ライオンの咆哮
声を荒げると主人はよく私を叱った。ただ、主人は怜悧な頭脳を持っていて、私のことを頭ごなしには怒らず、なぜいけないのか、次回からどのような行動をとることが私にとって最も賢明なことなのかを説いてくれるから、私は素直に彼女の言葉に耳を傾けることができた。まずは腰を落ち着かせる。尾の力を抜き、主人のターコイズブルーの瞳をまっすぐ見つめる。そうすれば彼女は口調を和らげてくれる。その日の夕飯を普段と変わりなく与えてくれるし、私に対して信頼をもすぐに寄せてくれる。主人である彼女は優秀な教師だそうだ。なるほど、彼女の元で学ぶ子供達は健やかにそして優秀に育ち、週末になると卒業生が訪ねてくるのも頷ける。彼女は多くの人に愛されているのだ。
同じ失敗を繰り返す私はその中でもとりわけ落第生の印を押されても文句は言えまいが、私にだって優れたところがある。自分自身の性格を温厚な方だと思っている。だから、そんな私が声を荒げるときには、ちゃんと理由があるというわけだ。
主人には娘がいる。体つきは私と同じくらいの子供だ。その娘がわんぱくでたまらなかったのだ。娘は私の後を追い回し、私の尾を掴み、私の背に乗り、私のことをあの図体だけでかく、無駄に立派な短足自動車と同じだと言うのだ。毛並みも何もない自動車と同じだと言われることは私にとって屈辱だった。今となっては悪気がなかったのだと思えばいい思い出なのだが、当時の私にとってはわかるわけもあるまい。
娘に問題が生じたのは、娘が小学校にあがった頃からだ。娘は「お父さん」とよく口にするようになった。それは私に向けられていた言葉だったが、私は残念ながら父親ではない。どうすることもできなかった。その頃の私はというと、主人の命を忠実に守り娘に声を荒げなくなった。娘も私の背中に乗らなくなった。近いところにいるのに少しだけ体の距離が離れてしまったように思う。娘は部屋を与えられたが、大半をリビングのソファで過ごした。だからなのか、広いリビングに不相応な娘と私の小さな体ではその空間を埋めることができず寒々しく感じた。娘は次第に父親の存在を諦めたようだった。私にそう見えただけだったのかもしれないが、娘は母親譲りの忍耐することの重要性を感じ取っていたのかもしれない。
それと同時に主人の帰りが遅くなった。
主人は仕事の関係で遅くまで残業するようになったと言っていた。娘に謝らない日はなかった。娘はそれを許した。仕事の他に何かをしているのか、それともうまくいかないことがあるのか、私には検討もつかないが、家に帰ってくると娘を寝かしつけて、彼女の寝顔を見ながらよくお酒を飲むようになったと思う。端整で美人な主人の横顔にテーブルランプの光が色濃く影を作っていた。私にはその時間が穏やかなものだと感じた。
しかし、なにやら、外が騒がしくなりはじめたのもこの頃からだ。散策は私の同胞との会議も含まれている。たまには野良の連中とも会話をする。野良の連中は顔が広いから、情報を取捨選択すれば利用価値があるのだ。この年の冬、ひっきりなしに話題になっていたのは、渡り鳥の群れが今年は近くの水辺に来ないという話題だった。私の胸の内がざらついて仕方がなかった。
春になった。
テレビの話題が、連日、同じものになった。
主人は沈痛な面持ちでお酒を飲みながら、ヒーターのそばで眠る私に言った。私の胸の内のざらつきが明確になっていくのがわかった。「海の向こうで戦争が始まってしまった。私の愛する彼らもそのうち兵士になるかもしれない。もう戦争を止めることはできないだろう」初めて聞く轟音が箱の中から聞こえてきた。戦争は恐ろしいものなのかもしれないと私は体中の毛で感じ取っていた。主人はその日から、娘と同じ部屋で眠るようになった。
夏になった。
主人は休日を最大限利用しては公園やテーマパークに行くようになった。私も同伴できるところを選ぶことを優先してくれたのか、留守番だったことはない。娘はとても喜んでいた。夏季休暇になると湖の畔にあるロッジで一ヶ月間を過ごした。この期間が私にとって最も幸せな思い出となった一ヶ月間であることは間違いない。主人と娘と野山を駆けまわった。泳いで魚を捕った。火を囲んで食事をした。星空を堪能した。主人の笑顔を目に焼き付けた。娘の笑顔も目に焼き付けた。笑った顔がよく似ていた。
秋になった。
娘に親しい友人ができた。校外に住む裕福な家庭の常識的で健康的な子だそうだ。相手側の計らいで、娘はかなりの頻度で友人の家で夜まで過ごすようになった。主人は相変わらず仕事が忙しいらしく、私は多くの時間を一人で過ごすようになった。寂しくはなかった。夏の思い出が私の心の中で生きていたからだ。庭先で、野良の同胞と会話する機会があった。
