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3.群れの一員

 ラプラス。

 私はそう命名された。


 私が連れてこられたのは、龍界だった。

 そこもまた、魔界に負けず劣らず過酷な世界だ。

 その世界では天に山があり、地に空があった。

 山の()には空を飛べない巨大なドラゴンが大量に生息している。

 かといって空も安全じゃない、空は空で巨大なドラゴンが飛び交っているんだ。

 翼の無い小さな生物は、氷柱のように垂れ下がる山の中腹にへばり付き、細々と生きていくしか無いんだ。


 しかし、そんな世界でも、人間は支配者となっていた。

 龍族と呼ばれる種族だ。

 翼と鋭い爪を持ち、空を自在に飛び、強大な力を駆使し、群れでドラゴンを狩る。

 そんな種族だ。


 とはいえ、彼らも最初から支配者だったわけじゃない。

 彼らもかつては、弱かった。

 山の中腹にある洞窟に隠れ住み、巨大なドラゴンに見つからないようにこそこそと生きているだけの存在だったんだ。


 それを変えたのは一人の男だ。

 そう、龍神様さ。


 龍神様はある日、ドラゴンに怯える龍族たちの前に姿を表した。

 そして力を示したそうだ。

 龍族に眠る力、その使い方をね。


 龍族には龍気と呼ばれる強大な力が宿っている。

 龍気を使えば、龍族は身体能力を何倍にも引き上げ、皮膚を硬化させることが出来る。

 堅固なドラゴンの体だって、一撃で突き破るパワーを発揮できるんだ。

 力自体は他の種族にも備わっているものだが、龍族のそれは、他をはるかに凌駕していた。

 最強の力さ。


 龍神様がその力の引き出し方、使い方を教えてから、龍族は支配者となった。

 徒党を組み、数を増やし、ドラゴンを捕食するようになった。

 食物連鎖の頂点に立ったんだ。


 そして龍神様を中心に町を作り、他の世界と情報交換をして様々な文化を発展させ、栄えた。

 といっても、文明のレベルとしては、魔族と同様……今のこの世界と比較しても、それほど高くは無かった。

 文明を発展させなくとも生きていけるぐらい、強かったからね。


 外敵の心配をしなくてもいい世界。

 何もしなくても誰かが食料をくれて、空腹感に焦りを感じなくてもいい世界。

 平和というのは、当時の私にとっては未知の世界だった。



 私は龍神様の屋敷に、一室を与えられた。

 その屋敷は龍界の中でも、特に豪華な場所だった。

 部屋数は多く、何人もの使用人がそこで働いていた。

 私に与えられたのは、小さく簡素な部屋だった。

 だが、私が今まで住んでいた洞窟より、ずっと住みやすかった。

 なにせ、寝具も、食料も、衣類も、必要なものはなんでも揃っていたからね。


 屋敷は広かったし、使用人は多かった。

 だが、使用人の仕えるべき人間はそう多くは無かった。

 龍神様と、その妻であるルナリア様だけだ。


 ルナリア様は妊娠しているせいか、ほとんど家から出なかった。

 龍神様は留守であることが多く、数日に一度しか帰ってこなかったが、帰ってきたら必ず彼女の前に姿を表した。

 彼女は宝物のように大事にされていたんだ。


 そんな宝物は、他の龍族にも慕われているのか、客人が多かった。

 毎日、誰かしらが訪問し、彼女と談話したり、食事をしたりして帰っていった。


 とはいえ、客がいる時間といない時間を比べてみれば、後者の方が長かった。

 そんな時間、ルナリア様はほぼ付きっきりで私の側にいた。


「龍神様が養子としたのであれば、あなたは私の子で、ここはあなたの家です。安心してお過ごしなさい」


 彼女は龍神様の言葉に従い、私を育てることにしたのだ。

 しかしながら、彼女は私に対して、何をすることでもなかった。

 ただ私の部屋を訪れ、部屋の隅で座り込む私の傍に座り、慈愛に満ちた表情を向けるだけだった。

