、古い校舎だからな」
コルギーが言う通り、普段使っている校舎とは違い、こちらは昔ながらの石を組み合わせた造りだ。昔は、ここが本校舎だったというから、おそらく騎士養成剣術学校の中では、一番歴史が古い建物なのだろう。
「まあ、おかげで景色は絶景だけどな」
その言葉に、俺は顔をあげた。するとそこからは剣術学校全体が一望でき、隣りのアルスト二アス国立大学まで見える。
もちろん、剣術学校ではほとんど出会わない女学生の長いスカートが翻る様も見えて眼福だ。
「うん。そうだな」
実に心が洗われる。この光景が、ここから見える俺の教室からも眺められたら言うことがないのに――向きが反対になるのが実に惜しい。
「ところでさ」
顎に箒の柄を当てたまま頷いた俺を見つめて、コルギーがモップをばしゃっとバケツの水から上げた。
「お前、アーシャルには掃除を手伝わせねえの? あんなに怒っていたのに」
それに俺は振り返って瞳を開いた。
「お化けと聞いただけで震えて怖がっていたからな。泣いたらかわいそうだろう」
「お前何だかんだで弟には甘いよなー。それぐらいなら、殴るなよ?」
「大丈夫。後できちんと撫でておいたから。プラスマイナスゼロだ」
「いやあ……助けた挙句殴られていたら、果てしなくマイナスな気しかしないんだが……」
「そうか? 一応サービスして三倍撫でてやったら、にこにこしていたぞ?」
「さいで。お前ら兄弟の感覚は常識人の俺にはちっともわからん」
ちょっと待て。それはどう聞いても、俺が非常識としか言っていないような気がするんだが?
それなのに、コルギーときたら、モップをかけながら、暗くなり始めた周囲を気持ち悪そうに見回している。
「ところでお化けが出るって本当なのか? 確かに何か出てもおかしくないような雰囲気だが」
古い石造りの建物は、陽が傾くのと同時に、廊下や階段の隅に影を溜めていっている。そのどれかが今にも動き出すんじゃないかとコルギーの瞳が薄気味悪そうに動くのを見て、俺は掃いた埃を集めながら溜息をついた。
「馬鹿か。お化けなんているはずないだろう?」
「でも、出るって言われたんだろう? お化けを退治して来いって」
「ああ。つまりお化けといわれる正体不明の不審者がいるってことだろう? それがこの辺をさ迷っているから、捕まえて正体を暴いて来いってことさ」
「不審者!?」
「おい。――まさか、本当にお化けと思っていたのか?」
だとしたら、こいつ。実はアーシャルと感覚が近いんじゃあと俺の目が半眼になった時だった。
けれど、コルギーは胸を押さえながら、必死で後ずさって笑っている。
「嫌だなあ。そんな筈ないじゃないか。嫌だなあ! あ、そうか! 不審者ね!」
「おい」
その様子にますます俺の目が半分に下がった。
「お前、その後ろに」
少し驚かしてやろう。
薄く笑うと、俺が右手を持上げて、コルギーの背後の暗がりを指差した時だった。
ダアンと激しい音が近くから響いて、何かが転がっていく大きな音がする。
驚かす筈だった俺とコルギーの背中が、その音に一斉にびくっと跳ねた。
――なんだ!? まさか、本当にお化けがいるのか!?
ここには俺たちしかいない筈なのに――
けれど、びくっと顔を上げた先では、短い髭に灰色の髪を後ろに撫で付けた教養礼儀学の先生が、通路からやってくる。
――まずい!
と思ったが、相手の視線が俺達を見つけるほうが早かった。その瞬間、ただでさえ鷲のようなソンニ教授の瞳がじろりと睨みつけてくる。
「リトム・ガゼット! コミルーズギーレックス・ダモン!」
その声に俺達の背中がびくっとする。
――しまった! 完全に逃げ遅れた!
「君たちか!? こんな暗がりで石畳を水浸しにした挙句、掃除用具を通路に置いているのは! 君たちは私の礼儀の授業で普段何を聞いているのだ!?」
「すみません! 片付けて後で拭き直します」
本名を呼ばれたコルギーが丁寧に頭を下げているが、この先生はなんでいつも俺達を目の敵にするんだ?
「まったく! 人が通る通路に物を放置しない! 礼儀どころか人として当たり前のことさえ覚束ないとは! これだから平民出身の者は教養が低いと言うんだ!」
「なっ……!」
ちょっとよく見たらわかることに注意を払わなかったのはそっちじゃないか! 転びそうになった腹いせに怒鳴りつけるな!
けれど、口を開こうとした俺の腕をコルギーが掴むと、その前に出て塞ぐ。
くそっ! 背が高いせいでむこうがよく見えない!
