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一 西行、思わぬ場所で人と邂逅(あ)う。

及びもつかぬ世界観を拡げ、幻想の波に漂う悦びを与えてくださる錫さんに感謝をこめて。

 佐藤 (のり)(きよ)が北面の武士の地位を、妻と幼い娘を捨てて世を捨てたのは(よわい)二十三の時であった。突然の出家であり、周囲は驚いたが、佐藤義清改め西行法師は関わりのある人たちへの挨拶を済ませ、妻子を親族に託し、出家の暮らしを始めた。

 新参の僧として寺で修行を続け、その後各地を漂泊して過した。やがて吉野に庵を設けた。吉野の山奥で暮らすこと、みととせが過ぎた。人々の諍い、喧騒から離れ、静かに、質素に勤行に励む日々だった。

 在俗の頃は出家したらどのように変わるのであろうかと多少の疑いがあったが、全く違った目で世を眺めるようになり、澄んだ心を保ってきた。山の稜線、木々の姿、花の色、季節ごとに変わりゆき、風に揺れ、憂き世の儚さを知らせてきた。

 春には緑萌え、ぐんぐんと草も木の枝の葉も伸び、花の蕾が誇らしく開いていく。夏は伸びた草や葉が生い茂り、歩くのもままならぬほどとなるが、暑さしのぎにもなる。虫が飛び交い、また花が色濃く香る。秋はそれが少しずつ色を変え、枯れ、散っていく。冬は山のこととて、雪が降り、冬枯れのすさまじき情景となる。

 その中で、水を汲み、身や住まいを清め、少しばかりの食事を摂り、経を詠む。折々浮かんだ歌を書き記す。土を耕し、蔬菜を育てるのにも慣れた。

 風で水面を波立たせる湖が、次第に乱されぬようになり、波が失せ鏡のように月や景色を映すように、自らの心が改まっていると、西行は奢ることなく信じるようになってきた。

 年が明け、弥生となり、山桜が咲いた。

 庵から桜の咲き誇る様、風に揺られ、花弁の散るのを眺めていると、木の側に年齢が五十ばかりであろうか、一人の僧がいつの間にか来ていた。破れた衣を着て、食べ物を包んでいるものを袖にくるんで持っている。


 ――この世の住み難さよ。人の屋の門で袖を広げて食べ物を得ているのだろうか。


 西行は、痛ましさからつい念仏を唱え始めた。僧がその様子に気付いて立ち去ろうとする。同じ僧形のものではないか、いたたまれない気持ちにさせて去らせてはならない、少しも見苦しいと感じていないのだからと、声を掛けた。


「もし、花を眺めていってください」


 僧は嬉しそうに足を止めた。


「有難いことを仰言られる。

 咲かぬまもさてこそすぐれ山桜 さのみや花のかげに暮らさむ

 ――咲かない間も優れた風情の山桜 それで花のもとで暮らしているのでしょう」


 僧が詠みかけてきた歌にただ人とは思えぬと、西行は歌を返した。


「咲かぬまは花をのみまつ旅人の 咲けばなどてかながめざるらん

 ――咲かない間も花を待つ旅の人 花開けばどうして眺めずにいられましょう」


 僧は親しさを覚えたのか、こう誘ってきた。


「我もこの山の奥に、俗世を逃れて暮らしています。我の住まいを見てみませんか」

「それは是非とも」


 こうして西行は僧に連れられ、更に奥に入っていった。案内された場所は山桜が四、五本、松があり、その側に松で屋根を葺き建てている住まいであった。着ている衣以外はほとんど持ち物のない清貧の暮らしが見えてきた。

 人里から離れ、心の澄みゆく庵であると西行は羨ましかった。

 そして、この僧と仏法について、煩悩を晴らすことについて、弟子のように問い、教えを乞うた。

 みすぼらしい(なり)をしていても、悟りを開いて暮らす者がいるのだと、西行はまだまだ自分は拙いと恥いった。

 自分の庵に戻り、ふと出家したばかり頃の出来事を思い出した。

 長谷寺に参り、その夜、秋の紅葉が嵐に揉まれ、身も飛ばされそうなになり、あはれの情趣を感じながら観音堂に入った。その中で尼が一人いて、一心に数珠を繰りながら念仏を唱えていた。その様子に、ふと歌を発した。


「おもひ入てする数珠(ずず)音のこゑすみておぼえずたまる我涙かな

 ――思いを込めての念珠の声と音に心が澄んでゆく 我知らず涙が」


 西行の歌に、尼が声を上げで袖に縋りついてきた。

 驚いて相手を見れば、かつての妻であり、既に髪を下ろした姿になっているではないか。


「一体これはどうしたことか」


 西行の問に、尼は泣き伏し、しばらく物も言えない状態だった。やっと涙がおさまり、尼は語った。


「あなたが姿を変えて家を出られてから、わたくしもこの世に暮らしに疲れたのです。何もかもかなしく、無常の想いが勝ってまいりました。それで弥生の頃に出家しました」

「娘は?」

「母方の叔母に預けました。

 わたくしは今、高野の奥、天野の別所に住んでおります。

 もうあなたをお恨みしておりません。こうやってみ仏に仕える身になり、かえって仕合せに思っております。お別れした時は浄土での再会をと願っておりましたから、思いもかけずここでお姿を拝見して、夢かと思いました」


 そういってかつての妻はまた涙した。西行もまた涙が零れた。

 巡り合わせ、かなしき別れも善智識であったかと、恨みなく、また再会を約して、お互い長谷寺を出た。

 俗世の頃に親しみ、子を儲けた仲の女性、そして、吉野の奥に暮らす僧。

 西行に一つの迷いが生まれた。俗世と夫への執着を断ち切ったかつての妻は、自分よりもみ仏の衣の裾に近い場所に居るのではないか。そして自分はあの僧を羨んでいる。

 これは迷い、煩悩だ。

 迷ったままであれば別れた妻子に申し訳が立たず、またあの僧の境地にたどり着くには程遠い。

 西行は更に修行に打ち込むため、高野山に居を移した。

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