03
その日は快晴だった。
ぼくの仕事は天候によって休みになったりはしないので、こうした穏やかな天気だと仕事もかなりはかどった。
ぼくはいつも通りにスコップを握って、いつも通りに雪を掻きはじめる。
作業中はなにも考えない。
なにかを考えてもいいけれど、そうすると作業が苦痛に感じるし時間の経過も長く感じたから思考はしないことにしている。
苦痛は嫌だから。
だから無心で仕事を続けた。
仕事に没頭することで、自我を失くす。
そうやって、なんとかこの日々を続けている。
ある程度雪を集めたら今度、それを丸め、両手で抱えるようにもって川まで運んだ。
バケツやソリなんかを使えばもっと効率的に雪の運搬を行えるのだけど、ここに降る雪はこうして自分の手と足で運ばないとすぐに黒くなる。
なぜそうなるかはわからないけれど、黒くなった雪はもとに戻ることなく、川に捨てるとばちばちと雷のような音をだした。
だから、黒い雪の処理にはここから一時間ほど歩いた場所にあるニノルル峡谷へと捨てにいかないといけない。
そういう掟だった。
このセカイのどこかに黒い雪に覆われた地帯があるらしいけれど、本当に存在するかどうかは不明。
恐らくはお伽噺だろう。
しかし、黒く染まったセカイというのもどんなものなのか、ぼくはすこし見てみたかった。
なにか一色に染まっている。
そういう世界に、ぼくは強く惹かれる傾向がある。
それなのにどうしてぼくは、この白いセカイにはなんの感情も抱けないのだろう?
まるで真っ白な紙を見ているかのような、そんな淡泊な感情しか湧きあがらなかった。
空虚だと、
そう思った。
正午になった。
ぼくはスコップを置いて、近くの切株に腰を下ろした。
ポケットからパンを取り出して、齧りつく。
酵母を使えば柔らかいパンができるらしいけれど、肝心の酵母の作り方がよくわからなかったし、日持ちさせるために乾燥させているからこのパンはとても固い。
ぼくは干し肉を食べるみたいに、何度も咀嚼した。
水筒から水分を補給する時も同様に、何度も咀嚼。
冷えた水は、お腹に悪いから。
そうしてから飲み込んだ。
お昼ご飯を食べ終えると、再びぼくは雪を川へと運んだ。
雪を川へと捨てる度に、川はパレットのように色彩豊かに輝いた。
ぼくは何度も雪を捨てる。
川が輝く。
捨てる。
輝く……。
そういったことを繰り返していると夕方になって、セカイは夕陽に照らされていた。
ぼくは額の汗を拭い、深く息を吐く。
もうすぐ、今日の作業も終わりだ。
ぼくはスコップを持って帰り支度を始める。
帰り支度といっても荷物をまとめて外套を着用するだけなので、支度はすぐに終わった。
仕事場から帰路につくと、陽は完全に落ちて夜になった。
暗く視界が悪くなると、ぼくはポケットから手のひら大の白い鉱石を二つ取り出して打ち鳴らした。
かちん、という高い音が闇夜に響くと、次第に鉱石は光を帯びる。
光は、ぼくの足元を照らしはじめた。
しかし一分もしないうちに鉱石から光が失われた。
その度にぼくは何度も石同士を打ち合わせた。
かちん、かちん、と。
夜道に音がこだました。
家に到着した。
戸をあけて中に這入ると、なによりも先に神様を確認した。
ぼくのいない間に消えてしまわないか心配していたけど、神様はきちんとそこにいた。
いてくれた。
ぎいこ、ぎいこ、と。
揺り椅子に腰をかけ、ゆらり、ゆらりと揺れている。
「ただいま」
ぼくは神様に話しかけた。
返事はない。
神様はやっぱり、眠っている。
ぼくは棚から枯草を取り出し、それを火口にストーブに火をつける。
それからはいつもと同じ。
部屋が温まるまでじっと椅子に座り、料理を作って、食べて、眠った。
そういった生活を、しばらく続けた。
非日常的な毎日だった。
ぼくが小さい頃には祖父がいたけれど、すでに他界している。
荼毘され、煙となって、祖父は夜空をたなびく雲となった。
だからこんな風に誰かと過ごす時間は懐かしくて、楽しかった。
たとえそれが物言わぬ存在でも。
ぼくには、十分だった。
しかし、次第にぼくは神様が家にいることに、なんの楽しみも抱けなくなった。
お話がしたい。
神様と、いろんなことを話したい。
そう思うようになった。
同時に、すごく寂しい気持ちになった。
だって、神様はお話しできないから。
その願いは、叶えることのできないものだったから。
だから、苦しくなった。
どうしようもなく。
どうしようもなくて……。
ねえ。
どうしてぼくは、一人なんだろう?