 半神であり、高貴な生まれである彼女には、『教育する』という概念がなかったのだ。


 私の世話をしたのは、主に使用人たちだ。

 使用人たちはルナリア様の言葉に従い、私を王子様のように扱った。

 食事を出し、風呂にいれて体を洗浄し、着替えさせてくれた。


 とはいえ、残念ながら食事の作法にしろ、風呂にしろ、服を着るということにしろ、私にとってはどれも未体験であった。

 食事の時には食器を使うようにと怒られ、風呂では龍族用の硬いブラシで肌をこすられたことで叫び、服を着たら激しく動いてすぐに破いてしまった。

 使用人たちはそれを見てまゆをひそめ、私を叱りつけた。まるで犬でも躾けるかのようにね。

 だが、ルナリア様は違った。


「そう、怒るものではありません。彼は身は大きくとも、赤ん坊のようなものなのです。ゆっくり、ゆっくりと育てていきましょう」


 彼女は使用人たちにそう言うと、私に使いやすい食器だけを持たせ、鱗のない私の肌に合う柔らかめのブラシを用意させ、服を伸縮性の高い素材のものに変えさせた。

 そんな配慮からもわかるように、ルナリア様は私を歓迎していた。

 龍神様に言われた通り、自分の子供も同然の扱いをしていたんだ。

 近々子供も生まれるというのに、どこの誰とも分からぬ私を、我が子のようにね。

 今思い出しても、ルナリア様の懐の広さ、慈愛の大きさには、涙が出そうになる。


「いくら龍神様が連れてきたとはいえ、こんな……」

「まるで獣ではないか……」


 だが、使用人たちはというと、そういうわけにもいかなかった。

 彼らは私の存在を快くは思っていなかった。

 私の髮は今まで見たどの生物よりも禍々しく、その体には凶暴な力が宿っていることが見て取れたからだ。

 いずれ私は本性を現し、ルナリア様に襲いかかるに違いないと思っていたのだろうね。


 だが、使用人たちも龍族だ。

 龍神様やルナリア様の意思に逆らえるものではない。

 快く思っておらずとも、命令には従順に従った。

 いざというときは自分たちが盾となり、私からルナリア様を守る。

 そんな強い意志で、ルナリア様に仕え、私を監視していたのだと思うよ。


 え? 私は何もしていなかったのかって?

 いや、私も私なりに色々やっているつもりだったよ。

 基本的には、ルナリア様をじっと見ていた。

 もちろん、ルナリア様に襲いかかろうと、虎視眈々と目を光らせていたわけじゃない。

 守ろうと思っていたんだ。


 私には知識は無いが、知恵はあった。

 誰が致命傷を負った自分の傷を癒し、孤独な空間から助けてくれくれたのか、ちゃんと理解していた。

 ここが自分が助けてくれた人物の巣であり、周囲にいる人々が彼の群れであり、自分がその群れの一員になったのだ、とね。

 そして、自分はボスの(つがい)であるこの女性を守らなければならないと、心に誓っていたんだ。


 とはいえ、私にとって群れの一員になるのは、初めてのことだった。


 私は群れの一員として、自分に出来ることをした。

 毎日、屋敷の中を隅々まで歩きまわり、異常が無いかを確かめた。

 全ての部屋を覗き、全ての窓から外を見た。

 そうやって外敵の侵入が無いことを、何度も確かめた。

 私が『人の形をした魔獣』だった頃、魔獣と戦っていた頃に身についた知恵だ。

 自分の縄張りに異常が無いかを毎日調べれば、おのずと危険もわかるからね。


 外敵といっても、もちろん客人は別だ。

 私は自分の群れのボスが、このあたり一帯のボスでもあるということを理解していた。

 一番偉い者に敬意を示す。

 それができているのであれば、外敵ではない。


 そうやって、私はルナリア様と屋敷を守っていた。

 私は決して屋敷から出ることはなかった。

 この巣を守ることこそが、拾われてきた自分の使命だと言わんばかりに、自分の仕事に専念したんだ。


 番犬みたいだって?

