私が大きくなるまでに
「カイン、ミランダとの婚約はひと月前に解消されただろう。お前が望んだことだ」
「はぁ!?」
カイン・ガレット王子、17歳。ノックス王国ガレット王朝第13代皇太子。
今日、この日、長年の婚約者であったミランダ嬢との婚約破棄を、自分だけが知らなかったことを知った。
妹のスザンナ姫の10歳の誕生日パーティーには国内の貴族の多くが集まる。もちろんミランダも来るはずで、久しぶりに婚約者と会えるだろうことに心が躍った。思い返せばこのふた月近く、なにかと所要が重なって婚約者だというのに全く会うことができなかった。ミランダは頻繁に王宮を訪ねてくれるからこう長い間会わないのは婚約してから初めてのことだと思う。カインにとって、幼い頃からいつも側に寄り添ってくれていたミランダは姉のようでもあり、側にいてくれるだけで心が落ち着く存在だった。
王家主催のパーティーではホスト側で参加するため、いつもスザンナをエスコートするのでミランダとは会場で会うしかない。ひとしきりの挨拶を終えたあと会場内にミランダを探すも、なかなか見つからずそこで最初に違和感を覚えた。
いつも仲良く話をしているセレン嬢の近くにも、従兄だというスニル伯爵の側にもいない。次に、違和感を覚えたのはミランダを探している途中やたら声をかけられたことだった。しかも常とは違う方向からの声掛けとでもいうか、侯爵たちが自分の娘を伴ってやたらと声をかけてくるのである。自分の娘がいかに素晴らしく教養があり美貌があるかを滔々と語ってくるのだ。早くミランダを探したいカインはああ、だのはぁ、だの生返事で対応していたが、その時当の令嬢たちが熱っぽく自分を見つめてくることに嫌な感じがした。令嬢たちから好意の目で見られることは今までもあったが、今日は何かが違う。「選ばれる」と思われるとでも言おうか、「憧れの目線」ではないようにカインは感じた。これまでは、熱っぽく見られても、結局隣にはミランダがいたから視線もどこか諦めがあったのに、今日は妙にギラギラとして恐ろしさすら感じる。
そんな視線から逃げるようにきょろきょろとホール内を見て回っていると、父と話をするマグノリア子爵を見つけた。婚約者である自分がエスコートできない以上、ミランダは家族にエスコートされているはず。上の弟である近衛隊のマキシスは今日は城の警備に当たっているし、下の弟のメビウスはまだ社交界に顔を出していない。従兄のスニル伯がエスコートしていないとなれば、あとの候補は父親であるマグノリア子爵だけだった。
「カイン殿下、これはどうも」
近づくカインに気づいた子爵は目礼で挨拶を寄越した。ふとその目に悪意というか、憎しみというか、いつもの穏やかに微笑む姿からは考えられない雰囲気を感じ一瞬足が止まった。すぐに思い直し微笑みを携えて本題を切り出す。
「子爵、今夜はスーズのために足を運んでいただき感謝します。ところで、その、今日はミラはどこに? まだ姿を見ておりませんが」
そう聞くとマグノリア子爵はさっと顔を強張らせ、口元をわなわなと震わせた。
え、と思う間もなく、子爵は手に持っていたグラスをボーイに押し付けてずいと近づいてきて思わず一歩後ずさった。
「殿下! こんなことを言うのは本意ではございませんが、それは余りな言い様ではありますまいか!」
顔を真っ赤にして怒りを隠そうともしないマグノリア子爵にカインは呆気にとられた。なぜこんなにも子爵が怒っているのか見当がまるでつかず戸惑うばかりだった。
「ま、マグノリア子爵、落ち着いてください。何の話だか私にはさっぱり」
「なんて薄情な!! 無礼を承知で言わしていただきましょう、貴方にとって娘の12年はたった2ヵ月で忘れてしまうような月日だったと言うのですか!」
「忘れる? なんのことですか。ミラがどうしたというのですが」
「どうしたもこうしたも、貴方が言い出した結果でしょう!」
カインが口を開くたびにマグノリア子爵の怒りが増していく。どうしてこうなるのか全くわからず、カインは助けを求めるように父に目をやるが、父も苦い顔をして自分を見ているのに気づきなおさら混乱してしまう。
「モーシャス、落ち着いてくれ。カインの言葉は私から詫びよう」
「ああ、陛下、申し訳ございません。折角のスザンナ様のおめでたい席で私は……」
「気にしなくてよい、今のはカインが悪かった。控室を用意しているから、休んで行ってくれ」
「お気遣い恐れ入ります……。申し訳ございませんが、御前失礼させていただきます」
深いため息をついたマグノリア子爵は、最後にきつくカインを睨んでからホールを後にした。ぽかんと後ろ姿を見送るカインに、王は厳しい目線を向けた。
「今のは余りに配慮のない発言だったな、カイン」
「父上、何のことなのか、本当に私にはさっぱりなのです。ミラに何があったのですが」
本気でわからないという顔をする息子に、王もようやく様子がおかしいことに気づき、眉を寄せた。
「先ほどから何を言っているんだ? なぜ今更そんなにミランダのことを気にする」
「今更? 自分の婚約者のことを心配することの何が悪いのですが」
カインのその言葉に息を潜めて状況を見守っていた会場がにわかにざわつき始めた。令嬢や侯爵たちが特に大きくざわつく姿を見て、カインは心臓が嫌に早まるのを感じた。
「カイン、ミランダとの婚約はひと月前に解消されただろう。お前が望んだことだ」
「はぁ!?」
耳元で心臓の音が聞こえるようで、指の先から血の気が引いていくようで、カインは自分の荒い呼吸がやたら耳に着いた。
私が望んで、ミランダとの婚約を解消した?
