4.龍族の訓練
最初の一年、ドーラ様は私に言葉だけを教えた。
そうしなければ、他の学習がままならなかったからだね。
ドーラ様の見立てでは、言葉を完全に習得するのに10年ほど掛かると見ていたそうだ。
野生のレッドドラゴンを調教する時、彼らが龍族の言葉を理解するのに、大体そのぐらいかかるからね。
私もまた言葉と無縁の世界に生きてきたし、同じぐらいはかかる、と思ったのだろう。
だが、ドーラ様の見立てとは裏腹に、私の学習能力は高かった。
いや、学習能力というより、元々学習に対する意欲があったことの方が大きいか。
私はドーラ様の言葉を一言一句記憶し、反復練習し、意味を理解しようと努めた。
私は水の抜けたスポンジのように知識を吸収し、一年たらずで龍族の言葉をマスターした。
となれば、あとは早いものだ。
ドーラ様は私に、文字、歴史、世界、立場、上下関係、マナー、産業といった、龍族にとって一般的な常識を教えこんでいった。
「――天に山があり、地に空がある。山の麓にはアースドラゴンが、頂上付近にはレッドドラゴンとブルードラゴンが巣を作り、生息している」
「はい」
「レッドとブルーの生息域の違いは、雲の上か下かだ。ブルーの方が低く飛ぶ。何百年かに一度、繁殖期にしか山へと降りてはこない。レッドドラゴンの方が獰猛で縄張り意識が強い。山の中腹に住む我らが主に戦い、捕食するのはこのレッドドラゴンだ」
「はい。でもそれは昔の話」
「そうだ。レッドドラゴンが龍族と"戦っていた"のは、過去の話だ。今ではレッドドラゴンは一方的に捕食されるのみ。家畜化も進んでいる」
「そして、家畜化の指揮はドーラ様が取っている」
「そうだ。よく憶えていたな。ここまでで質問はあるか?」
「はい。空のさらに下には何がありますか?」
「なんでも巨大な黒蛇がいて、落ちてきた死体を食っているそうだ。私も見たことはないがな」
ドーラ様は私が聞けば、なんでも教えてくれた。
知らないことは知らない、見たことのないものは見たことが無いと言いつつ、わかる範囲で丁寧にね。
時に自分も知らないが、しかし教えるべきものについては、自ら学んでまで教えてくれた。
普段ならドーラ様もそれほど熱心に教えることは無かっただろう。
だが、彼女は五龍将の中で、最も忠義に厚い女だった。
彼女にとって、龍神様から直接命じられたことに手を抜くなど、許されざることだったんだ。
教育係としては、これ以上ない人物だ。
今にして思い返してみても、ドーラ様にものを教わるなど、それだけで名誉なことだ。
龍神様は、私に期待してくださっていたのだろうね。
ともあれ、そんな彼女のおかげで、私は龍界の知識を余すこと無く手に入れることができた。
どんな知識を手に入れたのかって?
そうだな、色々あって一度に説明するのは難しいけど……。
まず、現在位置。
龍界の中央にあるという、最も巨大な山。
名は龍鳴山。
ん? 我々の住むこの山と同じ名前だって?
そうだろうとも、この山は、私が名付けたのだからね。
まあ、それについては、ひとまず置いておこう。
龍鳴山の中腹をくり抜いて作られた町。名前はケイオース。
そこは文字通り龍族の総本山だ。
全ての氏族が暮らしていることもあって、最も人口が多い。
龍神様の屋敷に始まり、行政機関、郵政機関、図書館、研究所、畜舎、食料庫、龍士基地と、重要な施設も多く存在している。
無論、龍族の住処は龍鳴山だけではない。
世界中には122の町があり、それぞれ龍族が暮らしている。
各地の町は、龍鳴山のケイオースと比べればどれも小さな集落だ。
もっとも、危険なドラゴンの飛び交う龍界において、『小さな集落』という概念は存在しない。
どの集落でも、レッドドラゴンの巣を殲滅できるだけの戦力を保有している。
そうでなければ、逆にレッドドラゴンの総攻撃で滅ぶからね。
ん?
神話っぽくない?
聞いた感じだと、今の町とそう変わらない?
