(3)なんのことだ?
夕食を食べ終わった俺は、二階にある俺の部屋にアーシャルを案内した。
「ここだ。久しぶりに使うから、今窓を開けるな?」
多分母さんが時々換気してくれていたのだろう。帰ってきたのは数か月ぶりなのに、思ったほど空気はこもっていなかったが、鼻のいいアーシャルの為に窓を開けてやる。
暗くなり始めた夜に窓を押し開くと、外では星が瞬き始めていた。月の光に空気が澄み、通りに面した食堂からは楽しそうな喧騒と暖かい明かりが暗い夜道にこぼれている。
家々からこぼれる夕食の匂いがふわりと、風と一緒に部屋に流れ込んできた。
「人間の食べ物は大丈夫だったか? 野菜が多くて悪いな」
多分あまり好きじゃなかった筈とアーシャルを振り向くと、そのアーシャルは床に座り込んで近くにあったクッションを両手に持って噛み付いていた。
「アーシャル?」
なんでクッションなんか齧っているんだ?
それなのに、アーシャルはぎりっと赤い瞳をよせると、悔しそうにクッションに歯をたてたままそれを引きちぎりたいように引っ張っている。
「あいつら――僕の兄さんを取りやがって……!」
「え?」
「それだけじゃない! 図々しく妹面して僕から兄さんを横取りするなんて! 今すぐにでも八つ裂きにしてやりたいのに、腹がたつことに今の兄さんとちょっと似ているからそれもできないし!」
「ちょ、ちょっと待て! 何でいきなり抹殺計画をしているんだ!?」
「だって! 僕が兄さんと一緒にいるはずだったのに! それなのに知らない間に僕以外と家族になってしかも暖かい家庭を築いているなんて!」
「だからってその俺が史上最低の浮気男みたいな表現はやめてくれ!」
それじゃあ、まるで俺が二股した挙句恋人を捨てた男にしか聞こえないだろうが!?
「だって――! 僕だって寂しかったのに……! 僕達以外が兄さんの家族になっているなんて…………」
そう言うと、口に咥えたクッションをそのまま膝に抱えて、その中に顔を埋めてしまった。
その瞳には少しだけ透明なものが光っている。
それがアーシャルから抱えているクッションに静かに吸い込まれていく度に、クッションが嗚咽を呑み込んだように震えている。
僅かな明かりに光る、アーシャルの赤い瞳からこぼれていく澄んだ涙に、俺は息を呑んだ。
そして、小さく息をこぼす。
「アーシャル」
そっと手を伸ばすと、その下でびくっとアーシャルの肩が揺れている。怒られる――そう身構えているのが丸わかりだ。
「悪かった」
心からの詫びをこめてその赤黒い髪をゆっくりと撫でてやると、俺の優しい仕草に驚いたように、アーシャルの瞳がクッションから跳ね上がった。
「俺にもまだなんでこうなったのかわからないんだ。でも、悪かった一人にして」
今でもお前は俺の大切な弟だ。
そう言葉にしてやれたら、きっともっと安心させることができるんだろう。それなのに、この意地っ張りな性格が素直にそれをさせてくれない。せめてもの精一杯表せる謝罪をその右手にこめて、俺はさらさらの髪を撫で続けた。
「兄さん……」
そのきょとんとした顔が警戒もなく俺を見つめてくるのが、本当にかわいい。
この気持ちは――今の妹のユリカに抱くのと、少しも劣ることはない。だから、やっと俺も笑って、同じ目線でアーシャルを見つめることができた。
「それに顔ならお前の方が俺に似ているだろう? 俺はだいぶ人間臭い顔になったが、今でもユリカが瓜二つと認めるほどだし」
そう言うと、急にアーシャルの表情が変わった。ぴょこんと顔が持ち上がり、急に満面の笑みを湛え出す。
「そうだよね! まだ僕の方が兄さんに似ているし」
うんとさっきまで涙をこぼしていたクッションを抱えて頷いている。
――わかりやすい奴。
「でも、俺に似ているってことはお前も女にはもてなさそうだなあー喜んでいいのか悩むぞ?」
「あ、大丈夫。それなら全く心配いらないから!」
――うん? その反応は兄ちゃん悩んでしまうぞ?