「風の噂だが、向こうの大陸では、多くの同胞が苦しんでいるらしい」野良は言った。
「それは、戦争のことか」私は心当たりがあったので聞き返した。
「ああ、その戦争というやつだ。人と人が殺し合いをしているんだ。しかし、よく知っているな。箱入りのくせに嗅覚はなまっちゃいなかったか」
「箱の中には世界を見渡せる箱があるんだ。それに主人も言っていた」
「そうか」
野良は足下の石ころを蹴り上げた。
「同胞を殺すなんて俺らには考えられないことだよな」
「一部にはそういう狂った奴らもいると聞くが」
「それは同胞じゃない」
都合のいい奴だと私は思った。
「でだ、人間の元にいればいずれ貴様も苦しめられるんじゃないのか。現にひとりぼっちじゃないか。ここ最近貴様の話題があがってくるほどだ。貴様を野良の中に迎え入れるという話もあがっている」
「そんなことはしなくていい。私は今の生活に満足しているよ」本音だ。
「けっ。吠え方も忘れたか? 貴様の主人であるところの人間によって同胞も苦しめられているというのに、とんでもない優等生に教育されやがって」
「主人は悪くないだろう。主人は聡明な人だ。誰かを傷つけるような人じゃない。その逆だ。主人は忙しいながらも娘を愛している。私は二人を見てきているんだ。戦争をするような奴らと一緒にするな。もう帰ってくれ」
淡々と説いた。吠え方なんかとっくに忘れてしまっていたかもしれない。私はそれからますますひとりぼっちになった。主人は深酒した夜に言った。「教え子が戦地で死んだ。私は彼らを守れなかった。戦争が長引けば犠牲者も増えてゆく。娘にも危険が迫るかもしれない。いつここが戦地になったっておかしくないんだ」声を押し殺して、主人もひとり苦しんでいるようだった。「戦争を止めることができないというなら、やめさせるしかないのか」主人は何度もひとり呟いた。それは覚悟に似ていた。
秋の終わりの祝日、よく冷えた朝に、娘の涙声を聞いた。リビングにてなにやら口論をしていたらしい。娘の目尻は擦った痕で真っ赤だ。主人は母親の穏やかな顔つきで小声で言う。私には聞き取れなかった。主人は家を出るときに私の頭に手を乗せた。「娘を頼む」その日の昼に主人の母親が家を訪ねた。私は落ち着かなくて、リビングを歩き回った。見知らぬ人に吠えぬように、主人の言いつけを守った。娘に何度も泣くなと言った。泣き止まない娘にまとわりつくものだから、私は祖母にとって、悪い犬と判断されたようだった。それでもかまわなかった。娘を頼まれたのは私だ。主人の言いつけは絶対だ。
主人はその夜、帰ってこなかった。主人は兵士になった。戦争をする人間になってしまった。
娘は私に向かって言った。「ママなんか大嫌いだ」
そして。
冬になって、環境が変わった。
私と娘は祖母の家に引っ越した。娘は友人に会えなくなった。私は庭に作られた小さな小屋でその冬を過ごすことになった。ヒーターのある家の中には入れてもらえなかった。私は祖母に嫌われてしまったらしい。
祖母の家は前の家よりも北にあり、山の麓の小さな街にあった。雪もたくさん降った。娘の持ってきてくれる一日一回のご飯はすぐに凍り付いた。しかし、私は声を荒げなかった。食べ終わるまで娘がそばにいてくれたからだ。私がそうしなければいけないというのに、まるで立場が変わってしまったかのようだった。私は悔しかった。そのかわり、なぜ主人が戦争をしにいってしまったのかを考えた。寒さの厳しい夜は庭を歩きまわり、何度も何度も主人の気持ちを考えた。私は主人の行動も娘の言葉もショックだったのだ。
ある日の夜、娘の部屋の窓が開いた。「中に入って」娘は言う。私が躊躇っていると、「大丈夫だから。おばあちゃん、寝るのがはやいの」と言う。まるで私が言葉のすべてを理解していることを知っているようだ。実際、知っていたのかもしれない。なぜなら娘は私とともに過ごした時間が誰よりも長いのだから。たとえ空白があったとしても、私にとってそれは問題ではなかった。娘もそう思っていたのかもしれない。開け放たれた窓にかけられたカーテンが寒風に揺れた。部屋が冷えてしまうと娘の体によくないと判断した私は入ることにした。娘は私をタオルで拭き、丁寧にブラッシングして、ベッドに招き入れた。ベッド脇の間接照明が、彼女のターコイズブルーの瞳を潤ませた。横顔にさす影は、主人とよく似ていた。娘はいつの間にか、大人のような凛々しい顔つきになっていた。私は娘の足下で丸くなった。「温かいでしょ」暗闇の中で、娘の声は嬉しそうに響いた。温かかった。
