(15)誤解と思い込みって、殴りたくなるところが似ている
深い。
落ちていく穴の中で、俺は記憶の中に浮かぶ家族と妹の姿を思い出していた。
――ごめん。俺がどうしても剣士になってドラゴンスレイヤーになりたいと小さい頃から言っていたから。
無理して高い学費をやりくりしてくれたのに、こんなところでお礼の一つも言えずに死んでいくことになるなんて。
死んだらどうしよう――いや、何もできないだろうけれど、幽霊になってせめて竜の頭を殴りに行こう。だが、万が一にでもここで生き残れたら。
母さん、やっぱり竜の頭を殴りに行かせてくれ!
故郷の街に残した温かい父と母の笑顔と、いつも後ろについてきた幼い頃の妹の顔を思い出し、俺が顔の側を通り過ぎていく風に落下の衝撃に備えようと身を丸くした瞬間だった。
突然、どぼんと大きな音がすると、今まで風圧で吸い込めなかった息が、今度は開けた口から押し寄せてくる水でできなくなる。
息が苦しい。
もがいて、やっと気がついた。手は折れていない。
それどころか、足だって普通に動く。
「兄さん! 落ち着いて、息をして!」
だから人間は水の中では息ができないんだよ! お前の思い込みで、俺の肺を水だらけにして止めをさそうとするな!
げほげほと咳き込みながら、水からどうにか顔を持上げると、ひどくひやりとした空気が喉から肺へと入ってきた。泳ぎが得意で助かった。これでかなづちだったら、間違いなくこの瞬間に天国の光を見ることになっただろう。
まだひどく息は苦しかったが、前髪からしたたる水の間から前を見つめると、ここは深い泉を室内に作った広大な神殿のような空間だった。暗く、あちこちにぽうっと明かりが灯っている以外に光源はない。見たこともないような奇怪な蛇の像が、いくつかその石の床に飾られているぐらいだ。
「大丈夫? 兄さん」
やっと息が整ってきて気がつくと、俺の体は水に浮かんで竜に支えられていた。
「ああ――」
その言葉で竜がほっと笑った瞬間に、俺は頭を大きく殴りつけた。
「ひどいー! なんで支えてあげたのに、殴りつけるの!?」
「やかましい! なんでゴール直前で罠に落とされないといけないんだ! お前俺を殺したいのか!?」
そうなんだな? 違うといっても、もう聞く気はないぞ?
それなのに、竜ときたらなーんだ怒っているのはそんな理由かと慣れたような反応だ。そして頭のたんこぶをさすりながら俺を見つめる。
「だってあっちがフェイクだから」
「は?」
竜の言った言葉の意味がわからなくて、俺は水から上がりながら思わずまばたきを繰り返した。
「だから、三階の扉に《?》ったあったでしょう。つまりあの扉がどこに通じているかは謎で、死に通じるダンジョン主への扉は髑髏が描かれたこっちってこと。元々、このダンジョン、三階まで行かないと地下のこの部屋にこれない仕組みにしてあるしね」
「腐ってやがる。このダンジョン主の発想!」
本当に一度その面を拝んでみたい。
どうしたら、ここまで陰険な罠やフェイクを仕掛ける気になるんだ。絶対に極悪な発想と根性の持ち主に違いない!
「んーじゃあ、あそこにそのダンジョン主がいるけど?」
そう言われて竜が指さした先には、長い緑の髪を白い石の床に広げた美しい一人の女がいた。
あれ? 何か怒っている?
そういえば、水に落ちたせいで俺が立つこの辺りの石の床が水浸しだ。だけど、これはそちらがこのダンジョンをそういう設計にしたんだから、諦めてくれとしか思えないのだが。
「また、あんたなの?」
けれど、そのダンジョン主は俺の隣りにいる竜を見つめると、きっと眉を吊り上げた。
わっ! 女神のような美しい姿で怒ると怖いほどの迫力だ。手に杖を持ち、神話風のひだがたくさん入った白い服を着ているが、吊り目をきりきりと上げていては折角のその雰囲気も台無しだ。
「マーム」
けれど、竜はそれをなんとも思っていないようにその女性に話しかけた。
「ひっさしぶりー!」
「二度と来るなって言ったでしょ!? 何回来ても、私はあんたの兄の居所なんて知らないし、私の薬はあんたには効かないって言ってるのに!」
やっぱり相当怒っている。当たり前か、修理の手間と費用を考えても、あれで怒らなければ最早完全な神の領域だ。だが、どう見ても、この竜がマームと呼んだ女性は違う。おそらく、どちらかといえば、対称の魔物の領域の女性だろう。
だけど、竜はそれににこっと微笑んだ。
「ああ、それはもういいんだ。僕の目も治ったし、今日は兄さんの付き添いだから」
「え、兄?」
その瞬間、マームという女性の鋭い緑の視線が俺に注がれた。
それに眉がよせられ、怪訝げに吊り上げられる。
「ああ、見つかったの。昔より、術が上達したのね。ぱっと見るといたぶりがいのある人間にしか見えない程、うまく正体を隠しているから気づかなかったわ」
「ちょっと待て! 人違いだ! 俺はこいつの兄じゃない!」