 そう言わないでくれ。

 群れがどういうものかは理解していたが、自分が何をすればいいのかわからなかったんだ。

 でも実際の所、この頃の私は、自分をペットか何かだと思っていたのかもしれないね。


 ルナリアがいて、私がいて、使用人たちは私を警戒しつつも世話を怠らず、忠実に仕事を続ける。

 時折、龍神が帰ってきて、ルナリアに話しかけ、私の様子を見る。

 そんな光景が当たり前となっていった。


 そうして、あっという間に一年の時が流れた。

 一年。

 長い時間に感じるだろうが、数万年を生きる私たちにとって、それは二日か三日のようなものだ。

 このまま数百年ほど時が流れても、おかしくはなかったろう。


 だがそうはならなかった。

 忠実な番犬のような私を不憫に思ったのか、それとも単にこのままでは使い物にならないと思ったのか……。


 龍神様は、私に教育係をつけることにしたんだ。





「ほう、貴様が龍神様に拾われてきたという子供か。噂に聞いた不吉な髪だな!」


 そうしてやってきた人物は、とても過激な人物だった。

 その人は、ある日突然、龍神の屋敷にズカズカと上がり込んできて、屋敷の隅でおとなしくしている私の前まで来ると、一方的に言葉を叩きつけ始めたんだ。


「龍神様にお前の教育係を申し付けられたからには、責任を持って完遂するつもりだ。私は貴様が魔族との混血だからと差別はせん。ただの鱗のない龍族として扱う」


 教育係は女だった。

 ひときわ大きな翼を持ち、綺麗な白い鱗を持つ龍族だ。

 彼女は戸惑う私に構うことなく、言葉を叩きつけ続けた。


 無論、その言葉は言葉のわからない私には通じない。

 なにせ、私はまだ、龍族の言葉がわからないのだからね。

 ルナリア様は育ててはくれたけど、何かを教えてはくれなかった。

 繰り返すようだが、彼女はいわば王族だからね、そんなことを自分がやるなんて、露ほどにも考えなかったのだろう。

 使用人だって一緒さ。

 言葉の伝わらない者に言葉を教えるなんてのは、彼らの仕事には含まれていないんだ。


「ウゥゥー……」


 私は唸り声を上げて、女を威嚇したよ。

 傍若無人に屋敷に侵入し、下っ端とはいえ群れのいち員である私に対して敵意を振りまくこの存在を、敵だと思ったからね。


「ハッハァー! いい面構えだ! だが、私には絶対服従だ! 逆らうことは許さんぞ!」


 でも、私は襲いかからなかった。


「ウアアアァァ!」


 最初は大声を上げるにとどめたんだ。

 大声を上げれば、群れ全体に危険があると知らせることもできるしね。

 その知らせを受けて群れが戦うのなら良し、逃げるなら自分が足止めをする。

 群れの中で最も下っ端の自分には、そうする義務があると考えたんだ。


「さぁ、掛かってこい! まずは叩きのめして立場を理解させてやる!」

「グウゥゥー……!」


 挑発を続ける女に対し、私は動かなかった。

 私の声を聞きつけて、屋敷の中で動きがあったからだ。

 群れの仲間が近づいて来る。

 ルナリア様に使用人たちが。

 私はまず、それを待ったんだ。


「ほう、咄嗟に襲いかかってこないとは、知恵はあるようだな! それとも臆したか……?」

「何事ですか!?」


 最初に現れたのは使用人たちだ。

 私は侍従を見て、仲間がきた、戦いの準備は整った、と思った。

 そして、まずは自分が襲いかかろうと、身を沈めたんだ。

 一人に対して全員で一斉に掛かれば、勝率は上がる。

 魔界時代の知恵だが、今もなお続く、普遍の法則だ。


「これは……とうとう正体を現したのか!」


 だが、使用人たちは私の思ったようには動かなかった。

 女ではなく、私を包囲したんだ。

 爪や牙と敵意をむき出しにした私を、拒絶したんだ。


「ウゥ……?」


 わけがわからなかったよ。

 私は使用人たちの群れの一員であるはずだった。

 使用人たちだって、自分に食べものを与えてくれた。