そうは言っても、私が来た時には、もうすでにこうだったんだ。
というのも、こうした町の作り方のほとんどは、人族から得たものだからね。
神々の会合が行われる前ならまだしも、この頃はどこの世界も似たようなものだったろう。
それは、置いておこう。
龍神様は龍族全てに惜しみない愛を注ぎ、守ろうとしてくださっている。
だが、122も町があれば、その全てを守るというわけにもいかない。
龍神様は素晴らしいお方だが、全知全能というわけではないのだ。
時に目の届かないところも出て来る。
ゆえに龍神様は、龍族の中でも特に力を持つ五人を龍将とし、彼らに世界全体の守護を任じたんだ。
これが五龍将だ。
聖龍族の龍将シラード。
冥龍族の龍将マクスウェル。
狂龍族の龍将カオス。
剛龍族の龍将クリスタル。
甲龍族の龍将ドーラ。
彼らは多忙な龍神様に代わり、龍族を守った。
五龍将は龍神様に絶対の忠誠を誓い、龍神様もまた彼らを信頼し、重要な仕事を任せた。
龍族が数を増やし、彼らの守護がさほど必要なくなった現在も、その構図は変わらない。
むしろ、より一層、絆が深まっていたといっても過言ではないだろう。
ドーラ様は、そんな五龍将の中でも特に忠義が厚い、と言われていた。
ドーラ様自身もそう言われることに誇りを持っていた。
彼女は自分の種族はもちろん、龍族全てが自分と同じレベルの忠義を持てばいいと思っていた。
理由は無い。
単なる自分の好みの押し付けだ。
ただ彼女は、それが絶対に正しいと思っていた。
「貴様も龍神様に命を救われたのなら、その命を全て、余すところなく龍神様のために使うことだ」
ゆえに私にもそう教えた。
事ある毎に、そう教えた。
「はい。ドーラ様。我らは龍神様のために」
もちろん私も素直に同意したよ。
その教え方はまるで洗脳にも近いものであったかもしれないけど、私は元よりそのつもりだったんだ。
魔界での孤独感と死に瀕した時の絶望感、そしてそこから救いだされた日のことを、私は今でも忘れていない。
「ふふ、貴様は今までで最も出来のいい生徒だ」
ドーラ様は私からあふれる忠義心を見て、満足していたよ。
大抵の者は、ドーラ様がこれだけ強く、それも何度も念を押すと、いずれどこかで「わかっているのに何度も繰り返すんじゃない」と怒り出すんだ。
無論、彼らも龍神様を蔑ろにしているわけではない。
龍族は誰もが龍神様を神として崇め、忠誠を誓っていたからね。
でもドーラ様に言わせれば、「繰り返すな」なんて言葉が出てくる時点で、忠義心が足りていないことになるのだそうだ。
本当に忠義心があるのなら、いつどんな時でも、言葉で示すことが出来るのだ。
そう、私のようにね。
そうそう、その時にルナリア様のことも教えてもらった。
「ルナリア様は龍神様の妻だ。人神という、別世界の神の娘だと聞いている。詳しいことは知らん」
ルナリア様は龍神様が連れてきた女だ。
年月にして、1000年ほど前だろうか。
ドーラ様たちにとって、そう昔のことではない。
龍神様は、ある日突然ルナリア様を連れてきて、自分の妻にすると宣言したそうだ。
なぜ龍神様が、龍族ではなく別の種族を妻としたのかは、わからない。
説明しなかったからだ。
無論、不満に思う者もいた。
なぜ自分たちの中から選んでくれなかったのか、とね。
龍族の中にも、龍神様にふさわしい女性は大勢いた。
ドーラ様だって、その内の一人だったろう。
だが、ドーラ様は自分が選ばれなかったことに、異論を持っていなかった。
彼女はこう言った。
「龍神様には、何か深いお考えがあるのだ。龍神様は常に我ら龍族のことを考えてくださっている、少々理解できないことがあっても、それは龍族の未来のためなのだ。詮索するものではない」
妄信的と思うかい?