「申し訳ありません。これから重々気をつけます」
「そうしてくれたまえ。まったく、こんな教養の低い者たちを騎士に加えられるほどに育て上げねばならんとは――少しは貴族出身者の洗練された所作を見習って欲しいものだ」
呆れたような声と共に、怒りながら歩き去っていく足音が聞こえる。
それが近くの扉を開けて、その中に消えていくのと同時に、やっと俺の視界がコルギーの背中から解放された。
「お前! なんであんなに言われっぱなしにしておくんだよ!?」
「アホかー。ここで言い返したら、お前、やっとせずにすんだ留年を間違いなくさせられるぞ。それともやっぱりしたかったのか? だとしたら、すまん」
「そんな筈あるか!?」
やっぱりお前の中の俺の認識はどうなっている!?
だけど、コルギーの気遣いがわかって、俺は一度大きく息を吸い込んでゆっくりと吐いた。
「まあ――助かったよ、すまん」
「おおっ! 珍しく素直になったな。どうした、腹が立ちすぎて頭の血管が遂に切れたか?」
「俺の血管が切れるとしたら、間違いなく原因はお前だよ!」
しかし、コルギーは全く動じていない。やれやれと笑うと、さっきソン二教授をつまずかせたらしい通路の端に散らばっている蜘蛛の巣取り用の天井箒やごみ入れを片付けに歩いていく。
「ま、もう終わろうぜ。これ以上また怒られても嫌だからな」
「そうだな……」
「しかし、お化けは出なかったなー出たのは薮蛇だけっていうのが笑えなくない?」
「むしろあいつを不審者として突き出してやりたいぐらいなんだが――何か方法はないだろうか?」
「おい、頼むからここで考え出すな。お前本気だろう?」
けれど、考え込んだままの俺の後ろで何かの影が横切った気がした。
――うん?
今何かがさっきまでいた通路を横切らなかったか?
「おい! あれ!」
けれど、コルギーの叫びに俺が振り返ると、奥の通路に閃いて消えていく長い灰色のマントが見えた。
「待て!」
それを視界に捕えるのと同時に、急いで踵を返して走り出す。
――そんなに距離は離れていない! これなら十分に捕えられる!
「あれが例の不審者か!?」
「多分――」
やっと現われたな、お化け!
急いで通路を駆けると、灰色のマントが俺達に気がついたらしい。その中に包まれた顔は見えないが、追いかけてくる俺達に驚いたように一瞬こちらを見つめて、また走り出す。
速い!
――だけど!
「馬鹿め! そっちの奥は行き止まりだ!」
本当は階段があるが、今は途中の石が壊れているために、柵を作って入れないようにしてある。
――これなら、捕まえられる!
相手は俺より身長が高いようだが、こっちはコルギーと二人がかりだ。たとえ大人相手でも、取り押さえられるだろう。それに剣も身につけている!
――いける!
そう気分が高揚した時だった。
突然足が大きく床を捉えそこなって滑ると、派手な金属の音がして、石畳にバケツが転がっていく。
それと同時に尻と肩を強打して、目が回った。
「うー……」
自分が滑って転んだのだということに気がつくのに時間がかかった。だけど、横を見ると、一緒に走っていたコルギーも俺と同時に転んだらしい。痛そうに打った額を押さえている。
「なんでこんなに濡れているんだよ!?」
「おかしいなー。ここまでびしょびしょにしたつもりはないんだが……」
痛さにしかめた瞳を薄く開いて見つめると、バケツが転がって辺り一面水浸しだ。多分、走る足が気づかずにバケツを蹴ってしまって、それで広がった水で転んだのだろう。
それにしては、少し多すぎる気もするが。
「いてえ……このバケツこんなに水入れていたっけ?」
「くそっ!」
濡れた尻と背中が気持ち悪い。
けれど、顔を必死であげると、この隙にさっきのマントの人物はどこかへと消えていた。
――まさか。
急いで体を起こして突き当りまで走るが、覗いた石の角の向こうは、右手に柵で仕切られている石が崩れた階段と、左手に大きな窓が外に向かって開いているだけだ。
窓の外は、もちろん垂直な壁で逃げ場などない。
――だとしたら……
あいつは、この壊れた階段から下へと逃げたということだ。
「野郎……」
ぱんと俺は拳を叩いた。
男か女かなんて知らないが、俺をこかして水竜を汚水まみれにしてくれたのだ!
「絶対に捕まえてこの借りを返してやる!」
――一度恨んだ俺の報復から逃れられると思うなよ!?
なにしろ八つ当たりはソンニ教授より俺の方が得意技だ。おまけに今回は正当な怒りの理由もある。
――絶対に捕まえて正体を暴いてやる!
灰色のマントの相手を思い浮かべ、俺は瞳をあげた。