「そんなのあるはずがない!!」
思うままに叫んだカインを前に、国王も、周りの貴族もみな、「今更なにを?」とでも言いたげに、ぽかんとした顔をしていた。
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カインが物心ついた時には、もうすでにミランダは婚約者としていつも傍にいた。5歳も年上の彼女のことは婚約者というよりも、幼い頃に亡くした、朧気な記憶でしか覚えていない姉の代わりのように思っていた。実際ミランダ自身もカインのことを自分の弟と同じように可愛がってくれた。いたずらをした時はしっかり叱られたし、公務が上手くいった時はとても喜んで褒めてくれた。周りにいる同じ年ごろの令嬢たちとは違い、カインにきゃあきゃあと甲高い声を上げないし、我儘も言わない。べそべそ泣いたりしないミランダの側はいつも落ち着いていて、カインは婚約者という枠を超えて、ミランダに懐いていた。
ミランダとの婚約はカインがたった5歳の時に決定されたことだった。病弱だったカインの身を案じた王妃が「長寿のマグノリア」の噂を頼ってこぎつけた婚約だという。
カインがそのことを知ったのは12歳の時だった。妹のスザンナ姫の5歳の誕生日の頃だっただろうか、お祝いと称してやってきた王妃の兄、フローベル公爵との会食でのことだった。
「カイン殿下が生まれたときにお前が焦ったりしなければ、婚約者には我が家のエリザベスを是非にと考えていたというのに」
和やかな食事の席で、話がカインの今後について流れた時だった。ちょうどその頃ミランダは王宮学校の高等二年生で、学校の成績も上位、后教育も問題なくこなしていて、カインにとって良い婚約者となったと王が言ったことに対する返答だった。ため息をつきながらそうこぼすフローベル公爵はいかにも残念そうといった口ぶりだった。
エリザベスとはフローベル家の末の令嬢で、血縁で言えばカインの2つ年下の従妹である。華やかな茶色の巻き毛とつんとした水色の瞳は客観的に見れば可愛らしい容貌だったが、その実、末っ子ということも相まって性格はわがままで自分本位。懐かれているのかなんなのか、カインは会うたびにまとわりついてくるエリザベスのことが正直言って苦手だった。
「兄様、エリーゼはカインの従妹ではないですか」
「よくある話じゃないか。陛下もそう思いませんか」
「だがミランダもよく学んで励んでくれている。今のところ不安に思うことはない。お気遣い痛み入る、アルフレッド」
にこりと音が出るような、有無を言わさぬ王の笑顔を前に、公爵は苦虫を噛んだような表情になった。
「全く……あんなくだらない噂で殿下の婚約を決めるだなんて……」
「噂とはなんなのですか?」
フローベル公爵のぶつくさとした小言の中に、聞いたことのない話が聞こえカインは興味のままに尋ねた。公爵はおやという顔になった後、とても意地の悪い笑顔を浮かべた。
「なんと、まあ。殿下はなぜあのマグノリアの娘がご自分の婚約者になったのかご存知ないのですか」
公爵の蔑んだような『マグノリアの娘』という言葉に少し引っ掛かりを覚えたものの、ミランダに関わる話を聞きたくてカインはそのまま頷いた。ふんと鼻で笑うような仕草をした後、フローベル公は滔々と語り始めた。
そもそも王家の婚姻において重要視されるのは血であり、家名であり、身分である。歴代の国王を見ても正妻に迎えた家柄はどれだけ落ちぶれても伯爵以上の貴族からだった。現王妃も国で1、2を競う歴史と家柄、財力を持つフローベル公爵家の長女であった。ノックス王国の長い歴史の中でも子爵位から王妃が出たなんてことは一度だってなかった。もちろん、愛妾であれば別だが、それだってほんの一人か二人という話。婚約者なんてもってのほかだった。
だというのに、王妃は最初に生まれた3人の子供を早くに亡くしたことに心を痛め、あろうことか社交界のくだらない噂を本気にした。それこそが『長寿のマグノリア』である。たまたま、偶然、何世代かにわたって健康で長生きする家系だったからという理由だけで婚約者として候補に挙げたのだ。もちろん貴族達は反対だった。だが可愛い我が子を亡くした王妃の気持ちも汲んでやるべきだと、話だけならいいだろうと受け入れた。