 なのに、彼らは戦うべき外敵ではなく、私に敵意を向けてきたんだ。


 まあ、彼らは最初から私を警戒していたし、当然なのだけどね。


 ともあれ、私は強いショックを受けると同時に、かつて感じた孤独を思い出した。

 ここでも一人になるのかと、悲しい気持ちになったんだ。


「何をしているのですか?」


 と、そこに静かで透き通る声が響いた。

 ルナリア様だ。

 彼女はゆったりとした動作で部屋に入ってくると、爪と牙をむき出しにして包囲されている私を見て、不快気な顔をした。

 正直、私は彼女もまた、使用人たちと同じだと思った。


「ルナリア様、危険です。お下がりください」

「何が危険だというのですか」


 ルナリアは使用人たちの間をすり抜け、私に小走りで近づいてきた。

 使用人たちが止める間も無かったよ。

 いや、使用人たちは止めようとしたのだけど、ルナリアは彼らの間を蜃気楼のように通り抜けたのだ。


 彼女がどんな力を持っていたのかは、実の所、私も詳しくは知らないのだが……。

 伊達に、龍神様の妻ではないということだね。


 彼女は怯える私を優しく抱きしめると、周囲に責めるような視線を送りつつ、言った。


「あなた達は、この子の面倒を見ろと言った龍神様の御言葉を忘れたようですね?」

「……申し訳ありません!」


 侍従たちは、すぐに拳を胸の前でクロスさせ、翼を畳ませた。


 この時のことは、よく憶えている。

 なにせ、今までこうして誰かに庇われたことなどなかったからね。


 でも、私はこうしたものを求めていたのだ。

 助け、助けられ、互いにかばい合って生きていくことを、渇望していたんだ。

 だから、後にルナリア様の出自を知っても、私の怒りや憎しみが彼女に向くことはなかった。

 彼女のことは、今だって尊敬しているし、敬愛している。


 まあ、それは置いておこう。

 ルナリア様は使用人たちのしゅんとした様子を見て溜飲を下げ、女の方を見た。


「龍将よ、あなたはどうしたというのですか? 我が邸宅に、一体どんな用事で入り込んだのですか?」


 龍将と呼ばれた彼女もまた、ルナリアに対し拳をクロスさせ、翼を畳んでいた。

 だが、彼女は侍従たちと違い、しゅんとはしていなかった。


「自分は龍神様より、ラプラスの教育係を申し付けられました!」


 彼女の言葉に、ルナリア様は一瞬、ぽかんとした顔をした。

 でも、話には聞いていたのだろうね。

 すぐに態度を軟化させたよ。 


「それは失礼しました。ではこの騒ぎは、ラプラスが言うことを聞かなかったから、ということですか?」

「その通りです。しかし問題はありません。暴れん坊の教育には慣れておりますので」


 彼女が悪びれもなくそう言うと、ルナリア様は安心した様子で息を吐いた。

 そして、きょとんとする私の翼をひと撫でして立ち上がったんだ。


「ラプラス。きちんと学ぶのですよ」


 ルナリア様はそう言うと、ふわふわとした足取りで、部屋から出て行った。

 使用人たちも、それに付き従った。

 そして、部屋には私と彼女が残された。


「さて、続きだ、掛かってこい臆病者」

「……」


 先ほどの続きとばかりに、彼女は私を挑発した。

 指先をこちらに向けて、くいくいと動かした。

 言葉通り、かかってこいというジェスチャーだ。


 後に聞いたことになるが、彼女は誰かを教育する時は、必ず最初に上下関係を教えこむようにしているんだ。

 居丈高に上からものを言い、向かってきたら叩き伏せて服従させるんだ。

 そうすれば相手は言うことを聞くからね。

 特に、物事を理解しない獣や子供には効果的だった。

 実際、彼女はその方法でレッドドラゴンを手懐けている。


 ついでに言えば、そんな彼女だからこそ、私の教育係に抜擢されたのだろうね。

 魔界で拾ってきた野生児を教育できるのは、彼女しかいない、とね。


 さて、では私が彼女の思惑どおりに動いたかというと、そういうわけではなかった。