いや、まさか女性に興味がないってことはないと思うが――
「お前、もてたくないのか?」
「いやだなあ。兄さんそっくりでもてない筈がないじゃない?」
いや、俺がもてた記憶はないんだが……。なのに、何を根拠にそう言い切るのかがわからない。
それともどこかで女性に好かれているのを知っていたのに、黙っていたとかはないよなあ?
まさか――
ちょっと怖い想像になってしまって、俺は頭を切り替えようとそれを忘れることにした。
――ないない。だって、今でももてていないんだから。こいつが原因なら、今は恋人ができていてもおかしくないはずだ。
「それよりも」
「うん?」
俺は急に口調を変えたアーシャルを驚いて振り返った。
「あの二人、何か隠しているね」
「あの二人って――父さんと母さんか?」
何の根拠があってと眉を顰める俺の下で、アーシャルは首を縦に振って頷くと、鋭い視線を古い木の扉の方へと向ける。その向こうには階段があり、食事を終えた父さんと母さんが今もいる筈だ。
「さっき一瞬変な感じがしたんだ。兄さんは自分自身のことだから、そんなのに気がつく余裕もなかっただろうけれど」
「変な感じ?」
「だから音声を伝える魔法を暖炉の火にかけておいた」
そう言うと、竜の手の中に赤い炎がゆらゆらと立ち昇る。
その中では、青い顔をした母さんが深刻そうに父さんを振り返ってその胸に縋りつくように見上げている。
「リトムは――どうして――あんなこと、を」
話が聞き取りにくい。
多分、火竜のアーシャルなら明確に聞こえているのだろうけれど。しかしその母のただごとでない青い顔に、俺は嫌な予感がして、扉を開けると足音を忍ばせて階段の上の吹き抜けまで出た。
そこは明かりをつけなければ、腰まである低い手すりの更に陰になって、下からは俺たちの顔をはっきりと見ることができない。それでもその陰の中に隠れるようにして、俺は下から響く声にじっと耳をこらした。
後ろに忍び足で近づいて来たアーシャルも俺の後ろに立ち、一緒に階下で話している父と母の姿を見つめている。
「やっぱり……何か言われたんじゃないかしら。私のことから――」
母さんが、父さんの胸に縋りついて、少し年を取ったといっても十分に美しいその細い顔を涙に濡らしているのが見える。
「大丈夫だよ、マリル」
そう話している父も少し困惑しているようだ。
「確かにあの子が生まれて来るまでは、色々不思議なことが続いた。あの光も――だけど、ニッシェおばばが言った通り、あの子を授かっているとわかってから、どんなに危ないことがあっても不思議と助かってきただろう? これはやっぱりあの子が、その強運で守っていてくれたからだよ」
だから大丈夫、今回もきっとなんとかなるさと父は、母の柔らかい黒髪を抱きしめている。
「ええ――そうね。そうよね……」
涙を拭いている母の姿を見て、俺はそっと二階の廊下の暗がりへと戻った。
――どういうことだ?
俺が生まれる前に何かがあった? それに、父の言った光。それが俺の今に関係があるのかと、指を口に当てて考え込んでしまう。
「兄さん、ニッシェおばばって?」
アーシャルが後ろから小声で尋ねた。
「ああ。街の裏通りで占いと薬草を売っているおばばのことだ。作る薬がよく効くから、小さい頃から怪我をしたりするとよく世話になっていたんだが――」
そのおばばの名前が何故今ここで出てくるのだろう?
「その人が、兄さんの生まれる前について何か知っているみたいだね?」
「ああ――」
俺が生まれる前。
何があったのか、いくら考えてもわからない。
だけど、もしそれが、今俺が竜でなく人間として暮らしていることに関係しているのなら。
「行ってみよう、明日」
わからない。だけど何か手がかりがあるのなら――なんとしても、知りたい!
ぎゅっと決意を込めて握り締めた俺の手を見て、後ろからアーシャルも強く頷いた。