それだって十分な良識を持ってさえいれば、子爵家が受けるはずないと考えたからだ。くだらない噂話であるからと辞退するべき話である。それが出来ぬのならせめて側室の座に甘んじるべきだった。碌な手柄も財力も、王子のための後見だってない子爵家が! まさか婚約話を受け入れようとは、どの上流貴族も思っていなかった。
あげく娘は王子よりも5歳も年上だという。親が親なら子も子だと、厚顔無恥な馬鹿な子爵家は社交界から爪弾きにされた。それだというのに未だにマグノリアの娘は王子の婚約者の座にふんぞり返り、未来の王妃だと堂々と王宮にも出入りしている。
「アルフレッド、もういいだろう」
フローベル公爵が朗々と語る話は、ミランダが17歳になったのに体つきも顔つきもパッとせず、地味な色合いは王家の華やかさに欠ける……という批判に変わったところで王が制止をかけた。
「いや、これは赤裸々に話過ぎてしまいましたかな。殿下、ショックでしょうがこれが真実です。嫌になった時にはいつでもうちのエリーゼに……」
「興味深いお話ありがとうございました、伯父上」
まだ言い足りないようなフローベル公爵を遮り、カインはにっこりと微笑んだ。有無を言わせぬ笑顔は父親譲りだ。
カインは初めて聞く自身の婚約に関わる話に驚いていたが、話を聞いたとてミランダが王妃にふさわしくないとは思わなかった。ただそれよりも、なぜミランダが自分との婚約を受け入れてくれたのかがわからなかった。
王子だから? ミランダは身分で人を選ぶような人じゃない。顔が好み? 5歳の頃の自分は病人がかろうじて歩けているだけのようなひどい姿だった。なら家のため? マグノリア家は身分は低いが落ちぶれてはいないし、両親も断られたからと圧力をかけるような暴君ではない。子爵は出世を第一に考えるような野心家でもない。
考えれば考えるだけ、ミランダが優しかったからという理由しか思いつかなかった。病弱なかわいそうな王子のために受け入れてくれたのだと。もしそうだとしたら、病弱じゃなくなった今、ミランダはいつか自分から離れてしまうかもしれない。
そう思った時カインはこれまでになくショックを受けた。この時初めて、姉ではなく女性として、婚約者としてミランダを好んでいることに気が付いた。このままずっと彼女と共にいたいし、将来もずっと傍にいてほしい。離れるなんてとんでもない! カインが自分の意志でミランダを伴侶に求めた瞬間だった。
そばにいる理由が「病弱だから」だとしたら、それ以外の理由を持ってもらえばいい。つまり自分自身を好きになってもらおうとカインは考えた。これまで以上に勉強や鍛錬に精を出し、自分を磨き続けた。そうしていつからか国中の令嬢の憧れと言われるまでの美丈夫に成長していった。
そうして17歳を迎えたある日、例の日がやってきた。“夜の公務”についての講義の日だ。
王子と言っても近衛兵に交じって鍛錬をしていた身である、年上の兵士たちから面白がって「そういうこと」の話を聞かされたこともあった。だが『実技』となっては話は別だった。「聞く」のと「やる」のとでは大違いだった。
別に公娼の手練手管がすごかったわけではない。いや、カインにそれを比べる術があったわけではないが。ともかく『手ほどき』を受けている間中、カインの脳裏にあったのは「将来これをミランダ相手にやるのだ」ということだった。そう考えると目の前にいる公娼にミランダを重ねてしまいそうで、とても冷静ではいられないまま夜を過ごした。
そうして翌朝ぐったりとした心持ちで起きたカインは、寝不足ではっきりしない頭のまま、側仕えに向かって小さくこぼした。こぼしてしまった。
「ミランダと枕を重ねるなんて……(恥ずかしいし興奮しすぎてしまいそうで)とても無理だ、考えられない」
と。
あの発言はミランダを厭んだつもりで言ったのではない、むしろ逆だと言っても後の祭り。王族として発言には責任を取るべきだと両親は厳しくカインを断じた。婚約破棄を破棄したいのなら自分でもう一度ミランダを口説き落としてこいと背中を蹴られた。
