三 ふゆがれのすさまじきなる山里に 月のすむこそあはれなりけれ
魂魄はどこに宿るのか。頭の中か、心の臓か。それともその肉体そのものなのか。死せば肉体から魂魄から離れ、中有をさまよい、浄土へ或いは新たな輪廻へと旅立っていく。
また心とは何であろう。生まれたばかりの赤子は言葉を発しない。ただ泣き、意味をなさない声を出して親を呼ぶ。親の腕に抱かれ、笑い掛けられ、話し掛けられながら、ものを覚えて、人として知恵がついていく。
西行は心が無いと人形に言葉を教え込もうとせずに捨ててしまった。
心が無いとはどのような振る舞いか。
俗世を捨て、み仏に仕えるのは、この世への執着から逃れ、悟りを開いてゆくため。仏もかつては人であり、太子の地位も栄華も妻子も捨てた。無常を知り、修行の中で悟りを開き、再び迷わなかった。
迷うばかりが人の世か。
末法の世の中を生き、西行の目には、源平の戦いで亡くなる人々の姿、荒れた都、胸を張って我が物顔で進む武士たちの隊列、どのように映っていったのだろう。
かつて北面で共に御所に詰めた同僚であった平清盛、やんごとない身分でありながら争いに敗れ讃岐の地で亡くなった崇徳院。出家の際に父にまとわりつこうとするのを足蹴にしてしまった娘。多くの人と別れてきた。
年年歳歳、花は変わらず。歳歳年年、人は変わりゆく。
なべて世は無常、そして人は煩悩を捨てきれない。煩悩を晴らすが仏への道と知っていても、全ての執着を消し去るのは難しい。
西行は月を眺めて嘆息していたのだろうか。それとも月のよう人の心を超越できたのだろうか。
冬、雪が降り積もり情趣の無き冬枯れの景色に、月は冴え冴えと冷たい輝きを送る。季節に関わりなく。
ふゆがれのすさまじきなる山里に 月のすむこそあはれなりけれ
お題「西行法師」と「人造人間」
『撰集抄』の中のエピソードを繋いで創作したオハナシです。史実の西行とは言動が違っています。多分。
参考
『撰集抄』 西尾光一 校注 岩波文庫
『西行の世界』 山本幸一 塙新書