俺は誤解を解こうと叫んで立ち上がったが、それにますますマームは眉を顰めている。
「なあに? また兄弟喧嘩したの?こいつとなんて兄弟じゃねえは散々聞き飽きたけど、いい加減そろそろ大人にならない?」
ちょっと待て。なんで真面目に誤解を解こうとした結果が、そんなに残念そうに溜息をつかれないとならないんだ。
「まあ、いいわ。で? ここに来たのは一応薬が欲しいの? また単なる迷宮破壊遊びなんて言ったら、今すぐ三階のゴーレムを解体して、お前たちの上から落としてやるけれど?」
「完全に殺す気満々だな」
「当たり前でしょ? まったくなんで蟻やゴキブリの殺虫剤はあるのに、竜だけはないのかしら?」
「それは間違いなく竜が虫じゃないからだ」
「じゃあもうトリカブトでいいわ。ヒグマも倒せる毒なら、せめて痺れさせて迷宮の外の燃えないごみの日に出すことってできないかしら?」
――おい。こいつ。
「俺は、竜は生ものだとおもうが?」
「ええっ!? 兄さん、よりによって反論はそこなの!?」
「そうね。確かに間違っていたわ。明日が近くの村の燃えるごみの日だから、おとなしく袋に入ってくれない?」
「その前に俺にあいつを三十発ほど殴らせてくれたら考えてやろう」
「そんな!?」
竜が後ろでショックを受けているが、さっき俺を予告もなく突き落としてくれたんだ。これぐらいの意地悪はいいだろう。
「いいわよ? ただし、私にも二人とも三十発ほど殴らせてくれたらだけど?」
「それは断る」
なにが悲しゅうて、竜と同じたんこぶを作らねばならん。けれど、その瞬間マームの気配が変化した。
緑の髪がゆらりと広がり、まるで値踏みをするようにこちらを見つめてくる。
「ふうん、相変わらずね。水竜のガキ。やっぱり私がその火竜を傷つけるのは嫌なのね?」
「いや、完全な誤解なんだが」
むしろ叩いてこいつの頭の花が治るのなら大歓迎だ。しかし、どう考えても、これ以上ぱっぱらぱーに咲き誇る光景しか想像できない。
けれど、マームはふうんと酷薄な表譲を浮かべると、俺を細くなった瞳で見下ろした。その体は微かにだけど、確かに空中に浮かび上がっている。
「で? 水竜。わざわざ人間に化けてまで、弟とまた私のダンジョンを訪ねて来たのは薬が目的なの? それとも、また助言が欲しいの?」
何か勘違いしていないか、こいつ。だが、俺はマームが放つ禍々しいオーラにおされて、必死にそれに負けないようにその薄く笑っている緑の瞳を見返した。
「薬だ。それが必要なんだ!」
剣士試験に合格するために――
そして、家族を守るために。
するとふうんとマームは笑って肩を竦めた。
「いいわ。じゃあ、薬が欲しかったら、選びなさい。私のしもべと戦うか、私の靴を舐めて服従を誓うか、それとも私とじゃんけんをして勝つか――どれでも、あなたの好きな方法でいいわ」
――おい。
耳に聞こえた選択肢を疑った一瞬だった。
「じゃあ、一番のしもべと戦うで」
横の竜が間髪をおかず、大真面目で言い切ったのだ。
「おい!なんで一番危険なのにする!?」
「え? だって生死をかけたら、昔のこと何か思い出すかもしれないし」
「ここに来てもそれか!?」
ぶれてない。だが。
「じゃあ、お前さっきまで真っ青になって俺を心配していたのは一体なんだったんだ!?」
逆にものすごく矛盾していないか? それなのに、竜はそれを聞こえないふりをしているのか、振り向きもしない。
おい。
だけど、代わりにそのままマームを見つめると、冷たい瞳でその姿を見つめている。
「あ、でもマーム。兄さんを殺したり怪我をさせたりは許さないよ。とことんいたぶる以上のことをしたら、僕が今度こそ、ここを完膚なきまでに破壊するからね?」
「おまえ、止めることはそれだけか!」
どうせならいたぶるのも許可しないでくれ!
けれど、息を荒く叫んだ俺に竜は顔を近づけると、ひそと囁いた。
「どうせじゃんけんなんてマーム得意の八百長に決まっているよ。それに靴を舐めた挙句に、ハイヒールで背中と頭を踏まれて兄さんが変な性癖に目覚めても困るだろう?」
「竜――」
――それはそうかもしれんが、とりあえず俺がそれを快感に感じるという思い込みもなんとかしてくれ!
なんだろう、このやり場のないもやもや感。
「わかったわ。私が殺したり傷つけたりしなければいいのよね?」
少しぷくっと不満そうに唇を尖らせているが、どうやら竜の脅しの効果はあったようだ。
仕方ない。
多少釈然としないものはあるが、と俺は立ち上がると、泉の側に落ちていた剣を拾った。
そして構えた。
そのときだった。突然、上から激しい落下音がすると、どほんと泉にいくつもの手足が蠢いたのは。
「あら、また攻略者?」
嫌そうにマームが眉を顰めるのに、そちらを見つめると、泉の上に浮かんだその顔に俺の視線はそこで止まった。
「サリフォン!?」
――まさかもう追いついてくるなんて――
水に浮かぶその金色の頭に、俺は唇を噛み締めた。