04
シクルル山はセカイの中心にあるとされる山で、山体にはセカイの理が埋められているらしい。その理を総て集めることができた時、このセカイは救済されるのだと祖父から訊いたことがあったけど、しかしぼくの目的はその理にはなく、この山を統べる――このセカイを統べるという神様に会うために、ぼくは山を登っていた。
登頂は困難を極めた。
まず、天候が悪い。
この日はちょうど大寒波が訪れていて、シクルル山は猛がつくほどの雪で吹き荒んでいた。
視界が悪く、数メートル先も明瞭としない。
そして、山道のすぐ脇には深い谷がある。
踏み外せばまず無事ではすまないような、
奇跡という言葉すらも闇へと帰すような、
そんな深い、深い峡谷。
それは、とても急峻で、険しい道程だった。
それでもぼくは山を登った。
躊躇せず、
臆することなく、
中断する意思すらも。
引き返すという言葉すらも過ることなく、歩き続けた。
凍死しても、
滑落しても、
べつに、構わないと思っていたから。
だってぼくは、ここに、贖罪しに来たのだから。
罪を。
罪滅ぼしをしに来たのだから。
ぼくはきっと、神様を殺した。
たぶん、殺してしまった。
神様はきっと、転生なんてしない。
生まれ変わることもなく、消え失せた。
なぜ?
それはぼくが、川に捨てたから。
神様をこの手で、川へと投げ入れたから……。
だから消えたんだ。
消滅した。
ぼくが。
ぼくが欲したから。
神様と話ししたいと思ったから、
神様を蘇らせたいと願ったから、
私利私欲で、行動したから……。
だからきっと、神様は消えた。
いつまで待っても、現れなかった。
祈っても。
祈っても。
「ごめんなさい……」
ほんとうに、ごめんなさい……。
どうして。
どうしてぼくは、あんなことを願ったんだろう?
自分の欲求を、天啓だなどと云って。
ごまかして。
いつわって。
恥ずかしい。
本当に、
恥ずかしい。
「ごめんなさい……」
あやまって、なにかが解決するわけじゃないけど。
神様が、ぼくの前にあらわれるわけじゃないけど。
くやしくて。
じぶんが嫌で。
嫌いで。
大嫌いで。
ただ贖罪したくて。
ぼくは、うわ言のようにつぶやいた。
ごめんなさいと。
それだけをつぶやき、歩いた。
視界が定まらなくなった。
じぶんがいま、どこを歩いているのかもわからなくなった。
どう躰をうごかしているかさえ。
わからなくなった。
だから。
だから、吹雪が止んでいることにも、
いつのまにか、頂上にたどり着いていたことにさえも、
ぼくは、気がつかなかった。
「いたっ……」
ごつん、と。
何かに頭を打った。
ぼくは尻もちをついて、おぼろげに前を確認する。
そこには大樹があった。
辺りは雪で覆われているのに、その大樹は深い緑色を身に纏い、屹立している。
青々としていて、立派な大樹だった。
さあ、と風が吹いて、葉叢が音を鳴らす。
ぼくはその風の行方を追って、目を眇めた。
眩しい。
空は青く、晴れ渡っている。
その下には白く化粧を施した山がいくつも連なり、美しい稜線を描いていた。
澄んでいる。
どこまでも、白く。
このセカイは、本当に……。
ぼくは呼吸をする。
肺に凛、としたものが入り込んだ。
また呼吸をする。
その度、ぼくは感じとる。
このセカイを。
この雪で覆われた世界の息吹を。
脈動を。
確かな、命を……。
それから自然とぼくは、神様のことを思い浮かべた。
神様の、あの表情を。
おそらくいま、ぼくは、あの神様と同じ表情を浮かべているのだろう。
あの優しい笑みを。
穏やかな、笑みを。
どうしてだろう?
なんて。
そんなの、考えるまでもない。
素晴らしいから。
このセカイが、こんなにも美しいから、ぼくは笑っている。
愉しいんじゃない。
嬉しかったんだ。
純粋に。
もう、このセカイに神様はいないけど、
ぼくが、殺してしまったけど、
だけどぼくはいま、その神様がみていた景色を眺めているから。
このセカイを、望むことができているから。
微笑むことが、できたから。
だから良かった。
うん。
良かった。
ほんとに……。
こんな素晴らしい気持ちをぼくは、経験したことがない。
ねえ。
ぼくも。
ぼくも笑えたよ。
君に。
救われたんだ。
神様に。
ぼくは。
ぼくは……。
ぐらり。
突然、視界が揺れた。
なんだろう……。
突然の眩暈に、ぼくは頭を片手で押さえた。
ひどく、疲れている。
まあ、ここまでの道程を思えば疲れるのは当然だけど……。
それにしてたって、だるい。
だるくて、眠い……。
とりあえずと、ぼくは踵を返す。
山を、下ろう。
そう判断した。
ここの神様には会えなかったけれど、けど、もう、いい。
ぼくはもう、いいんだ。
帰りしな、ぼくは気力を振り絞って大樹に頭を深々と下げた。
ありがとうと云って。
それから下山を開始した。
「はあ、はあ……」
苦しい……。
足が、覚束ない……。
それになんだか……熱い。
たぶん、歩きすぎた所為かもしれない。
熱い……。
熱いなあ……。
ぼくは外套を脱いで、そこらに投げ捨てた。
それでもまだ熱いし、やっぱりまだ、苦しい。
おかしいな。
こんな雪山なのに。
熱いお風呂に浸かっているみたいだった。
はあ。
はあ。
呼吸が。
つづかない……。
どうしよう。
すごく、嫌な予感がする。
漠然とした。
恐怖。
ぼくは。
ぼくは家に、帰れるかな……。
「……大丈夫」
ぼくならきっと、帰れるよ。
ららら、と。
ぼくは歌を口ずさむ。
たぶん、美しい景色をみて、気分が高揚しているのだろう。
綺麗だったな……。
本当に……。
ずりり。
ずてん。
ぼくは、転んだ。
立ち上がる。
……あれ。
立ち上がれない……。
躰が、いうことをきかない。
はあ。
はあ。
くるしい……。
空気……。
空気を……。
「…………?」
なんだろう……。
地面が、揺れてる。
地震だろうか?
ぼくは雪上に突っ伏して、山頂を眺めた。
雪崩だ。
大量の雪が崩れてくる。
恐らく、雪崩はあと数十秒足らずでここに到達する。
そうすればきっと、ぼくは雪に食べられてしまう。
容赦なく。
遠慮もなく。
ぼくは、
死ぬ。
躰が震えている。
怖いんだろうか?
……いや、怖くはない。
だって、これは慈悲なんだから。
神様がくれた、優しさだから。
怖がることはない。
そうだろう?
そうだ。
そうだよ……。
ぼくは最後の力を振り絞って、仰向けになった。
空を仰ぎ、そして、目を瞑る。
この人生に、後悔がないわけじゃない。
むしろ、後悔だらけでいやになるけれど。
辛いことばかりで、泣きたくなるけれど。
だけど。
それでも。
いいことはあった。
最期に。
いい景色をみることができた。
それで、良かった。
それだけで、十分だと思った。
「ありがとう」
ぼくはつぶやいた。
次の瞬間。
暗闇が、セカイを覆った。