それならばとミランダともう一度会うために何度もマグノリア邸を訪ねるも、門前払いを食らってしまい一目会うことも叶わない。マグノリア子爵がかなり腹を立てているらしい。
改めて両親にすがっても今回のことはカインが悪いと言ってとりなすこともしてくれない。ミランダを実の姉のように慕っていたスザンナにもお兄様のせいだと泣かれる始末で、泣きたいのは自分の方だと弱り切ったカインが最後の望みで訪ねたのは王宮の近衛隊の寮だった。
「マキシス、もう君しか頼れる人がいない。一度でいいからミラと話をさせてほしい」
近衛隊に勤めるマキシス・マグノリアはミランダの実の弟だ。カインの一つ年上の彼とは幼い頃にマグノリア邸で一緒に遊んだこともある仲だ。ミランダの次にカインと近い存在で、幼馴染ともいえるカインの弱り切った姿は見てられなかった。
「そうは言いますがね、殿下。俺も姉さんとの婚約破棄には怒っているんですよ」
「破棄なんかしていない!! あれは誤解で、むしろ私は……」
「アー! アー!! やめてください! 実の姉に向けたそんな感情は聞きたくありません! ……殿下の事情はわかってます、でも書類上では破棄されてしまったんですから」
はぁとため息をついたマキシスは目の前で懇願するカインをまじまじと見つめた。肌にはつやがなく、目の下には濃い隈がある。評判の美丈夫も形無しだ。こうなるまでに、姉は愛されていたのだと思うと少しだけ留飲が下がる思いだった。
「まぁ、事情が事情だし、俺も国にいるなら会わせてやりたいとは思いますけど」
「本当か!? ……いや待て、今なんと言った? 国にいるなら?」
「父に言いつけられて黙っていましたが、実は婚約破棄が決まってすぐ姉さんは留学してしまいました。今ノックスにはおりません」
カインは目の前が真っ暗になった。
あれからどれだけ頭を下げてもマキシスもマグノリア子爵もミランダの留学先を教えてくれず、方々に手を尽くしてやっとマリンカ行きの船に乗り込んだところまで突き止めたものの、その後の足取りはつかめず途方に暮れた。使者を送ったり公務のついでに自らもマリンカへ赴き探し回ったものの影の1つも見つけることができなかった。
思い返せば昔からミランダは外交問題に興味が深く、外国の話題には目を輝かせていた。マキシスが言うには婚約を結ぶ前はいつか留学したいというのが口癖だったらしい。もうミランダはマリンカを超えて、カインの手の届かないところまで行ってしまったのだろうかと思うと涙が止まらなかった。
そうしてミランダの行方が知れぬままいつしか5年の歳月が過ぎていた。
カインは22歳の立派な青年となり、皇太子として今では公務の半分以上を請け負っている。世代交代も間近という噂が流れるものの、その隣はいつまで経っても空白で、国民は王妃を迎えるのはいつかいつかと心待ちに、ミランダという婚約者の存在はいつしかすっかり忘れ去られてしまっていた。ただ一人、カインを除いて。
ミランダとの婚約が解消されてからというものの、カインの元にはありとあらゆるお見合い話が舞い込んできた。高位貴族はもちろんのこと、子爵家の令嬢の後釜ならチャンスがあるとでも言うのか子爵男爵といった下位貴族まで手を上げて、国内の未婚の令嬢全員が立候補したといっても過言ではない。カインはその話すべてを突っぱねた。表向きの理由は「未熟な自分はまだ伴侶を得るには時期尚早だから」。とはいえ、本当の理由が何なのか、誰もが察していた。
その日カインは昼から王都のはずれにある教会を訪問する予定だった。王家の紋の付いた馬車にやる気なく乗り込む。いつもはぴったりと閉じる目隠しを、今日はなんとなく隙間を残したままにした。勢いよく後ろへ流れる王都の街並みを流し見していると、不意に目の端に焦がれた色を捉えた気がして、気づいた時には叫んでいた。
「馬車を止めろ!」
止まるが先か降りるが先かという勢いで飛び出すと、元来た道を全速力で走った。道の途中で立ち止まる婦人の後ろ姿が見えた時、何も考えずにその手を引いた。振り返った灰色の瞳を捉えた瞬間、心臓が大きく動いた気がした。