だとすると、それは君が彼女の忠義を知らないからさ。
ルナリア様の話に戻ろう。
無論、ルナリア様が龍族に疎まれていたのは、ずっと昔のことだ。
不満の声は、ルナリア様が来て100年ほどで鳴りを潜めたという。
ルナリア様が、慈愛に満ちた、女神のような存在だったからだ。
不思議なことに、彼女と会話すると、誰もが優しい気持ちになった。
なんだか、全てを許せるような気分になるのだ。
彼女と話せば、誰もが彼女が龍神様の妻であることに納得したそうだ。
私も忠義とは別の所で、ルナリア様のことを好いていた。
私は、一年前にルナリア様が自分をかばってくれたことを忘れていなかったんだ。
彼女は確かに私を歓迎してくれていた。
龍神様の命令あってのことかもしれないし、言葉も少なかったけど、私を疎ましくは思わず、その世話をしてくれた。
私も、そんな彼女の家だからこそ、龍神様だけになつかず、群れと、群れの住むこの屋敷を守ろうと思ったのさ。
ついぞ言うことはできなかったし、口にするのも不敬だが……彼女は私の母だったのだ。
……そんな感じで、私は龍界の知識をどんどん吸収していった。
5年ほどが経過した頃には、知らないことは無かったんじゃないかな。
もっとも、実際に見たことがないものも多かったから、本当に知っているとは、言い切れなかったかもしれないけどね。
■
私が言葉を覚え、知識を蓄えると、ドーラ様は外へと連れ出してくれるようになった。
多くの龍族が飛び交う町は賑やかで、私は心を踊らせた。
町の中に足を踏み入れるのは、魔界に住んでいた頃に何度も夢見ていたからね。
広い空間、多くの家、活気ある店、何か催し物をしている広場。
どれもが新鮮だった。
もっとも、道行く龍族は、私を見ても、決して歓迎してはくれなかった。
その禍々しい髪を見て眉をしかめ、近づいてくることもなかった。
だが、私に敵意を向けて、包囲し、町から追いだそうとすることは無かった。
龍神様が連れてきた子供、という情報がすでに浸透していたのもあるけど、何よりドーラ様が私を抱えていたからね。
彼らはドーラ様の姿を見つけると、一様に拳を握りしめ、胸の前でクロスさせた。
追い出されることはない。
そうと知ると、私は周囲を散策したい欲にかられた。
周囲に見えるあの大きな建物は何なのか、あそこには何があるのか、教えてもらったばかりゆえに知識はあったが、実際には知らない物ばかりだ。
好奇心は計り知れなかった。
私は好奇心にまかせてキョロキョロと周囲を見渡し、あれこれと質問をした。
「ドーラ様! あれはなんですか?」
「服屋だ」
「ドーラ様、あれは?」
「東広場だ。今日は芝居をやっているようだな」
「ドーラ様、武器を持った方が飛んでいますが」
「龍士だ。武器はカオスが作っている」
ドーラ様はそれらに丁寧に答えてくれたよ。
わかりきった事に対しても、全て返事をしてくれた。
私なら、途中で黙らせてしまうだろうね。
「ドーラ様、あの建物の中を見てみたいのですが!」
「今は許可しない。ついたぞ」
ドーラ様は、ある所で翼を止め、地面へと降りた。
そこは半径100メートル以上もある巨大な広場だった。
広場では体の大きな龍族たちが二人一組になり、取っ組み合っていた。
彼らの内、何人かはドーラ様に気づき最敬礼を行った。
ドーラ様はそれに鷹揚に答えると、私を降ろし、向かい合った。
「ドーラ様、ここは練兵場ですね」
「そうだ」
練兵場。
龍族の兵士たちが、己の体を鍛える場所さ。
「龍族は強くなければならない。まして龍神様に拾われたお前は、龍神様を害する存在に打ち勝たねばならない。違うか?」
「違いません!」
「いい返事だ! ならばここでやるべきことはわかるな!」
「はい!」
知識の次は戦いの訓練だった。
一歩でも町の外に出れば凶悪なドラゴンたちが待ち受けている龍族にとって、戦う事は言語の次に大事だったんだ。
だから龍族は男も女も関係なく、一定の年齢になると戦い方を学ぶ。
……いや、実をいうと言語と戦いの間には、もう一つ大事なことがあり、普通の龍族の子供はそちらを先に習得するのだけどね。
ま、そのことはひとまず置いておこう。
「よし、ならば掛かって来い! 私が龍族の戦い方というものを教えてやる」
ドーラ様は私の前で、構えを取った。
腰を落とし、半身になり、貫手を腰と正中線を隠す位置へと置く、翼は揃えて背中の方向へと引き絞り、いつでも飛べるように。
対する私は、見よう見まねでその構えを真似た。
「愚か者が!」
途端にドーラ様から叱責が飛び、私はビクリと身を震わせたよ。
「誰が構えろと言った! 私は掛かってこいと言ったのだ! 私が掛かって来いと言ったら、貴様は殺意をむき出しにして私を殺せ!」
あぁ……今にして思い出しても、苛烈な言葉だった。
彼女はね、戦いを教えるにあたって、まず闘争心を教えるんだ。
最初は細かい技術なんかは、絶対に教えない。
戦いにおいて最も大切なのは、相手を殺す気持ち……気迫なのだからね。
大抵の龍族は、ドーラ様にそんなことを言われれば、戸惑わざるをえない。
ドーラ様を殺すなんてできない、とね。
だが、幸いなことに私は違った。
その言葉で構えを解いて、四つん這いになった。
魔界で生きていた時と、同じスタイルだ。
その瞳は教官であるドーラ様を視界に収め、目の前の相手を殺して食うべき相手と決めた。
疑問は無かったのかって?