たぶん、と私は思う。
主人は、娘と同じで、戦地で苦しむ人々を助けたかったのではないかと思う。
誰かを殺めに行くのではなくて、助けに行ったのではないかと思う。
娘の優しい心が、私にそう思わせてくれた。
私は私のできることをしよう。娘が苦しいとき、誰かに驚異にさらされたとき、私は娘のために盾になろう。そして声を荒げるのだ。主人のように。そして主人のように娘のことを考え続けるのだ。
その日から私は娘のそばで眠った。祖母に見つからぬよう、私は祖母が眠りについたら娘の元へ行き、日の出と娘とともに起床して外に出る。体をなるべく清潔に保つために土いじりをやめた。
季節は一巡りした。
毎晩、私は娘の話を聞いた。新しい学校でのこと。新しい友人のこと。好きな人ができたと言うこと。算数が苦手で、図工の時間が好きだということ。今度、私と母と祖母の絵を描くということ。祖母は犬が苦手なだけで嫌いではないということ。今の生活は無理しなくてもうまくやっていけているということ。そしてたまに、戦争の話を聞いた。娘は主人に似て賢かった。終戦に向かって戦局は動いているという。その環境下で主人は人道支援をしているという。現地の難民キャンプで教師をしているそうだ。子供を守るために主人は戦っていた。そんなことができるのか私には想像できないほど壮大なことだったが、それが主人の戦い方だった。それを私は娘の口から聞けたことが嬉しかった。「手紙はくれないけど、ママのこと、誇りに思うよ。はじめは、違ったけど」娘はそんなふうに最後に念を押した。「だから帰ってきたら、いっぱい好きなものを買ってもらうんだ」何が良いのだろう。聞くまでもなく娘は言った。「前の家、買い戻して貰わなきゃ。また一緒にあの家で遊びたいね」それはいっぱいとは言わないのではないか。「いっぱい思い出あるから。もちろんここにもあるけど、私はあそこがやっぱり一番特別なんだよ」ああ、そういうこと。「それに私はひとりぼっちじゃなかったから、寂しくなかったよ」娘は、私が何もせずとも強く育っている。「ママに会ったら、謝りたいな」娘は立派に成長している、なあ主人よ。
冬のはじまり。私は渡り鳥の群れを見た。
祖母の家に手紙が届いたのはそれから間もなくだった。祖母の家が急に慌ただしくなった。それなのに、その日の夕暮れは、やけに穏やかだったのを覚えている。
私は今、最高の瞬間に直面している。
飛行機の発着場から直結している駅のターミナルは、軍服姿の兵士達であふれかえっていた。戦地から多くの兵士が帰還したのだ。熱気と歓喜で体が浮いてしまいそうだ。戦争はいけないことだ。人が死に、私たちも苦しい思いをする。私のように浮き足立つ者もいれば、悲しみに暮れている者もいるから、そんなふうに心を二分してしまう戦争は絶対にいけないことだ。けれど、私はこの親子を知っていることを誇りに思う。それだけは、他の同胞に自慢してやるのだ。人は素晴らしい一面もあるのだと伝えてやるのだ。
軍服に混じって、遠くにカジュアルな格好をした女性を見つけた。人々の足の隙間からわずかに見える程度だが、あの日、兵士になった日の服装と同じだった。間違いなく主人だった。主人は帰ってきたのだ。主人はきっと娘に軍服姿を見せたくないのだろうと私は思った。なぜなら、この赴任期間、主人は一枚も写真を送ってこなかったからだ。娘には不評な計らいだったが、貫くその姿はやはり主人だ。
私は犬だ。誰よりも先に主人を見つけることができる自信があるに決まっていた。この鼻が、主人を忘れるわけがない。私は、込み上げてくる気持ちに胸が膨らむ思いだった。声を荒げてはだめだ。吠えてはだめだ。私は娘の顔を見た。娘はきょろきょろと人混みの中、視線を彷徨わせていた。腰の曲がった祖母も同じだ。屈強な兵士が壁になって視界が悪すぎる。これでは見つけることができない。
だから、私はとうとう声をあげそうになった。ここにいると伝えたくてたまらなくなった。
そのときだった。主人が叫んだのだ。ライオンのように勇敢な主人は絶呼したのだ。娘の名前と、私の名前、そして私たちに寄り添う祖母の名前を、彼女は叫んだのだ。母親として主人として娘として、自分の無事を愛する人の無事を叫んだのだ。すると、人垣が割れた。わずかに主人と私たちの間に道ができた。主人は躊躇せずに私たちの元に向かって走り出した。娘もようやく叫んだ。祖母は手を離し、娘を送り出した。娘は母親に飛び込んでゆく。
私はついに堪えきれなくなった。あとで怒られてもいいし、ご飯抜きでもいい。
私は、私の愛する者のために、叫んだのだった。
おしまい