「カイン殿下?」
聞きたくて聞きたくて堪らなかった少し低い落ち着いた声。最後に見た時よりもどこかあか抜けて、洗練された化粧をまとった顔は記憶よりもずっとずっと綺麗に見えた。かつて自然に任せて背に流されていた髪は綺麗にシニヨンにまとめられ、若い女性からすっかり大人の淑女となっていたが、紛れもなく、探し求めていた愛しい人だった。
「ミランダ……」
思わずこぼれた声に、少し怪訝な顔をしながらミランダははい、と一言返事をしてくれた。
「ミランダ」
「はい」
「ミランダ」
「……はい」
「ミラ……」
「はい。カイン殿下。いかがいたしましたか? お加減でも悪いのですか?」
うわごとのように繰り返す名前に、一つひとつ返事をしてくれる声と、握ったままの手から伝わるぬくもりに、これは夢ではないのだと理解した瞬間、目の奥から熱い涙が溢れた。
「なんで急にいなくなっちゃったんだよぉ!!!!!!」
感情のままにミランダを引き寄せて、思いのたけをぶちまけて成人男性にあるまじき態度でわんわんと泣いた。
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このままでは人目につくからという侍従の言葉で我に返り、追いかけて戻ってきた馬車にミランダを引き入れた。横で茫然としている侍女も無理やり乗せて、そのまま教会へ走らせる。
事情を説明し教会の一室を貸してもらい、周辺の人払いを済ませた。ようやく落ち着いたところで隣に座るミランダと改めて目を合わし、懐かしい灰色の瞳にまた涙が溢れた。
「で、殿下。お加減が悪いのでしたら私はこれで……」
「いや、駄目だ。離れないでくれ」
戸惑った表情で離れようとするミランダの手を強く握って押しとどめる。視線をうろうろとさまよわせていたミランダは諦めたように息をつくとソファに座りなおしてくれた。潤んだ瞳を乱暴に拭い、もう一度ミランダの瞳を見つめた。愛しい人が手の届く場所にいると思うと自然と顔が熱くなる。逸る鼓動を抑えるように、は、と一つ息をついてから口を開いた。
「……もう会えないかと思っていた」
「はぁ、まぁ、私もお会いできるとは思っておりませんでした」
熱っぽい視線のカインとは裏腹に、ミランダはずいぶん冷めた、というか、呆気にとられるほど落ち着いた態度だった。
「な、なぜ何も言わずに留学などと」
「申し訳ございません、こういうのは勢いが大事かと」
「私がどれだけ心配したと思う」
「え? それは、申し訳ございません」
「マリンカへ行ったと聞いて探したがどこにも見つからなかった」
「ええ、マリンカには結局1週間しか滞在しなかったんです。最初はマリンカの語学学校に入ろうと思っていたのですが、たまたま汽車の切符が取れまして、すぐにグナイゼへ向かいましたの。その後はクノイスルやアリッシャ、ガナ帝国にも足を運んで……。先日まではニシャスへおりました」
「そ、そんな遠くまで!? マキシスや子爵に聞いても行先は知らない、行方知れずだと言われて……異国で苦しんでいるのではないかとずっと心配していたのに……!」
「行方知れず、ですが? 実家には定期的に連絡しておりましたし、実家からの手紙も受け取っておりましたが」
きょとんとしたミランダの回答にカインはがっくりと肩を落とした。冷静に考えればあれだけ家族仲の言いマグノリア家が、ミランダの行先を知らぬわけがない。5年の歳月を持っても信頼が回復していなかっただけかと落ち込んだ。
がっくりと項垂れながらもミランダの手はつかんだままで、身動きの取れないミランダはまじまじと改めて5年ぶりの元婚約者の姿を眺めた。先ほどは精悍になったと思ったが、よくよく見れば成人男性としてはすこし痩せすぎというか、こけているというか……。肌のつやも良くなく、目の下には隈もあるように見える。22歳ともなればあの頃より多くの公務をこなしているはず。きっとお疲れなのだろうとミランダは結論づけた。
「殿下。恐れながらお疲れが出ているご様子です。きちんと眠れていらっしゃいますか?」
そう問いかけたミランダを、カインが呆然とした表情で見やった。その顔には「君がそれを言うのか」とでも書いてあるようだった。