あるわけがない。私は戦いというものを知っていたんだ。
その上で、ドーラ様がやれといったのだ。
ならば、私はそれに従うのみさ。
「それでいい、こい」
ドーラ様は私の殺意を真正面から受け止めた。
「フー……ッ!」
私は四肢を大きくたわませ、ドーラ様へと跳びかかった。
最短距離でドーラ様の首を狙ったんだ。
だが、私とドーラ様の首の間には、ドーラ様の腕がある。
そのまま真っ直ぐに突っ込めば、ドーラ様は貫手を私へと突き出すだろう。
私の敗北は決定的だ。
だから私は翼を動かした。
慣性の法則を無視するように直角に曲がったんだ。
フェイントさ。
私が戦ってきたのは魔界に住む凶悪な魔獣なんだ。
ただまっすぐに突っ込むだけでは勝ち目のない相手と戦い続けてきた。
だから、こうした動きもお手のものだった。
体の向きをドーラ様へと向けたまま鋭角に曲がった私は、地面を蹴り再度ドーラ様へと襲いかかった。
真横からの強襲。
狙うべき喉も見えており、腕という名の盾はない。
私の牙はドーラ様の喉を食いちぎり、その生命を終わらせるだろう。
「ギャンッ!」
だが、気づいた時、私は犬のような鳴き声を上げて吹っ飛んでいた。
地面をゴロゴロと転がり、即座に起き上がるも、肩口には激痛だ。
見ると肩に穴があき、赤い血が流れ出ていた。
そして、ドーラ様はそんな私に向けて、構えを続けていた。
私に向かって、だ。
横に回りこんだはずなのに、いつの間にか真正面を向いていたんだ。
何が起こったのかわからず、ただ肩口の痛みに混乱する私に対し、ドーラ様は言い放った。
「どうしたぁ! 終わりかぁ! 動け! 殺すぞ!」
私は歯をむき出しにした。
何が起こったのかはわからなかったけど、戦いは終わっていないからね。
そして、唐突に衝撃を受けて、背後へと吹き飛んでいた。
ゴロゴロと転がってから顔を上げると、先ほど私がいた位置に、ドーラ様がいた。
それを確認した瞬間、彼女の足元の砂がブワッと舞い上がった。
ドーラ様が神速で動き、私を突き飛ばしたのだ。
正直な所、この時点で私は勝ち目が無いのを自覚していた。
だが私は戦意を衰えさせることなく、四つん這いで構えた。
自分から攻めなければならなかった。
「…………ッ!」
私は息を整え、無言で襲いかかった。
掛け声はない。
ずっと孤独だった私に、相手を威嚇するという習慣はない。
ただ無言で襲いかかり、ただ無言で相手を食い殺す。
それだけが私の取り柄だったのだ。
「ギャ!」
だが、そんな私のたった一つの取り柄は、まさにドーラ様に潰されようとしていた。
彼女は私の方を向いていた。
依然、構えをとかぬまま、私に貫手を向けていた。
何もしてない。
私にはそう見えた。
だが、実際は違う。
ドーラ様は私の動きに反応して、動いていた。
私のフェイントに掛からず、翼を使って一瞬で方向転換し、その貫手で私を貫いていたんだ。
「どうしたぁ! こい! さっさと来い! 死ぬまでこい! 殺すぞ!」
口汚く罵りながら、ドーラ様の攻撃は続けられた。
私は起き上がる度に四肢のどこかをえぐられ、血が吹き出した。
「よし、来い! 龍族の鱗は剥がれれば剥がれただけ強固になる! 貴様に鱗は無いが同じことだ! 強固になれ!」
私は諦めなかった。
貫かれ、吹き飛ばされる度に起き上がり、ドーラ様へと向かった。