 私は決して牙をむくことも、爪を出すこともなく、じっと彼女を見たんだ。

 もちろん唸ることも、大声を上げることもない。

 黙って彼女の声を聴き続けたんだ。


「どうした、今ので臆したのか!? ほら立て!」


 彼女は業を煮やして、やや乱暴に私の腕を掴んで立たせた。

 でも、私は変わらない。

 それどころか抵抗することもなく立ち上がり、彼女をじっと見上げたんだ。

 次の指示を、待つかのようにね。


 そう、私は先ほどのやりとりで、すでに彼女が外敵ではないことを理解していたんだよ。

 そして、恐らく彼女が、群れ全体の中でもかなり高い位置にいるということもね。

 そんな彼女に対して下っ端の自分が大声を上げたり威嚇したのだから、そりゃあ群れの皆も怒るだろう、なんて解釈していた。

 反省すらしていたよ。


「ふん、腑抜けた顔をしおって」


 普段なら、腑抜けた態度に対して一発か二発入れる彼女だけど、この時ばかりは、それが逆効果になると悟っていたのだろうね。

 鼻息を一つ、私の腕から手を離したんだ。


「私には敬意を示し、服従しろ。私は嘘は教えん。全て真実と思い、心の底で理解に努めろ。泣き言は許さん、できないとも言わせん。時間の無駄だ。だが手抜きはせん、必ずやお前を一人前の龍士へと育て上げてやる」


 彼女は腕を組み、翼をはためかせ。私を見下ろしながら、居丈高に言い放った。

 実に偉そうだけど、これが彼女さ。

 偉そうなことを言い放つけど、必ずそれを遂行する。

 彼女は素晴らしい人なんだ。


「言っておくが、五龍将たるこの私に学ぶことが出来るというのは、名誉なことだ。貴様には名誉などわからぬだろうが、いずれお前は私から物の道理を学んだことを感謝するだろう」


 彼女はそう言うと、数秒ほど静止した。

 当時はわからなかったが、もともと、その日は顔見せと、最低限の躾だけをして帰るつもりだったのだろう。

 最低限の躾というのは、もちろん動けなくなるまで痛めつけることさ。

 獣は一度や二度、叩きのめした所で理解しないからね。

 何度も痛めつけ、自分を見たら反射的に痛い目にあう、抵抗は無意味だと、最初に悟らせなければいけないんだ。

 だから、私のように最初から服従しているのなら、やることはなかったんだろう。


「明日また来る。今の態度を改めるな。いいな!」


 そう言うと、彼女はくるりと背を向けた。

 だが、私はまだ彼女に伝えるべきことがあった。

 背を向けた彼女に向かって、ある動作をしたんだ。


 すると、彼女はすさまじい速度で動いたよ。

 私の脳が「彼女が動いた」と理解した時には、すでに私の側頭部では貫手が寸止めされていた。


 恐らく彼女は、私は従順な意思を見せているだけで、背を向けたら襲いかかるような、狡猾な動物だと思っていたんだろうね。

 君も知っての通り、その手の魔物は数多くいるからね。

 振り返ると同時に私の攻撃をいなし、渾身の一撃を顔面に叩き込もうとしたんだろう。


 でも、寸止めで済んだ。


「……?」


 なぜなら、いなすべき攻撃がなかったからさ。

 私は彼女にとって、見覚えのあるポーズをしているだけだったのだからね。

 拳を組み、翼を畳んだポーズ。

 そう、龍族の最敬礼だ。


「あ、アプ……ラ、ラプラス」


 私はただ一言、そう言った。

 言葉を知らぬ私にはそれしか言えなかった。

 ああ、ちなみに、彼女の言った言葉も、ほとんど理解していなかったよ。


「……ドーラ。私は甲龍族の龍将ドーラだ。よく覚えておけ」


 ドーラ。

 彼女はそう名乗った。

 そこで初めて、自分が名乗っていないことに気づいたかのように。


「どーら」


 だから私は覚えた。

 教育係たる彼女から最初に覚えたのは、彼女の名前だったのさ。


 そして翌日から、龍将ドーラによる、私の教育が始まったのだ。

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