「眠れるわけないだろう……君がいないのに……」
「は?」
「……眠るとミラの夢を見るんだ。いつものように笑っている君の夢を……。婚約破棄なんて勘違いだったんだって、よかったって近づこうとしたら目が覚めて、そうしたらやっぱりミラはどこにもいなくて……」
「……」
「だから寝るのを諦めて公務を詰め込んで、気絶するように少しだけ眠って、また夢を見て飛び起きて……。そんな毎日だから食事も碌にのどを通らなくて、そんなふらついた体じゃ怪我をするからと近衛の訓練にも混ぜてもらえなくなって、それで時間ができるとどこからか縁談やらお茶会からをセッティングされてしまうから隙間の時間にもずっと公務を入れて……そうしてこの5年過ごしてきたんだ」
カインの口から語られる5年間の様子があまりにも想像からかけ離れていて、ミランダは何か不思議な魔法にかかったような気持ちだった。
「もうとっくに、どなたか他のご令嬢と幸せになられていると思っておりました」
「どうして! そんなことありえない。私にはミラしかいないのに」
「ではどうして、婚約破棄だなんて」
「それは勘違いだったんだ! 私の不用意な発言が意図しない伝わり方をしてしまって……。ともかく、私はミラとの婚約を嫌がったことなんて一度もない!」
つかんだままだった手を一層強く握りしめて、カインはミランダの目を見つめた。
「私が傍にいてほしいのはミラだけだ」
「あらあら」
熱っぽいカインに対して相変わらずミランダの態度はそっけないというか、凪いだ海のように穏やかだった。カインにはそれがもう自分には一縷の興味もないのだと言われているようで恐ろしかった。ばくばくとうるさい鼓動が隣にいるミランダにも聞こえているのではないかと思うほどで、むしろ聞こえていればこの気持ちが伝わるのではと考えてしまう。
そんな不安を隠しもせず顔に出すカインを見て、ミランダはなんだか懐かしい気持ちを覚えていた。もうすっかり立派な青年だというのにまるで迷子になったのような表情に、出会ったばかりの幼いころの面影を見たようだった。
「殿下。わたくしはこの5年でたくさんの殿方とお会いしました」
「え」
「お付き合いに発展した方もおりました」
「え!?」
「なんなら良い方と出会えたらそのまま異国で結婚してしまおうかと考えておりました。両親も好きにしてよいと申してましたし」
「そんな!!」
さらりと告白したミランダの言葉に、カインは悲壮な声を上げる。まさか、もしかして、と最悪の状況を想像して涙がこみあげてしまう。そんなカインを見て、ミランダはふふ、とこぼれるように笑いかけた。
「ですが、こうして一人で戻ってきてしまいました。素敵な殿方はたくさんいましたが、どなたの隣もなぜかしっくりこなかったのです」
「え……」
ミランダは変わらず凪いだ落ち着いた様子で話し続ける。浮ついた様子はどこにも見えないが、思えば昔から彼女はずっと穏やかで、落ち着いていて、でもそれでも自分を愛してくれているのはわかったと、カインは思い出した。今隣にいるミランダはその時と何が違うだろうか。
「この度マックスの結婚を機に戻ってまいりましたが、それが落ち着いた後にどこへ行くかは決めていないのです、殿下」
何も違うものなどないと、もうカインにもわかっていた。
不用意な自分の発言で、不本意でも手放してしまった最愛の女性は、何も変わらずにいてくれていた。いよいよカインの目からは大粒の涙がこぼれだしていた。
「カイン殿下。わたくしはこの後、どこへ行けばよいと思いますか?」
ミランダの手を取ったままカインはソファから降りてその足元に跪いた。縋るように、懇願するように、ミランダの手に唇を寄せる。
「私の、」
涙で震える喉に力を込めて、あふれる涙でぼやける先にいる愛しい人を見つめて、カインは言った。
「私の隣へ、来てほしい。この先もずっと。愛してる、ミランダ」
瞬きを一つすると、瞳に溜まった涙がぽろりと落ちた。一気にクリアになった視界の先で、ミランダは優しく微笑んだ。
「ええ、ではそういたしましょう。愛してますよ、カイン」