なぜそうするのか。
ドーラ様にそうしろと言われたからだ。
私はただ愚直に、教官の言うことを聞いていただけなのさ。
そうした戦闘訓練は私が気絶するまで行われた。
■
次のことを学んだのは、戦闘訓練が開始されて数日ほど経過した頃だ。
その日も、私はいつも通り叩きのめされ、気絶していた。
いつもなら、目覚めるのは龍神様の邸宅にある、私の自室だ。
「起きろ、おい、起きろ!」
だが、その日に目覚めたのは、少々違う場所だった。
「今日からは戦いの訓練ののち、夜になるまで別のことをやってもらう」
そこは地面に砂が敷き詰められた円形の練兵場でも、寝る場所しかない私の自室でもなかった。
緩やかな斜面だ。
斜面にはジャンプ台のような足場が幾つか存在しており、そこでは私より遥かに小さな子どもたちが、助走を付けては飛び上がり、翼をパタパタとはためかせては、地面へと落ちていっていた。
4~5メートルはありそうな高さから落ちているが、彼らも龍族だ。
かすり傷を負いつつも、すぐに立ち上がって、また斜面を登っていた。
「……ここは?」
「飛行訓練場だ」
ドーラ様がそう言うと、子どもたちの何人かが走って近づいてきた。
「ドーラ様!」
「龍将ドーラ様!」
「憧れてます! 飛び方、教えてください!」
「そいつなんですか! 変な髪!」
子供たちはドーラ様の前に来ると、拳をクロスさせて最敬礼のポーズをとった。
一人、最敬礼をせずに私を指差した奴もいるが、ドーラ様は気にもしない。
子供にはよくあることだ。
「今日はこいつが飛べないから稽古をつけにきた。貴様らに飛行を教えている暇はない。だが飛行は龍族の基本だ。必ずやマスターしろ。それが龍神様のためになる!」
「そいつ、まだ飛べねえの!」
「だっせぇ! 俺よりでけぇのに!」
「俺なんか、今日は黄線まで飛べたんだぜ!」
「俺は青線!」
「愚か者! 他者を嘲るな!」
「はーい」「はい」「はい」
ドーラ様は子供たちをあしらうと、私を連れて頂上へと登った。
「ラプラス。ここはどこだ? 言ってみろ」
「飛行訓練場。龍族の子供が、空を飛ぶ訓練をする場所です」
そう、そこは龍鳴山に数多く存在する訓練施設の一つ、子供たちが飛行訓練をする場所だった。
正式な名前があるわけじゃないが、子供たちからは飛び広場、なんて呼ばれていたかな。
龍族は長い寿命を持っているが、数千年に一度しか子供を作らない。
そのため、子どもの数は決して多くは無い。
それがゆえ、龍族は子供の教育は重要とされている。
教師となりうる者が、つきっきりで教えることになる。
だが、この飛行訓練施設に教師はいない。
というのは、空を飛ぶのは、時間が掛かるんだ。
子供たちは100年という時間をかけ、何度も墜落し、いずれ空を飛ぶ。
そこに必要なのは、教師ではないんだ。
気の遠くなるような回数の反復練習なんだ。
もちろん最初の数度は教育を司る者が教えるが、その後は子供たちが自主的に学ぶ。
飛べるまでね。
十年間、何百年と墜落し続けても、飛べるようになるまで続ける。
そうして、龍族のほとんどは飛べるようになる。
飛べない鳥がいないように、龍族も必ず飛べるようになる。
と、言いたい所だが、どこにでも落ちこぼれはいるものだ。
最後まで飛べない龍族も、ほんの僅かにだが、存在する。
そうした者はどうなるかって?