一人、ぼっちなんだろう……。
わるいことなんてしていないのに。
毎日、お仕事だってがんばっているのに。
掟だって破ったことはない。
神の声に、背いたことだってない。
一度も。
一度たりともだ。
それなのにぼくは一人だ。
恐らく、この先もずっと一人。
虚しい日々をくりかえし、くりかえして。
そうして死ぬ。
それは、確定している。
死は、怖くない。
ほんとうに、そう思っている。
だけど、ぼくが死んだら、ぼくを荼毘してくれる人はいるんだろうか?
もしかしてぼくだけ、この肉体と共にこのセカイに閉じ込められてしまうんじゃないだろうか?
祖父のもとへとは行けずに、
凍ったまま、このセカイにとどまることになるんじゃないだろうか……。
それを思うと、とても怖くなった。
それ以上考えると、暗闇に飲み込まれそうで恐ろしかった。
ぼくは手を合わせる。
お祈りする……。
温かくて、
穏やかだで、
優しいなにかを。
懸命に、ぼくは祈る。
神様に。
くりかえし、祈る。
くりかえし。
くりかえし、くりかえし……。
そうしていると、だんだんと心が落ち着いてきたのがわかった。
そして、ふと、思った。
確信はない。
けれども可能性として、
神様を蘇らせる案を、ぼくは思いついた。
このセカイは絶えずくりかえしている。
終えた命は雪となってこの地に降り注ぎ、雪はいずれ川となって生命を育み、
育まれた生命は成長の過程で様々な想いを身に宿し、結実させて最期を迎える。
雪は、降り注ぐ――。
そんな循環によって、このセカイは形成されている。
くりかえし。
くりかえしだ。
だから神様をメパルパ川へと流せば、神様はまわりまわって、いつかは息を吹き返すんじゃないかと思った。
正しく云えば、
生まれ変わるんじゃないかと――考えた。
そうなれば、ぼくたちは話し合うことができる。
ううん。
それだけじゃない。
手を繋ぐことだって、
一緒に、歌を歌うことだってできる。
ぼくは急ぎベッドから飛び起きて、夜半過ぎにも関わらず外着に着替えた。それから揺り椅子に座る神様に、以前外で拾ったヨルリテンの外套を被せて背負うと、家の扉を開け飛び出した。
神様を背負っていたのに、目的地である川の畔に到着するまでに時間はそうかからなかった。
きっと、わくわくしていたから。
ぼくは一足飛びに夜のメパルパ川へと到着した。
闇に覆われているはずの川面を望み、ぼくは息を呑んだ。
メパルパ川は白く燐光し、その光は辺りを柔らかく、ぼんやりと包み込んでいた。
どこか温かい光。
懐かしい光だ。
川面にはやはり、絶えず沢山の色が瞬いているけれど、川が放つ光によって万華鏡のような形を作っていた。
夜空に流れる星々の大河のようだと、
ぼくは思った。
しばらくのあいだ立ちすくみ、ぼくはただずっと、川の音を聞いていた。
どれくらい経っただろうか。
ぼくは神様を背から下ろして、その白い御手を握り締めた。
再開を期待して。
今度は、言葉を交わせるようにと願って。
その際、ぼくは神様が生まれ変わってもぼくのことを忘れないようにと持っているものを交換した。
ぼくからは手縫いの手袋を。
神様からは色褪せたマフラーを。
ぼくはそのマフラーを自分の首に巻いて、神様の冷たい繊手に手袋をはめた。
それから再開の祈りを捧げ、神様を川へと投げ入れた。
どぼん、と音が響いて、
そして、
神様はぼくの前から消えた。
あの日以降、ぼくは欠かさず祈りを捧げている。
いつかくる日を願って。
神様が、ぼくの目の前に現れることを願って。
ただ一心に待ち続けた。
ずっと。
ずっと、ずっと。
だけど、その日はついぞ訪れることはなかった。
訪れずに、今日を迎えた。