残念ながら、落ちこぼれの烙印を押されて、皆がやりたくない仕事に従事することになる。
子供たちもそれを知っているから必死だし、飛べない者は容赦なく下に見る。
皆、龍神様の下にいることに、変わりは無いのにね。
「お前はここで何を学ぶ?」
「空を飛びます」
「よし、飛んでみろ」
「はい」
私はドーラ様の言葉に従い、ジャンプ台へと上がった。
眼下に広がるのは広場。そして龍族の町並みだ。
下から見るとそれほどでもないが、上から見るとそれなりに高い。
私はそれを見て、翼を広げた。
背中の筋肉を動かし、翼の可動域を確かめた。
そして、ぐっと腰を沈め、間髪入れずに飛び上がった。
翼を二度、三度と羽ばたかせ、斜め上へと向かって。
が、すぐに失速し、きりもみしながら下へと落ちた。
頭から墜落するところを、私は器用に空中で向きを変え、四つん這いで着地した。
私は何事も無かったかのようにジャンプ台へと上った。
そして、何度か跳躍と落下を繰り返した。
着地はうまく、他の子どもたちと違い、怪我は無かった。魔界に住んでいた頃の経験が生きたのだね。
だが、魔界にいた頃は飛んだことなどなかった。
飛べるということすら知らなかった。
ゆえに、飛べない。
「待て」
何度目かの失敗の後、ドーラ様に止められた。
「飛び方はしっているか?」
私は首を振った。
するとドーラ様は、丁寧に教えてくれた。
「翼に"龍気"を込め、力場を発生させろ。力場を操作して滞空し、風を利用して滑空しろ。わかるな」
ポンと言われても、わかるわけがない。
飛行訓練に教師が必要無いとされる理由の一つかもしれないね。
龍族の翼は、鳥の翼ではない。
飛ぶための器官ではあるが、風を受けて飛ぶものではないんだ。
反重力のような力場を発生させ、それによって空を飛ぶのだ。
無論、一度空に上がれば、空気抵抗も受けることになる。そうなれば翼を傾け、受けた風を揚力に変え、滑空するように飛ばなければならない。
だが、龍族の飛行は、あくまで力場によるものだ。揚力は補助にすぎない。
ちなみに、レッドドラゴンやブルードラゴンの翼も、同じ器官だね。
「わかりました」
私はそう答えた。
翼に龍気を込めることが出来ないわけじゃない。
魔界にいた頃は、飛ぶところまでは行かずとも、翼を使った機動戦をやっていたからね。
ただ、飛ぶのは少し違うんだ。
言葉で説明するのは難しい。
けど、それこそ龍族の子供たちが100年掛けて練習しなければならないほどに、難しいことなんだ。
「わかっているならいい。飛べるようになるまで繰り返せ」
「はい」
「また来る」
ドーラ様はそう言うと、私を置いて飛び立っていった。
ドーラ様の飛び方は、お手本のように流麗だった。
翼の動きに無駄は無く、上昇は滑らかで、そして速かった。
子供たちはドーラ様を追いかけようと次々と飛び立ったが、誰もが飛びきれず、墜落した。
私はドーラ様を見送ると、ジャンプ台へと上った。
■
こうして、座学、戦闘、飛行の三つの訓練の日々が続いた。
座学と戦闘は順調だった。
座学は……特に言うべきことも無いか。
戦闘の方は、最初はただ掛かっていってやられるだけだったが、次第に戦い方のコツや、構え方も教えてもらえるようになった。
ドーラ様と毎日のように手合わせすることで、地力も少しずつ上がっていっていた。
ただ、飛行はうまくいかなかったね。
戦闘訓練の後、昼下がりから夜に掛けて、私は跳躍と墜落を繰り返した。
ドーラ様は夜になると戻ってきて、飛べるようになったかを聞いた。
まだ飛べないと知ると、「そうか」と一言だけつぶやき、私を抱えて屋敷へと戻った。
ドーラ様は決して手出しをしなかった。
手抜きをしないと宣言した彼女であったが、飛行訓練に関しては言うべきことは無かったのだろうね。
龍族とは、反復練習の末に一人で飛ぶもの。
そんな常識があったんだ。
もちろん私も文句は言わなかった。
無言で他の子供たちの十倍ジャンプ台に上り、十倍落ちた。
私が落ち続ける間に、大勢いた子供の内、何人かは翼から力場を生み出すコツを掴んだ。
何人かは、空中で姿勢を制御するコツを掴んだ。
一人が飛べるようになった。
私も、少し焦ったよ。
ドーラ様という最高の教師を付けてもらったのに、成果を出せなかったのだからね。
実を言うと、私は力場を出すコツも、姿勢を制御するコツも知っていたし、出来たんだ。
だが、それはあくまで、地に足が付いている時に限ってのことだ。
地面に足をつけた私は、魔界の魔獣を上回る速度で動き、翻弄するのだ。
当時でも、そこらの龍士なら軽くあしらえるほどに。
でも、その時の癖が、私の飛行を邪魔していたのだろう。
地上を歩くのと、空を飛ぶのでは、根本的に違うんだ。
体は重力に対して垂直にしなければならないし、力場を出す向きも、私が今まで想定していた方向とは違う。
一朝一夕で飛べるものではなかった。
だからこそ、焦りも強くなった。
できるはずなのに、できないのだから。
だが、それでも私は泣き言は言わなかった。
ドーラ様に禁じられていたからだ。
泣き言も、できないという言葉も。
何の成果も出ない日が続いた。
ドーラ様は毎日のように現れ、私が飛べるかどうかを確認した。
私は常に「まだです」と答え、ドーラ様はそうかと頷いて去っていった。
訓練が終わり、クタクタになって戻ってくると、ルナリア様が迎えてくれた。
従者たちも、私が言葉を解すようになり、龍神様への恩義と感謝について語ると、きちんと仲間として認めてくれるようになった。
もっとも、やはり龍神様の子としては見てもらえなかった。
そうだろうね。私だって自分の事を犬か何かだとは思っていたが、養子だとは思っていなかったのだから。
ああ、だからかな。
彼らは私が特にボロボロになって帰って来た日には、隠れて食べ物をくれたんだ。
決まった時間以外はダメなんだぞ、とか言いつつね。
今思い返すと、まさに犬に対する行いだな……。
ははっ、もしかすると、当時の彼らと私の気持ちは一つだったのかもしれないね。
思い返すと良い思い出だ。
ルナリア様は、年毎に少しずつ大きくなっていくお腹を撫でながら、私に母として接してくれた。
もっとも、ルナリア様に母親の経験が無いせいか、あるいは私が母親というものを知らないせいか、私にとっては単なる女神であった。
彼女はね、なんていうか、超然としているんだ。
そこにいるだけで、安心するんだ。
今にして思えば、あの安心感こそが半神である証だったのだろうね。
最高の環境だった。
充実した訓練に温かい家庭。
そんなものに包まれつつ、私は何十年も掛けて、一人前の龍族となっていったんだ。
■ ■ ■
「さて、それから私は……おや?」
男――ラプラスが椅子の方を見ると、少女はうつらうつらと船をこいでいた。
あまりにつまらないので、眠ってしまったのだろうか。
いいや、どうやら違うようだ。
「もう夜か……」
ラプラスが窓の外を見ると、そこには星空が広がっていた。
龍界とは違う、真上に存在する星空だ。
ラプラスの感覚では、ほんの数時間程度のつもりだった。
だが、ロステリーナにとっては、丸一日の出来事だったのだろう。
「懐かしすぎて、随分、ゆっくりと話をしてしまった。ロステリーナの短い一日を潰してしまうとは」
そうして窓を見ていると、巨大な何かが窓を遮った。
レッドドラゴンだ。
そのレッドドラゴンはラプラスの姿を認めると、何かを要求するようにクルクルと喉を慣らした。
「おお、済まなかったな。長引いてしまった。しかし、お前もドラゴンの端くれなら、餌の一つも自分で取りに行けば良いだろうに」
「ゴルルゥ……」
「そう言うな。私もこんなに時間の経過が早いとは思わなかったのだ。人は歳を取ると時間の流れが早くなるというが、魔族と龍族の混血である私にとっても、それは同じらしい」
ラプラスはそう言うと、ロステリーナの体を抱きかかえた。
音を立てぬように歩き、部屋の外へと出る。
狭い廊下を歩き、一つの扉の前へと移動した。
「さて、せめて感想の一つでも聞きたかったのだがね……」
そっと扉を開ける。
そこには家全体の散らかりようから考えると、モノが無いと言っても過言ではないほどに、整理整頓された部屋があった。
ラプラスは部屋の中にあったベッドにロステリーナをそっと降ろし、毛布を掛けてやった。
明かりを消す必要は無い。そんなものは最初からついていない。
ラプラスの目は、暗闇でもあらゆるものを見通すことが出来るのだ。
「おやすみロステリーナ。また明日」
ラプラスはそう言うと、扉を締め、元の部屋へと戻っていった。